15-4

 遊は寒さに身震いした。

 目を開けたそこは雪に覆われた自然公園で、氷の粒は今も空からとめどなく舞い落ちている。陽は落ちているが雪の白さで景色は明るい。

 目の端をかすめた花弁の一枚に、古い記憶が熱を持つ。


 咄嗟に見上げた。視界一面を溢れんばかりに埋める薄桃に、動けなくなる。

 聳える大樹は遊の原点――幼い頃に雪降る中見た、忘れるはずもない花だった。


 薄桃の花弁が雪化粧をまとい咲き誇って、雪氷に微かな紅をさしている。

 はらりと手のひらに落ちた花弁が、冷たさを残して儚く溶ける。薄い氷で造形つくられた花だった。

「どうしてこの木がここにあるの? ハルちゃん」

 遊を膝枕していた榛名が、その問い掛けに微笑んだ。

 精神の入れ替わりが起きている現状、傍からは、幼女が笑って成人女性を寝かしつけているように見える。

「起きたのね。痛いところはない? 自分の顔に話し掛けるのって、なんか変な感じがするわね」

「……さっき廊下でころんだの。いたい」

「そうね、血が出てたもの。手当はしたけど、まだ痛みは引かないかもしれないわ」

 遊が記憶の深層に刻みつけていた心象風景を、紫乃が描いて具現化した。紫乃の僅かばかりの呪力はすっかり空になってしまって、描写を手伝った和泉と一緒に、画材でもみくちゃになって眠っている。

「前の人生であなたが探していた景色、見て欲しかったそうよ。……一夜の夢に魅了される気持ちはわかる。その未練を解くのも夢じゃないかって言ってたわ」

 瞳いっぱいに柔らかな薄桃の花を満たして、遊はそっと瞼を閉じる。

「……うん。……昔のこと、ちょっと思い出した。へんなの」

「そう。……確かに綺麗ね。こんな植物に出逢ってしまったら、伝承の怪異として後世に伝えてしまう気持ちも解るかもしれない」

 きっと、美しい自然への畏怖から生まれた伝承だろうと榛名は笑う。

 遊はそんな榛名に口を開きかけたがとどまり、彼女が話し続ける様子を冷静に眺めている。

「夢みたいな景色を原点に研究者を志して――怪異の領域である鬼化変性や不死化変異を解き明かすことで、幻想を現実だと証明してしまうところ。本当にあなたらしい」

 研究者としての目標点を、夢にもう一度出会うところではなく――存在証明を固め、夢を現実へひっくり返してしまうところに定めた。遊はそういう人間だった。

「だからあたしは、そんなあなたが夢の景色で満足するとは思っていない」

 遊は一瞬ぽかんとして、丸い瞳で榛名を見上げてふふっと笑い出した。

「やっぱり分かるんだねぇ。まあハルちゃんはボクの身体使ってるし、頭の中見えちゃうから当たり前か」

「だから話がしたいの。遊、……あなたが研究を続けるために、相談したいことがある」

 遊は先祖返りだ。かつて実在した人ひとり分の一生、生きて死ぬまでひと綴りの記憶と知識をすべて幼子の身に詰め込んで生まれた。その知識量は下手な書庫も上回り、榛名でも扱いかねる量だ。

 それを榛名よりも未成熟な身体に詰め込み、更に全てを詳細に把握している。現実離れした芸当を信じられなかった。


 けれど実際、無理の上に成立していたことだったのだろう。

「まだ幼いこの身体は、大人のあなたの思考負荷に耐えられない。気づいているでしょう」

 喫茶店への道中、榛名は相楽からそれを聞いた。


 遊の記憶を探るたびに頭の中で鳴る異音、榛名の覚える身体の不調の原因に、相楽は心当たりを告げた。

「先祖返りというのは、幼くして記憶が発現するほど、未発達な脳神経系に高度な処理能力が要求される。……多くの知識を持つ、学者の記憶を引継いだ先祖返りには、大人の思考負荷に子どもの身体が耐えられない例が多いのです」

 多い例が体調不良や異常行動、錯乱。こと精神面への負荷は危険視され、鬼化変性や自死へ至る例も報告された。そのため本人ないし親族への許可を得て、中央本部管理下の呪具でもって前世の記憶を封じる処置も珍しくない。

