エピローグ
街を埋める大雪が降り、北の土地が本格的な冬景色へ塗り替えられた日から、おかしな噂がいくつか流れた。
曰く、北の人間が誰もはっきりと思い出せない一日があるとか。
曰く、自然公園に、季節はずれの桜が満開に咲いていたとか。
曰く、とある喫茶店で保護されている口輪付きの看板犬は、子どもの狼であるとか。
当の獣は噂も知らず、店の隅で欠伸して丸くなった。
紫乃は焦茶の獣耳を気にしながらも、冬部が頭を抱える現状をいまいちど確認する。
「たいちょっさんは保育士さんになったんすかね?」
「なってねぇからやめやがれ」
自身の背中に張り付いた遊を、無骨な手のひらが引き剥がす。
榛名と遊との入れ替わりが元に戻ってから目覚めた遊は、前世の記憶を持たない、ただの幼女になっていた。
生活に必要な基礎や言語は問題ないが、研究者の遊が読んでいた書籍や論文は理解できない。歳に見合わない知識と記憶を手放した遊は、不安そうに榛名を見上げた。
『……ゆうのおかあさんとおとうさん、どこ?』
規格外の先祖返りだった遊を産んだ両親は、中央対策部との協議の末、自分たちでの扶養は困難と判断していた。加えて遊本人も、学問の素地を持つ先祖返りに提供され得る優れた学習環境を欲した。
彼女の身柄を引受けるのは、異類対策部だ。
『遊は消えてはいないと思うの。ご両親にお願いするのも難しいんじゃないかしら』
榛名の懸念を鑑みた結果、北の支部長が遊を懐柔し、中央本部への報告と交渉を経て正式な身元引受け先を北支部に定めた。主に支部長が扶養義務を果たしている。
そんな遊が此処に居るのは、支部長の不在のため短期的な預け先を職員に依頼した結果だ。招集の中には療養優先に活動が落ち着いている隊員も含まれており「本人が懐いた人間」への指名制の職務は、今のところ冬部の足元にぴったりくっ付いている。
「全然離れねぇんだよ。何でだ。どっからどう見たってガキがなつく見てくれじゃねぇだろ。なんで陽には大泣きなんだよ、絶対あいつの方が子守り向いてるだろ……」
「やっぱ子どもって邪悪な人間わかるんすよ」
紫乃はかすかな警戒込みで遊を窺う。
けれども当の幼女が大きな瞳で紫乃を見て「おねえちゃんだ!」と満面に笑ったものだから、紫乃は速やかに敗北をみとめ膝をついた。きゃあと声を上げた遊が紫乃に抱きつく。
「別にそゆの関係なくってー。単純に隊長さんのこと大好きなんすよね、遊ちゃん」
「ゆうはね、あやのおねえちゃんがいちばんすき!」
「鮮やかな裏切り」
「くまさんもすき!」
「そういうやつかあ」
くまさんは店主と話し込んでいる。遊の要望で獣目当てに来店した経緯を話し、店主かつ管理人である雪平に触れ合い方を相談していた。
「侮辱されなければ大人しくしていられると思う。口輪に指を突っ込まないよう監督してくれるなら許可するが」
「悪い、店長に迷惑かけねぇよう気を付けるからよ。……あんま犬って馴染みがねぇんだが、やっぱ舐めた真似されてりゃ解るんだな」
「そうだな、所詮は犬だが知能は高い」
紫乃が「あんたが一番侮辱してないか?」と呟くと同時に獣が吠える。雪平を威嚇して唸る最中に紫乃と目が合い、頷きあった彼らは静かに意気投合した。
「あー……、……わんわんも、いきものだ。馬鹿にしねぇって約束できるか?」
「できる!」
「よし」
冬部は獣に近づき、「触らせてもらってもいいか」と訊ねた。遊が触れたがっていることも至極真面目にお伺いを立て、遊はすかさず「おねがいします」とお辞儀した。
紫乃も何となく、その子に優しくしてあげてねという気持ちで獣を見つめた。彼は視線に不服そうだったが、致し方なしと床に伏せ、幼子からの撫で回しを耐えた。
口輪に触れそうになると庇い、唸り声を聞き取っては遊を諌める。そのたび元気よく返事する幼女と仏頂面の保護者を、紫乃は温かい気持ちで眺めた。
「熊扱いは置いといたって普通に面倒み良いから懐かれてるだけですよね」
「気づいてないのは本人だけだ」
「ですよねー。ちなみにわんわんのお名前って何ですか?」
「? 犬だが」
「……店長さん、多分すげえ向いてない。何もかも」
冬部が遊を獣の近くのテーブル席へ座らせ、雪平に言付けて席を外した。
遊は行儀よく座ったまま、獣をじいと見つめている。獣は必死に遊を視界に入れまいと努めているが微かに毛が逆立ち、耳は半分寝ていた。
無垢な遊の声に、異質な知性が交じる。
「左腕、綺麗にくっ付いたね」
獣は固まった。殺される、と。野生の勘が警鐘を鳴らす。
一瞬で遊から逃げだし、何事かと寄ってきた雪平の背に登ってきゅんきゅん鳴きながら縋りついた。雪平は重量と獣の毛に抗議したかったが、哀れっぽい鳴き声の主張が主張なので無碍にも出来ない。
雪平が遊を凝視し、獣はその背に隠れながら怯えた様子で幼女を窺っている。
