3-17 カーバンクルと撮影機
「ヒガン、俺帰りたい」
レーヴェが
クコまでもつられて不安に駆られたのか下瞼に涙が溜まっていった。
「おとうさん……。おとうさんは? おうちは?」
子供二人が泣き出した。
泣き声が耳を刺す。
女郎蜘蛛は興味が無さそうに遠い何処かに視線を漂わせていた。
クコが寂しさを紛らわせるためか、一人二役芝居を始めた。
「おとうさん! 『なあに?』 おとうさん、だっこ。『よしよし、いい子だねぇ』……」
おとうさん――つまりはムカゴを演じる時だけ声音を低くしようとする。
純粋に父親を呼ぶクコの姿が癪に障った。
ヒガンの母が死んだ真夏の日に引き戻された気分だった。
唯一母親に愛されていた双子の片割れ、タンポポ。
父親の愛情を疑いすらしないクコ。
母の冥土の旅に便乗し損ねて、一人生き延びたヒガン。
ヒガンを「汚い」と罵り、何もヒガンの人生に価値あるものを残してくれなかった母親。
ヒガンは振り向きざまに、怒鳴った。
「いい加減に、黙って!」
それは自分への、もしくは母親への怒りを転化したものだった。
爆発したヒガンを前に、クコはひゅっと肩を竦ませて、女郎蜘蛛は静かに見詰めていた。
レーヴェが何を思ったのか泣き顔を引っ込めると、女郎蜘蛛とクコを立たせて背を押して退出させた。
それから、ヒガンから手を広げた一人分離れた場所に、用心深く立った。
ヒガンは罵詈雑言を吐き出した。
レーヴェはそれに手を触れることはなかった。
ヒガンが全て投げ出し尽くした頃。
レーヴェは達観したような静けさで、ヒガンを椅子に誘導した。
彼は黒く眩しい窓の外を眺めた。
「……痛いね」
ヒガンの喉の奥が、ぐうぅ……と鳴った。
「イライラするね」
…………。知った口を利くな、と頭の中で反発したが言葉にはならなかった。
「悲しいね」
…………。ヒガンは拳を握り締めた。
「ムカつくね」
透き通った泉のようなレーヴェの目が、ヒガンを映した。
椅子に腰掛けたヒガンと隣に立ったレーヴェの目線はほぼ同じ高さにあった。
「でもさ、ヒガンは誰のもの?」
「私は、ムカゴのもの」
「そうだよね。じゃあ、ヒガンの感情もムカゴのものでしょ?」
有らぬ言葉が、シャボンの泡のように、かぷりと口から抜け出た。
自分の口が、自分のものではないような。
違う、と訂正したかったのに、自分の内からムカゴの声が蘇ってきた。
――お前は僕のものだ。いたみも、きょうふも、こころも、僕のものだ――。
いつ言われたのだろう……? そうだ。確かソラの実験で……。
ヒガンを、水中に沈んでいくような感覚が襲った。
不純物が一切無い濃密な水が底へ底へと沈めようとする。
しがみつくようにレーヴェの背に腕を回した。
「……たんぽぽ……?」
数年振りに、双子の片割れの名を呼んだ。
「なあに?」
当然のように返事がきた。
あの頃と変わらない子供の姿でありながら、あの頃には決してしない包容力を体現した響きだった。
「……母さん?」
「うん、なあに?」
そんな返事、母さんはしない。
そもそも返事をされた記憶がない。
だから違う。こいつは母さんじゃない。母さんはいつも私を醜いと思ってた。
腹が立った。
それなのに、別の名も浮かんだ。
「ソラぁ……」
「うん。どうしたの? ヒガン」
「……父さぁん」
「はぁい?」
全部に返事が返ってきた。
ヒガンが会いたい人。見ていて欲しかった人。
誰とも適切な関わりは築けなかった。
築けなかったはずの皆が、今は返事をしてくれた。
小さな腕だけがヒガンの肩を支えていて、ヒガンが思いっきり力を込めて抱き着いて、指の跡が食い込んで……、きっとレーヴェは痛いだろう。
しかし、彼は涼しい顔で、拒む素振りすら見せなかった。
「……何で返事すんのよ」
少年の彼は宝物にするようにヒガンを抱えていた。
「ヒガンが返事して欲しそうだったから」
「……はっ」
失笑が漏れた。
水の中から打ち上げられて、空気が戻ってきた。
陸に上がって身体の重さを意識して初めて、ひたすら沈められたと思っていた水に浮力もあったのだと知った。
ヒガンは不自然な窓の闇を、レーヴェと共に妙に平静な気分で眺めた。
と、客間の扉が開き、クコが顔を突き出すように覗かせた。
途端にひゅっと強張ったヒガンの肩を、レーヴェが数回擦って宥めた。
クコは黒々とした静謐な瞳をして、だが、好奇心と不安の混じった外見通りの幼児の面持ちだった。
ヒガンは無意識にふうっと深く息を吐いた。
「……だっこ」
クコが小さな両手をヒガンに伸ばした。
母親になりたい、というヒガンの根源的欲求を的確に刺激する仕草だった。
クコの無条件の親愛が――実際には、ムカゴも乳母もいないこの束の間かもしれないが――自分に向けられた。
母親だとこの子に承認されたい――。
抗いがたい思いが込み上げた。
気付けば、クコを膝の上に抱き上げていた。
ああ、とうとう捕まってしまった――。
ヒガンの胸に諦めが去来した。
せめてもの抵抗に、
「この悪魔の生まれ変わりめ。あんたは私の引き立て役なの。絶対あんたを私好みに育ててやるから」
クコは目を細めて
だからこの時、普段は黒いクコの瞳が紫を湛えたことに誰も気付かなかった。
ヒガンは得体の知れない子供を二人も傍に置きながら、手放す気にはならなかった。
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