十、

 俺は疲労困憊だが、自分の心にいる人が危険な目に遭っているのを決して忘れていない。

「リザイラ!」

 慌てて駆け寄り、その名を呼んだ。

「おい、ベラ! リザイラは大丈夫なのか?」

「レオ……」

 安堵したように目を開けたリザイラが俺を呼んでいる。

「……臭いので、あっち行ってて貰えますか?」

「開口一番それかよ!」

 リザイラは余裕がないのか、笑顔を無理に作ろうとして、辛うじて、はにかんだ。

「ベラ、大丈夫ですか。蒼き狼は貴女を正気に戻したでしょう?」

 それまず、俺に訊いてくんないかな。と思いつつも、俺はベラを見る。

「どうして? 蒼き狼は私を殺したかったんじゃないの?」

「彼女は一応、再生の神でもあるんです。貴女の身体の内側――つまりは心です。それを焼き尽くす感覚は再生の痛みです。貴女の心は穢れで病んでいたから」

「でも、貴女はいま――」

 ベラは純粋に詫びるように涙している。

「大丈夫、眠っています。でも早く元に戻さないと――ぐっ――くっ――かはっ!」

 ゴホゴホという咳と共に、リザイラの口から血の塊が吐き出される。

「おい、大丈夫かよ」

 吐血とも喀血ともだいぶ違うその塊に俺は驚いた。

「これはベラの口づけのせいか?」

「違います。それは蒼き狼の血で防げました。呪いも浄化できましたし……」

 蒼い薔薇の花弁とは蒼き狼の血のことだったのか。自分の血ではなくヤアンのなのか。

「――ん? え? 君はあの時、自分の血を使ってたよな? 魔女も君の血で防ぐって」

 リザイラは額に大粒の汗を浮かべて、苦笑した。

「そうよ。この子は血が薄いから苦しんでいるの」

 ベラは涙に暮れながら言う。

「貧血?」

 俺の言葉に二つの呆れた溜息が吐かれる。

「私から言っても?」

 ベラはリザイラの額の汗を拭いながら訊くが、リザイラは手をすっと上げて制した。

 その手は傷付き、血にまみれてはいたが、今は傷が小さくなっている。

「私自身、最近になって知ったんですが……。実はヤアンに出会ってからこうでして」

 傷の治りが早くなったということか。それってつまり――。

「一応、末裔らしいですからね。このままだと、身体が作り替えられてしまいます――。まだ、それは……困るんですよ。それにヤアンみたいな純粋な血統ではありませんので、急激な変化には、身体が耐えられないかもしれない」

