彼女の傷③

 過去を少しずつ切り分けながら、マキさんと言葉を交わす。

 まとめて終わらせれば早かろうに、そうしない。どんな見極めをしているかは分からないが、休憩しようという台詞でその日の課題はお終いになる。

「養父が兄を傷付けたら、お前はとても怒るはずだ」

「そうですが……兄と私は違います。私は耐えられる人間でした。無事に生きています」

「無事じゃないから話をしてる。無事だとしても、加害が許される理由は無い。あの男は相良という『人間』を加害した。それをまず、理解してくれないだろうか」

 その「まず」に、頷きたくなかった。

 マキさんに拒絶を伝えた。気持ち悪いから、とても嫌だと言った。彼はいつも声を聞いてくれたから。私が嫌だと言うことはやめてくれたから。

 彼は驚いた顔をして、無言のまま逡巡しゅんじゅんしていた。「ごめん」と小さく呟いた。

「……人間として生きていてよかったんだ。兄と同じ様に庇護の下で愛され、慈しまれて当然だった。傷つけられることに憤って、嫌だと声を上げてよかった」


 伸ばされた彼の手を叩き落としていた。

「……あの場でそれ言って、何か変わりましたか」


 そんなもので現実が変わるのなら苦労しなかった。

 叫んで喚いて何になる。拒んで何になる。満足げに嘲笑されて、楽しそうに殴られて、えた悪臭のする性器を喉奥まで突っ込まれる。嘔吐えずいて生理的な涙が滲むだけで、恍惚こうこつと愉悦に満ちたべたつく視線がまとわりついた。

「私の主張は許されない。嫌悪を、抗議を言葉にしたって無駄だった。私の声など全く無意味だ。貴方はお解りでしょう。見ていたんだから、知ってるでしょう」

 自分が人間だと思いたくなかった。あれは人間ではなかったのだから。

 そこにいたから殴られただけだ。加害される理由なんて無かった。それでもいい。でもそれなら私は、自分に起きたことをどうやって飲み込めばよかった。ただの人間が理由なく痛め付けられる現実を、どの様に理解すればよかった。

「……どうやって納得すれば良かったですか。そういうモノだから仕方が無いと思う他に、どう折り合いをつけたら良かった。どのように生きていたらご満足でしたか。尊厳を必死に守ろうと抵抗して、それでも暴かれ続けることを耐え忍ばなければいけませんでしたか」

 多分、笑っていた。頬がって痛いから。

「人間として、屈辱に耐えかねて自死するほうがお好みだったか」

――吐き気と嫌悪で頭がぐらぐらしてきた。

 自室として与えられた個室までどうにか歩いて、扉の前に居座り、篭った。吐かなかった。心音がばかに暴れている。我ながら情緒が滅茶苦茶だと思った。

 マキさんを置いてきたことに気付いたけれど構わなかった。彼はこちらの生存に不安を覚えると、視野に捉えておく為なのか引っ付いてくる傾向がある。今やられたら確実に拳が出る。

「相良」

 扉が小さく叩かれた。無理に押し入ろうとはしなかった。

 ずる、と背中が擦れる音が聞こえる。彼も、扉を背にして座り込んだのだろう。

「……納得しなくていい。傍観していた俺も含めて一生許さなくていい。……生きていてくれる他には何も望まない。自分の命を守ってくれて、ありがとう」

 納得しなくても、いいのだろうか。

 なら、私はどうすればいい。

 飲み込めない事を抱え続けて生まれる歪みを、どこで、どのように折り合いをつければ。同じ様な理不尽に遭った人は、どうやって生きている――それに。

 私はやっと、彼が罪の意識を抱えていることに気付けた。私の過去と向き合おうとしてくれる理由が、自責の念だと理解した。だったらそれはお門違いだ。


 扉を叩く。彼が怪訝に開けてくれた。

 座り込んだままの彼に縋り、伝えるべき事を口にする。

「……マキさんが、兄は幸せだと教えてくれたから、正気でいられました。知識を与えてくれたから、師匠にも訓練をつけていただけた。……私を傷付けたのは貴方じゃあない。事実はそのまま受け容れてくださらないと困ります」

 けれど彼は、理屈だけでは納得出来ないのかもしれない。

 感情が受け容れないと頷けない。罪悪感が理解を拒絶することがある。他人を説得するなら理屈と感情どちらも宥めろと、師匠はよく言っていた。

――どうすれば彼の気持ちに訴えられる。

 兄や母なら悩まない。家族なりに近くにいる気安さもあった。師匠はだいたい全部言うし遠慮がないうえ、互いの素性には触れない暗黙の了解がある。

 他人と関わるのは難しい。どうすれば彼の痛みを除けるかも解らない。彼に何を伝えればいい。私が彼を恨んでいないことか。たまわった知識に感謝していることか――それが? どうなる。私は一体何様のつもりだ。

 人の心を動かそうだなんて、考えればきりがないほど傲慢だ。

「……私、は」

 罪悪感を除くと言えば聞こえがいい、本質は無遠慮な干渉と変わらない。深く関わろうとするほどそうだ。彼が私の拒絶を跳ね除け、ずっと根底に在った激情に触れたのと同じ。

 私の荷を軽くしようとしてくれたことと、同じ。

「……お前の話をしてるのに、俺を気にしてどうするんだ」

 苦笑する彼を楽にできただろうか。私が恐がらなければ。彼のような思慮があれば。

 母のように、声の「魔法」を操れていたのなら。

「……自分から出るのが傲慢な台詞ばかりで、何も言えなくなりました」

「考え過ぎて喋れなくなる人間は傲慢ではないな。……本題は俺じゃあないだろう」

 どうして伝わらない。彼を恨んでなんかいないこと、その自責を無くしたいと思っていること。言葉は邪魔だ。無駄な意味を持つから。音にこれを繋ぐだけでいい。


――この焦燥を伝染させられれば。

「マキさん、」


 見上げた彼が、しばらく動きを止めていた。

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