遊は目を細めた。しいっと、人差し指を唇に寄せて笑う。
「ヒミツにするから心配しないで? その代わり、ボクのこともナイショにしてね」
密談が聞こえたのは彼らだけだ。
冬部の帰還にすぐさま駆け寄った遊は、会計から店を出るまで冬部の作業着の裾を握り締め、にこにこと後をついて回っていた。
「くまさん、ゆうのことかたぐるまして!」
「分かったから登んな。落ちるだろうが」
足元の幼女を蹴飛ばさないよう苦慮しながら、大男が店を出ていく。
雪平が獣を引き剥がして床に降ろした。きゅ、と不安そうな鳴き声は、雪平には人狼の言葉として聞こえている。
『……ワシ、もしかしてヒトに戻ったら
「やっと気づいたのか、……多々良から交渉成立の連絡は貰っている。不死者を秘匿してくれるのは真実だと思うんだが」
『……もうちょいこのまま居るわ。匿え』
「そのつもりだから消化機能と食物耐性の確認はさせてくれ。提案できる料理が尽きてきた」
『なぁワシこぉひい楽しみにしとるんやけど。しあわせの飲み物やからて出し惜しみしてるんやないやろな』
「珈琲に多幸感を求めるな。リラックス作用は無いからそれ目当てならやめておけ」
紫乃は進学を決めた。将来の夢なんてものは無いが、榛名と相談した結果だった。
受験の合否はどうあれ実家を出るため、既に榛名の契約するアパートに居候している。紫乃が同居を始めてから、榛名も研究室に泊まり込む頻度が減った。
『白幡遊の一件で、魔法の力を使い果たしてしまったからな。お前は多分、魔法使いになれなくなった』
「眠り」の異常が解決した後、雪平からそう言われた。だから彼女に憂いは残っていなかった。目の前の受験にだけ、普通の人間の悩みにだけ集中できるようになった。
それでも志望校の判定は微妙なので――和泉に弱音を吐きたくなるが我慢している。和泉は浪人も覚悟すると言いながら、病室で懸命に遅れを取り戻そうと頑張っていた。だから彼女も格好をつけたくなった。
愚痴は風見や雪平に、勉強の
結果は今のところ、どのように転ぶか分からないけれど。
『残念か?』
『い、え。……あの、もう……ほっとしました』
『そうか、俺は残念だ。だが祝福しよう』
雪平が、
『ひとの一生は短い。どうか、和泉と。幸せに死んでくれ』
不死の怪物にとっては、死ねというのが祝辞に相当するのだろうか。紫乃は曖昧な感謝を述べつつも、異文化交流の違和感を冷静に問いただした。
雪平はすこし考えて「そうでもないな」と言った。
■
すうすうと、つめたさが入りこんでくる。
まぶたは重い。真っ暗な部屋は眠たそうに揺れているけど、冴えるさむさで寝つけない。
毛布の中で身体を丸めて、手足をちぢめてお腹にかくす。指先をぬくめてうとうとしてから、いつも抱きつくあったかい身体をさがした。
――となりのあの子が見つからない。
手さぐりに毛布をかき分けて、熱をたどって服をつかまえる。
よかった。ちゃんと、いる。
相良が身体を起こして、窓を見ていた。
背にしがみつく。毛布の外はさむくてふるえそうになるけれど、くっついてるところだけは体温があったかい。
「……起こしてしまいましたか、」
俺の身体に毛布をあつめて、もこもこに丸めてから。眠れないときにするみたく背中をさすってくれる。身体があたたまって、相良の手がしあわせで心地いい。
まだお日さまだってのぼってないのに、どうして相良は起きてるんだろう。
足をからめて相良を見上げ、問いかけの答えをねだる。けれど眠気にまけてしまって、俺は答えをきけなかった――
和泉は早朝に目を覚ました。
寝ぼけ眼で部屋を見回し、夢の名残を手放せないまま微睡んだ。昨晩向き合っていた参考書を脇に避け、ごろんと寝返りをうったとき、瞼にあわく光を受けて目を開ける。
カーテンの隙間から漏れる朝日が、青白く光っている。
夢と似通った時刻の明け方。彼女は確か、窓の向こうを見つめていた。
カーテンを引いたそばから光がこぼれていく。肌寒い冬の空気を吸いこみ、窓一面に溢れる色彩に声をなくした。
冬の朝日の群青の淡さと、黄金に移り変わる夜明けの色。
真白な雪に覆われた街が、朝陽をはじいて、ひどくまばゆく輝くこと。
この景色が、あなたの眼に映っていたものと同じでありますように。
俺が綺麗だと思った景色を、彼女も同じに愛しく感じてくれていたなら。――美しい世界と、その色を。俺はこれから、両手いっぱいに抱えていこう。
あなたのいないこの場所で、あなたの影を探せるように。
ずっと繋がっていられるように。――俺が、寂しくないように。
いつかまた、出逢える未来が巡った時は。
沢山の綺麗なものを、あなたに見せてあげられるように。
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