 リザイラも蒼き狼の血だけは引いていると言うことだ。今までは眠っていたその血が、ヤアンから影響を受けるだけで済んでいたらしいが、今は体内に宿してしまっている。

 その影響は計り知れず、それは急激な身体の変化を伴うと言うことか。

「急激な変化って、このままだとリザイラまで背が伸びるのか?」

 なるほど、二人は遠い親戚だったのか。そんなことを考えている場合じゃない。

「全身が伸びそうです。背が伸びるぐらいなら歓迎なのですが、正直、痛いです」

 リザイラはやっと微笑みを取り戻す。

 このままだと、ヤアンのように背が高くなるのか。

「それは、嫌だな」

「ヤアンに戻せば、問題ないのですが、それには方法が二つしかなくて」

「貴女が死ぬか、彼女に直接、返すかでしょう。どうして彼女を連れて来なかったの?」

「アンタが危ない人だったからだ!」

 ベラが俺を責めるような目で見るので、それを俺はそのまま返した。

「早くヤアンの元に戻らないと」

 やがて、意を決したようにリザイラは立ち上がろうとしてよろけて、俺が支える。

「貴方がいてよかった。支えていてくれますか?」

 足は立っているのがやっとで、触れた身体は高熱を発していた。

「背負うのと抱き上げるのどっちがいい?」

 俺は心配になって抱えようとするが、当人が暴れる。

「どっちも嫌ですから、歩きます!」

「君はフラフラじゃないか。こんな状態じゃ歩けないだろ」

「そういえば、方法ならもう一つありましたね」

 どうしても、背負われたり、抱き上げられたくないらしいリザイラはベラを見た。

 それを見て、俺はハッとベラを見る。

「アンタは空間転移ができたよな。頼むよ」

 俺は真摯な思いでベラの手を握って頼むが、彼女は逡巡してから、やがて頷いた。

「私では傭兵ギルドの中まで行けない。途中からは彼に背負って貰って」

 ベラはまるで入水するかのように湖に向かって歩き出す。

「何やってんだ」

「付いてきて、湖の水が私の『場』になるの」

 つまり、ベラの力を使って空間転移するには全身を湖に浸けなければいけないらしい。

「レオ、手を離さないでくださいね。実は泳げないんです」

「もう黙って抱えられてろ!」

 俺はそう言って、暴れるリザイラを麻袋みたいに肩に抱え、ベラに続いて湖に入った。

 リザイラを水に浸ける時に湯気が立ち上っていた。

 湖からギルドの近場まで行く過程は水の回廊の中にいるようだった。

 硝子で再現できないだろうか、と思うほどの美しい光景に俺は息を呑んだ。

 だが、硝子は間を魚が跳ねて、移動はできないだろう。

 この場所は特殊な空間で、人の時間が流れていないそうだ。魚は違うらしい。

 もっと聞き慣れず、難しい言葉でベラが言うのをリザイラがそう説明する。

 リザイラはこの場所では元気である。それでも俺は念のために抱えていた。

「そういえば、魔術図書館の中に、こんな部屋がありましたよ」

「あそこはまた別の空間よ。これは自然そのものなの」

「それにしても、どうして私を仇だと思い込んだんですか?」

「最初は魔女と、呪いを受けた相手に……。結局、私のことだった」

「私は魔女ではありませんけど……」

「それと彷徨っている時に、誰かが教えてくれたの。黒髪だとね」

「それだけですか?」

「……魔術図書館からの逃亡者だとも」

「最悪ですね。ただの妨害行為か。黒髪の逃亡者なんて割と沢山いますからね」

 リザイラの舌打ちが聞こえる。実際はいないのだろう。

「そうよ。この工程を企てたモノがいるのね。でも免責を取り付けたのでしょ?」

「ええ、まあ。それでも、この先どうなるか、わかりません」

 リザイラがくすくす笑った。

「トチ狂った魔女に襲われるとか?」

 ベラは笑って自嘲する。

「そうですね……」

 魔術師同士の会話には付いていけないので、口は挟まないが、ベラはすっかりまともだ。

 元は優しい人だったのだろう。リザイラを心配していた目が物語っている。

「アンタ、これからどうなるんだ?」

 俺は急に心配になって、ベラに訊いた。

「愛した人のところに行ければいいけど、シヴァの娘は子を為すまで簡単には死ねないの」

「それは愛する相手じゃないとダメなのか?」

「どうかしら、貴方が子種をくれるの?」

「いや、俺は……」

「無理しないで、いいの。このままギルドに出頭するわ。そういう言い方でいいのよね?」

 まだ深くそういうことを知らない俺には答えられない。

「裁きはヤアンが下すでしょうから、運が良ければ死ねるでしょう」