 元より学術分野は日進月歩の積み重ねだ。過去に賢者と呼ばれたものでも、死後に発見された新事実や法則を知ることはできない。知識を保存し生まれ直しても更新は必須。

 膨大な知識と思考負荷で身体を壊す危険性リスクと、学術史へもたらされるかもしれない利益ベネフィット。秤にかければ圧倒的に危険が勝る。

「……白幡博士もお分かりのはずだ。未成熟の身体のまま、自身が思考を続けることは、命を縮める行為だということを」


「負荷が重いのは知ってるよ。それがどうしたの」

 けれど遊はそうしなかった。研究を続けることを選んだ。

 膨大な分野にわたる情報を蓄え、統合する処理能力と発想力。遊の思考負荷は常人の数十倍はあるだろう。榛名は今も遊の脳の内側から、得体の知れない不穏な音を聞いている。

「ボクにとって、思索を放棄した人生に価値は無い。ボクが自由に思考することでこの身体が長くもたないのなら、ボクの寿命が元々そこまでしかなかっただけ」

「……じゃあ、遊」

 考えないことなんか出来ないだろう。遊の記憶を覗いた榛名は薄々分かっていた。

 だからまず、可能性を確かめる。

「あたしの身体に入ったままなら、あなたは死ななくて済む?」

――精神を入れ替えた現状が、遊の延命になるという可能性。

 遊の思考負荷がどれほどかは榛名にも分からない。けれど遊よりは。このまま榛名が遊の身体を使っていた方が、幼い身体への負荷が軽くて済むのではないか。

 代わりに遊は榛名の体を使う。大人の身体と脳ならば、子どもの遊の身体よりは頑丈なはずだと榛名は主張した。

「身体を貸す代わりに、あたしも研究へ全面的に参加させてもらいたい。……この提案はあなたにとって、聞くに値するかしら」

「……ハルちゃんは、入れ替わったままでもいいの?」

「良くないものを交渉材料にはしないわ」

 遊はなんだか榛名が優しくなった気がした。ふわふわの声で「あなた」と呼ばれて、真剣な声で命を心配されたので驚いていた。

 研究を止めるためでなく、続けるためにと進言してくる真意も見えない。

 試してみる価値はあるので、遊は素直に肯定した。榛名が胸を撫で下ろす。


「じゃあ遊、お話をしましょうか。あんたがようやくあたしを人と認識したところで」


 確かに榛名の態度は変わった。見目ばかりの幼児扱いを続けて、きちんと大人の精神で生きている人間の尻を叩こうとした件への罪悪感もあった。しかし他のことにも気づいた。

 そもそも遊は榛名を仕事仲間とすら認識していない。

 口うるさい世話役、掃除係、ハウスキーパー、雑用。いつも怒って面倒くさい。外部から研究内容に進言しても耳を塞がれるのが見えていて、その予想は概ね正しい。

 聞く耳を持たれる人間になる必要があった。ここまでは話合いの場に立てるかの確認だ。

「端的に言えば、あたしは身体貸す代わりにあんたの研究に口出して邪魔してひっぱたいて方針変更させる。今からそういう話をするわ」

「えっやだ、ハルちゃんこわい。なんでたたくの」

「それくらい強気で話すわ。だって今のあんたの研究方針には未来が無い」

 遊がムッとして身構えたことを、榛名はきちんと確かめた。

「研究や動物実験に関わる生命倫理の基準は昔より厳しくなったわ。人間を扱うなら特に。紫乃で実験を行っても研究結果は世に出すことができないし、出したところで受け入れられない。一度目の人生と同じように」

 不死化変異の論文など、先行研究はおろか査読を行える専門家すら存在しない代物だ。

 たったひとりの学者が、たった一例確認できただけの事象に学術的な意味はほぼ無い。再現性も普遍性も保証されていない、信頼性の薄い論文だ。その紙切れが界隈に属する多くの研究者に受容され、無数の論証による議論が重ねられ、審査や批評を経ることでようやく普遍性が認められる。そこで初めて学術的な意味を持つのだ。

