彼女のおつかい②
師匠曰く、
この組織に長居するな、依存するなと事あるごとに師匠は言う。
師匠も遠からぬ思考だろうに居座る理由は――中央の武系貴族の諜報任務に対し、こと仔細な報告を求められる辺りで匂いはするが、詮索はしない。
他人の中身を暴く気はない。適切な距離感は礼儀であり、他者の尊重と同義だ。
「ああどうも、琥珀の旦那。いつものやつかい?」
「お世話になっております。はい、黒の染料をお願いします」
中央市場の宣伝口上はよく通る。
行き交う足音に知らない音色、口々に途切れ聞こえる数多の声が忙しない。便利屋が拠点とする北の街も活気があるとはいえ地方だ、都として栄える中央とは比較にならない。
視覚同等に研いだ聴覚が無数の気配を拾い、ぐるぐる視界が揺れてくる。聴覚を閉じるより手っ取り早いと耳栓をして市場を離れた。言い訳できない横着である。
気配探知を音に頼る人間にとって、聴覚情報の遮断は目を
恐らく私はさぞ隙だらけだったのだろう。
「そこな少年、すこし待て。周りはよく見て歩くことだ」
脱臼しそうな勢いで腕を引いてきた青年は、真白な武警団の制服を着ていた。
「中央の統治下とはいえ、この周辺は市場の中でも猥雑なところだ。大金を持ち歩くのは勧められない。財布を狙われていたが気づかなかったか? 不用心だぞ」
西洋的な軍服準拠の
貴族の彼は市街巡回などしないだろうに、何故こんな場所に居る。
「粗末な服だな。商家の小間使いか? ろくな心得も与えず大金を預けるとは嘆かわしい……そうだ! 買出しが途中ならばおれが同行してやろう。気にするな、これは持つものの務めだ。おれも休暇中であるからして心配は無用だ!」制服で?
金髪碧眼の貴族青年はよく喋る。線が細いのに声がでかい。諜報任務の後暗さゆえ武警団には認識されたくはなかったが、私の背景を
「もしかして喋れないのか! そうか、声を掛けても気付かなかったのは」
「この様な世間知らずにご忠告いただき心より感謝申し上げます」
咄嗟に写した偽声は、陰茎(模型)を握らせてお帰りいただいた彼だった。
非常に渋い。年齢の深みを感じる良い声だ。いや小僧の声としては違和感が強すぎる――貴族殿もさすがに怪訝な顔をしていた。
「……お前、喉を痛めているのか? いい医者を知っているぞ、紹介しよう」
「ご心配には及びません。祖父や父から一族郎党このような声色なのです」
「ふむ、家族との絆であったか。それは大変失礼した」大丈夫だろうか。
彼の動機は、彼が勝手に喋ってくれた。
ふらふら歩く小僧に声を掛けたのは親切心と正義感から。ただし目的は私の抱える染料だと語った。髪染めの染料を選びに市場を
「お前の黒髪は美しい。あの店の染料によるものであるなら良い品に違いないと、使用感を聞くため後をつけていたんだが……まさか地毛だとは。おれとしたことが」
実際に染料の粗悪品は多い。良品であっても、肌に合うか試した方が無難だ。
試験用の染料を分けるので良い菓子店を教えて欲しいと交渉し、ご快諾いただけた。これは貴族殿の明朗な人柄による恩恵だ。
「おれの兄様は素晴らしいお方なのだ。常に
菓子店を物色しながら、貴族殿の話の八割は家族のことだ――あれは父様が贔屓の店だ。あの店の氷菓子は兄様が買ってきてくださったと。試食に買った菓子でほころぶ顔を見ていると、なるほど菓子を与えたくなる気持ちが分かる。
「……こちらの味も召し上がりますか?」
「! いただこう」
得体の知れない下民が分ける食べ物を、無防備に口へ入れた。
「美味しいな」と笑う。本人は庶子武官を自称していたし、庶民感覚を装ったなら見事だけれど真意はわからない。下民ごときを萎縮させまいと気遣うゆえの目零しだろうか。
貴族殿は一貫して、余裕と赦しと広い度量で「持たざる者」を慈しむ。彼の兄上殿の思想を真摯に体現した、素直な人だ。
真っ直ぐで、きれいな人だ。とても。
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