「蒼き狼の裁きで死ぬのも、いいかもしれないわね」

 彼女の手でなら簡単に逝ける、とベラは清々しく笑った。

「ですが、私が恩赦を願い出ますので、貴女は生きて苦しんでください」

 リザイラの口からぴしゃりと出た言葉にベラは振り返って、哀しく笑った。


 ギルドに近いぎりぎりのところ、それはあの屋敷跡の訓練場のことである。

 黄昏時にベラがここに来るなんて、またそれも何かを示しているようだ。

 水の中から飛び出すと、リザイラは熱にうなされ始める。

 俺は容赦なくその身体を四肢が楽なように抱え上げた。

 本人はじたばた暴れるが、その力は元よりも弱くなっている。

「急いだ方がいいわ。私もちゃんと後を追うから」

 ベラがリザイラを診てから俺に言った。

「ありがとうな」

 俺はこれが彼女との最後の別れになればいいと思った。

 復讐を求めて彷徨う魔女はもう存在しない。だから――そう思って走った。

 ギルドの主人の溜息や、傭兵たちの賭けの材料にされているのもどうでもいい。

 とにもかくにも、ヤアンの部屋に急ぎ、走った。

「きゃあ!」

 白い少女――ヨアンナが驚いて悲鳴を上げる。

「いちいち騒ぐなよ」

 そう言うと夜這いでもしているかのように感じるが、仕方がない。

「まあ、さっさと済ませてくれよ」

 俺はヤアンの部屋にリザイラを置いて出よう。

 この二人の甘い時間は邪魔したくはないし、正直言うと見たくなかった。

 甘い時間とは語弊もあるが、そうあって欲しい気持ちと相反する気持ちが俺にはある。

 俺は廊下の窓から外を見ていた。

 下には厩舎とちょっとした庭が見える。

 馬鹿正直に出頭してくる魔女がこちらに手を振る。

 あの晴れやかな顔は、死を望んでいる顔であるということが無性に腹が立った。


 リザイラはレオニールとベラには蒼き狼は眠っていると言ったが、実は起きている。

 リザイラは溺れる意識の中で初めて蒼き狼と邂逅した。

 それには身体を引き裂かれるような感覚が付きまとう。

 骨は軋み、筋肉は裂け、神経は悲鳴を上げ、血は沸騰する。

 ヨアンナの姿でリザリアを惑わし、蒼き狼になるように誘惑した。

 それが無性に腹立たしく、苛立ちよりも怒りで押しのける。

 与えた運命を詫びる蒼き狼にリザイラは首を振った。

「そんな言葉いらないから、ヨアンナを助けてください」

 リザイラの必死さを誉めながら、もしも魔女がいなかったらどうしていたかと訊かれる。

「それも計算の内ですよ。ベラが協力的ではなかった場合は脅して従わせたでしょう」

 その発言は流石に強がりだろう、と嘲った。

「とりあえず、現実に帰ります。どうせ少し残るのでしょ?」

 どうすれば神の力を受け入れてくれるのか、と問うてくる。

「時間をください。それとヨアンナにはこのことは秘密ですよ。言ったら殺す」

 そんなことは実際できやしないが、蒼き狼は押し黙った。

 リザイラは蒼き狼に背を向け、夢の帳から抜けていく。

 目の前には心配そうに、リザイラを覗きこむヨアンナがいる。

「よかった。また会えましたね」

 そっとその頬に手を伸ばすと、それを柔らかくなってしまった手が包み込む。

「顔色が悪いし、熱があるわ。何があったの?」

「ヨアンナ、蒼き狼に戻ってください」

 リザイラは上体を起こし、ヨアンナの顎に手を添えた。

 きょとんとしたヨアンナの顔を見て、微笑むと彼女はリザイラの手を跳ねのける。

「何するの!」

「はあ? 蒼き狼に戻ってください」

「それにはあなたと――そんなことでしたくないわよ!」

 ヨアンナはリザリアを拒絶していた。

「この方法しかないんですよ!」

「リジィ、いや、やめて。贅沢は言わないけど、せめてあなたの気持ちが欲しいのよ」

 身体中が痛いし、ここまで扱ぎ付けた苦労を無駄にしたくはない。

「私の姿をしたベラとはした癖に」

「そういうこと言うから嫌いよ。あなただってしたんでしょ――んっぎゃ!」

「今の私にすら押し倒される癖に!」

 リザイラはヨアンナを言葉通りに押し倒していた。

「ずるい」

「それは私の台詞です! はいはい、ちゃんと気持ちを込めてしますから」

 リザイラは半ば無理やりに、初めてヨアンナに口づけする。

「――んっ!」

 ベラの時とはだいぶ違った。狼は暴れ狂いながら流れ出ていく――。

 ヨアンナに蒼き狼の力が戻っていき、リザイラは肉体を苛む地獄から解き放たれた。

「くっそ! ふざっけんなっ!」

 ドンっ!  

