不識②
「兄がどうしているか、わかりますか」
以前、少女に聞かれたことがある。
よく晴れた星空に背を向け、携えた金属の水筒を窓枠に置いて「分かるが、どうする」と答えた。催促に従い、俺が知る限りのことを説明した。
「お前の兄は、楽団で歌っている」
何度か劇場に足を運んだ。少女の兄は舞台に立ち、かつての母親と同じ光を浴びていた。
観客の中には村で会った老人も居た。舞台に立つ歌姫の姿に目を細め、幕が降りた後も涙を零し続けていた。
彼らが愛した歌姫の後継者が生きていた現実と、もう一度舞台で出逢えた奇跡を。彼らはなにより歓迎し、喜んでいた。
「……良かった、」
兄の現状を理解した少女は、安堵を噛みしめ囁いた。
喜びに震える声はいつになく弾んでいて、口角さえ緩んでいる。屋根裏で初めて見た、満面の笑顔だったかもしれない。
「そうか。良かったな」
喉が詰まった気がした。正体はわからない。
だが、浮かんだ疑問がひとつだけ。
少女と兄に何の差異があって、馬鹿らしいまで両極端な環境に置かれている。
その夜は飲料を持ってきていた。熱いうちに飲む方が好ましいものだったから、陶器をいくつか窓辺に並べた。
「香りが強い。窓際に来ないか」
小さな歩幅で近づいた少女が、不思議そうに水面をのぞく。珈琲を知らないらしい。
鼻を近づけ香りを嗅ぎ、熱さを確認して舌で触れ、苦味に目を白黒させた。知らない食べ物を目にした反応が、野生動物のそれに一致する。
「砂糖は必要か」
「……少し、いただきたく」
夜風を入れ、珈琲の匂いを外へと逃がす。気取られて不都合があるか分からないが、悟られないに越したこともないだろう。
「ありがとうございます。今夜はよく眠れそうです」
少女の浮べるふやけた笑みは、森で見ていた、あどけない顔と変わらなかった。
石の詰まった違和感が急速に言語化され、口をつく。
「相良」
少女は珈琲を気に入ったらしい。器にお代わりを注いでいる。
嬉しそうな顔を眺めながら、自分の口がひとりでに動くのを感じていた。
「お前が此処で現状の扱いを享受し続ける事は、兄の平穏とは無関係だ」
虐待養父は貴族当主だ。金も権力もある。だが、あの楽団は二度と、歌姫を
なにしろ現座長は少女の母親と両片想いだった男だ。あれの恨みは深い。
「これが仮に引き取られる時点なら、お前が拒絶するなりして、代わりに兄が連れてこられたかも分からない。だが今は違う。お前が居なくなったとしても変わらない」
――お前が、此処に居続ける必要は無いはずだ。
湯気のゆらめく器を包んで、少女は視線を宙へと逸らした。
金の瞳は不規則に動き、「そうですね」と思索が完了する。
「貴方の仰ることは恐らく正しい。以前私は自分のことを兄の替玉と称した気がしますが……それも格好つけでしょう。愉快とは呼べない境遇に意味があると思い込むことは、私の心の慰めになりますから」
お代わりの珈琲には砂糖を入れず一口含んだ。「こちらも美味しいです」と、苦味に慣れてきたらしい舌で珈琲の風味を楽しんでいる。
「逃げることは難しくありません。この窓から飛び下りて、屋敷の柵を登って、越えて、地面に降りればいいのでしょう。でも、――その先がない」
「先?」
少女は首を傾げた。俺の察しが悪いとでも言いたげだ。
飲みかけの珈琲を床に置いた。俺の膝に乗り上げ、冷やりとした指で額に触れてくる。猫の金眼が俺を映し、くるりと丸まった。
「私には身を立てるものがない。身銭も、質入れ出来るものも持たない。体力もありません。運良く生き延びられたとて奴隷や乞食が関の山でしょう」
少女の手が離れた。口を開けと言われたので、開ける。
俺の
「此処は一応、寝食の保証があります。搾取はいまのところ、その対価だ。……ところでマキさん、おそれながら」
「……何だ、」
「貴方が聞きたかったことは、何ですか?」
俺が、――なにか問うただろうか。そんな覚えは無いのだが。
正座の少女が珈琲を口に含み、黙って言葉をまとめている。迷いがあった。
「建設性の無いもしも話ばかりというのは、貴方らしくない……ような、気がします。様子がおかしい、とでも申し上げればいいのか」
「どういう話だ」
「どう、……そうですね。私は、貴方からどういった回答を求められているのか汲み取れませんでした。可能ならば伺いたいです」
少女がじっと俺を見上げる。それ以上、手掛かりは得られそうになかった。
「特に、何も無い」
少女の指摘はおそらく正しい。
俺がしたのは現実味の無い話だった。客観的にみて、ここから逃げても少女の
そんな慣れないことをして、少女に何を伝えたかったのだろう。
心臓の辺りの
形のわからないそれを伝えて、俺は少女に、何と言って欲しかったのだろう。
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