2-5 妖精と箸置き


 深閑とした朧月夜。ヒガンの実家である古民家の一室。


 ムカゴは、畳の上に敷いた布団に包まってすやすや眠るクコを、息を詰めて見守っていた。

 クコの寝息は鼻から微かに聞こえる程度。何故なら今のクコには口がないから。


 その夜、ヒガンは帰宅しなかった。

 ヒガンの生家にクコと二人きりだ。

 増えたり減ったりするあの不思議な子供たちも、あれ以降姿を現さなかった。


 ムカゴはすぐさまクコから離れなければ、という焦りに駆られる一方、このまま二歳の娘を放置することはできなかった。


 年明けの寒さを引き摺って虫の音も聞こえない。古い畳の匂い。暗闇。


 クコに触れたい。抱き上げたい。額をくっつけ合って、くすくす笑うこの子の吐息を頬に感じたい。


 だが、これ以上接触を続ければ、この子は人間に戻れなくなるかもしれない。二度と笑い声を聴けないかもしれない。


 ムカゴは一晩、娘の顔を見詰めながら思い悩み、気絶するように眠ったのは明け方だった。


 ムカゴが目を覚ましたのは、クコの気配が遠ざかったからだ。

 薄目を開けて視界に入ったのは、ヒガンがすっかり身支度を整えたクコにリュックを背負わせ、部屋を出て行く光景だった。


 ムカゴはすぐに引き留めることはせず、彼らの後を付けることにした。


 以前、イツキが「ヒガンはこちら側に関わりのない人間だ」と言った。

 であれば、まずは完全にクコのことをヒガンに任せられるようにしなければ。


 血の繋がりのないクコを気まぐれに引き取った彼女は果たして信用できるのか。ムカゴはまだ半信半疑だった。それを確かめたい。


 無論、現状では親権はヒガンにあり、彼女がムカゴの許可を取らずにクコを連れ出すことを非難する資格をムカゴは持たない。


 けれどムカゴは自分だけがクコの親たり得ると思っていた。自分の認めた人間にしかクコを任せられないのは当然だった。


 ヒガンは迷いのない足取りで田畑と民家に挟まれた細道を歩いていた。

 高価なヒールが汚れることは気にならないらしい。


 二歳の少女の歩幅をまるで鑑みず、クコの手を引っ張る。

 ムカゴはよっぽど飛び出して行こうかと思ったが、クコが不思議そうに瞳をくりくりさせて懸命にとことこ付いていく姿が可愛くて、今は成り行きを見守ろうと自分を説き伏せた。


 ヒガンは軽薄そうな白衣の男と待ち合わせていた。ムカゴとは面識のない男だ。


 ヒガンが突き放すように、男に問うた。


「あんたが実験に使ったのはこの子が最後?」


「ああ、そうだ。連れ出してくれてありが……」


「いい加減にしてよ」


 ヒガンの声色には煩わしさと軽蔑。

 男が機嫌を窺うように彼女に卑屈な目を向けた。


「こうも不始末を押し付けられると愛想が尽きそうって話。協力するって一度口に出した以上は私も全面的に協力しようと思ってたわ。でも、実験するなら足のつかない人間にしてって言ってあったわよね?」


 ムカゴはつい割り込んでいた。


「娘を返してもらえますか」


 男がムカゴを無遠慮に眺めて、こいつは誰だという目をした。


 ムカゴはヒガンの手を払い除け、クコを背に庇った。少女がムカゴのパーカーの袖を掴んで、安心したようにくっついた。


「僕の娘に、何をしようとしてたんですか」


「娘……?」


 反芻した男が平静を失いかけたが、ヒガンは平然と返した。


「口を貰っただけよ」


 クコの口が消失したのは、ムカゴのせいではなかったらしい。


 こいつらか。こいつらがクコを傷つけたのか……――。


 一気に沸点まで沸き上がった怒りを、無理矢理喉の奥に押し込んだ。優先すべきは自分の感情ではない。


「娘の口を返して下さい。でないと通報します」


 男が狼狽えて言い募った。


 言うには、娘の口は必ず返すから通報はしないでくれ、ただし実験を成功させなければ返せない、ヒガンやムカゴが手伝ってくれたらすぐに終わるから、ということだった。


 ヒガンもムカゴも男に協力することとなった。男の名はソラといった。





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