 俺はヤアンの部屋の中でヤアンが怒りの声を上げ、何かが扉に投げられた音を聞いた。

 やっと終わったか。筒抜けだった中でのやり取りは聞かなかったことにする。

 扉が開いて、リザイラが出てきた。

「彼女は眠ってしまいました」

 リザイラの唇の下には歯の跡がある。

「さっき、投げられたの君?」

「察してください。乱暴な人なので」

 肩を上下させ、むくれている様子を見ると図星のようだ。

「大丈夫?」

「痛いです。でもあっちも今は色々辛いはず……」

 どういう風に投げ飛ばされたか、経験上、想像が付くが、それでも思いやっている。

「じゃあ戻ったのか……。何で眠ってるの?」

「まだ完全ではないので……。毒や薬と同じですよ。勝手に眠っちゃいましたけれど」

「起きた時が怖いな」

「蒼き狼が落ち着かせるでしょうが、さっきの剣幕は怖かったです」

「素直でよろしい」

 俺の言葉に、リザイラの不機嫌な時の笑みが返って来た。

「ベラは? ちゃんと逃げちゃいましたか?」

「そう願ったけど、ちゃんと来てる」

 俺は窓の外を顎でしゃくった。その時、風が吹き、何か嫌な予感がして俺は走った。

 外は夕闇から闇夜に移り変わろうとしている。

 空では三日目の満月が笑っていた。

「ヤアン!」

 リザイラの叫び声が聞こえる。それに続いて懐かしいヤアンの伝法な声が聞こえた。

「くそ女、ふざけやがって!」

 ベラに逃げるように伝える前に、蒼い光りを帯びた何かが窓から奔った。

 そして、二つの刃が舞い、ベラを襲う。

 俺は槍で防ごうとするが、間に合わずにその閃光に斬られた。

「レオ――っ!」

 リザイラの悲鳴と、ベラの驚く声が遠くで聞こえる。

 槍は三つに斬られ、俺もその凶刃に倒れた。

 双剣を手にした白いドレスの女が最期に見る顔なんて、いや、まあいい。綺麗な貌だ。

 誰かを庇って死ぬのも悪くない。俺の死はヤアンに何かを教えれただろうか。

「レオ……なんで……」

 ヤアンの口から俺の呼び名が漏れた。

 死は冷たく、ひどく寂しい気持ちになったが、痛みを感じないというのは本当なんだ。

――いや、絶対痛いはずだろ! 頭と背中が痛いんだから!

 むくっと俺は上体を起こす。

 ヤアンの双剣に俺は身を晒し、その剣圧で吹き飛ばされて頭と背中を軽く打ったようだ。

「あー、びっくりした」

 そう言って俺は、再びベラを殺そうとするヤアンの前に出た。

「レオ、さっきから何のつもりだ!」

 ヤアンの怒声が響き渡る。

「ヤアン、久しぶり?」

「あれでも、一応オレだ。それよりそこどきやがれ。てめえの出る幕じゃねえ」

「待てよ。なんだよ。恥ずかしいのか? 悔しいのか?」

「当たり前だ! 何よりも人の気持ちを利用したやり方が許せねえんだ!」

 あの哀しい凍てついた瞳が俺を睨む。

「アンタは恥かしがり方が極端すぎるぞ。それにこの人は充分に苦しんだ」

 俺は必死にベラを庇った。ヤアンは怒りよりも、己の恥辱を晴らそうとしているだけだ。

「ああ、知ってるよ。でも、オレの気持ちはどうなる? それはどうでもいいのか?」

 その気持ちはよくわかるが、そんなことで刃を血で染めて欲しくはない。

「俺にアンタの慈悲を見せてくれないか。それにこの人にとって死は……安らぎなんだ」

 ヤアンの瞳に揺らぎが見え、深い息を吐いて自己の昂ぶりを和らげていた。

 それに俺はひどくほっとした。

「お前、死にたいのか?」

「そうね。愛した人はもういない。あの世で再会させて」

 ヤアンはその言葉に首を傾げる。

 そして瞳を左右に動かし、何かを振り払うような仕草をした。

 見えない誰かの話を聞いているように虚空を睨み、首を振って肩をすくめた。

「なるほどな。シヴァの系譜か。なら二百年待てばいい。それまでは孤独に生きろ」

 ヤアンは裁きを下すようにベラをまっすぐ見据えた。

「どういうこと? 二百年も孤独に耐えるのが罰なの?」

 ベラの戸惑いに、ヤアンは笑う。 

「もし、二百年後お互い生きてたら殺してやるよ。神は千年呪うと言うが、先祖の呪いは百年も続かないんだ。その内、別の相手が現れるさ」

 二百年先も生きていることが、当然のように言う感覚が、俺には実感が沸かない。

「意地が悪いのか、優しいのかわからない人ね」

「オレの少ない慈悲で、選択する時間をやるだけさ。オレは審判を下した」

 ヤアンの視線が通りの方に向けられ、俺はその先に老紳士の姿を確認した。

「おーい、ヤアン。とりあえず、他の連中が来る前に男物に着替えてこい」

「へいへい」

 そう言って、ヤアンは魔女に背を向けて跳躍した。そのまま窓の中に消える。

 俺の眼には空を駆け回るという神がヤアンのその姿に重なっていた。

 夜の帳に満月の魔力をまとい、煌めく蒼き狼。

 リザイラは呆れながら、普通に酒場へと向かう。

 そういえば、漆黒もまた空の色なのだということを俺はこの時に初めて悟った。

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