 だから前世の遊だって、鬼化変性の論文を世に出した。

「あんたの前世の失敗は、論文が倫理的な問題から受け入れられなかったことと、死後も研究を継いでくれる共同研究者や後任がいなかったこと。

 紫乃は素晴らしい検体かもしれない。でも食いつくのは軽率じゃないかしら。紫乃を使って結果を出しても論文は抹消されるしあたしはあんたを殺すわ。研究も継がない。……これは前の失敗の焼き直しになる。違う?」

「、……ハルちゃんもボクのこと殺すの」

「え? ……そうかもね。でも少なくともあたしは、あんたを殺したくないから言葉を尽くしてる。本当に殺したいなら何も言わずに刺すわ」

 情操教育のやり直しに無理があるなら、いっそ倫理の無さは問題としない。無いなら外注すればいい。

「あなたの論文と研究成果は、世の多くの研究者に受容されないと死んでしまう。そうでなくても研究を引継ぐ後任研究者は必要。あたしはそれを両方とも叶えてみせる。それは最善かつ最短の選択になるはずよ」

 止める必要は無い。遊は純粋な研究者なのだから。

「あんたは同じ失敗を二度はしない。そうでしょう」


 遊はなにごとか思案しながらも、やや不思議そうに首を傾げる。

「ハルちゃんが研究の後任者になってくれないと困るなぁっていうの、前から考えてたよ。ボクの記憶見て気づかなかった?」

「……そんな細かく探ったら頭かち割れるわよ」

「それに紫乃ちゃんを使った研究成果、正直に出そうとは思ってない。人権的に問題ないよう誤魔化す方法も考えてた。でもその調子じゃ見てないね」

 遊はにやりと笑った。榛名は自分の顔がここまで悪どく笑えることを初めて知った。あまり知りたくはなかった。


「……紫乃ちゃんを使うのはよくない。ハルちゃんも協力してくれなくなる。ならボクはやり方を変えなきゃいけないね」

 榛名はそこでやっと、自分の言葉が届いたことに安堵した。

――でも、紫乃には謝らないと。

 遊の説得を自分がするとは言った。交渉次第では身体を永続的に貸そうとしている――とは、伝えていない。

 でも榛名は納得しているのだ。規格外の発想をそばで見て、同じ研究に携われる。今までの雑務と心労を七割ほど帳消しにして良いくらいに魅力的だった。

「じゃあ遊。あたしの提案、受け入れてくれる?」

 遊はにっこり笑った。


「ううん、それはしないよ」


 榛名が言葉を発する前に、意識は揃って消えていく。

「またねハルちゃん。しばらくおわかれ」


 ■


 ハルちゃんに言わなかったことがひとつある。

 ボクは初めから、あの木が偽物だとは分かってた。


 だってあの木はあまりにも、ボクの記憶に忠実だった。自我の曖昧だったボクが一夜の夢で出会った憧れと、かすかな畏怖と。こんなに綺麗なもの見たことないって、胸がどきどきする高揚感――ボクの記憶は沢山の主観で美化されていて、正確な記録には程遠かった。

 ボクが望んで歪めた記憶。願望を忠実に象った幻は、美しかった。


 けれどあれは真像ではない。真実ではない。その一点だけは混同してはいけないのだ。不正確かつ曖昧な主観で歪められた研究など、どれほど夢のような仮説であっても意味が無いのだから。

 だから、唯一の記録たりうる初めの記憶を虚飾してしまった時点で、ボクが自力で真実に辿り着けなかったのは必然だったのかもしれない。


 ボクはあの木の正体を知っていた。美しい幻を見て思い出した。

 学者であった彼の死後、遺書の中で、真実を教わっていた。

『伝承であると、断定を迷うのは仕方がないことだ。これはごく一般的な植物なのだから。満月の夜だ、何十年周期など、特別な観測条件は何もない』

『枝の樹皮だけが赤いだろう。この枝に雪が積もると、赤い色が氷に透けて薄桃の花が咲いたように見える。……それがここらの『氷中に咲く花』という伝承の、正体だ。この辺りは雪が少ないから、大雪に見舞われたまれな年にしか咲かない』

 彼を看取った傭兵が、ボクに一冊の本を渡した。書庫の蔵書は読み尽くしていたと思っていたのに、それは初めて見る装丁だった。

 栞の挟まれたページには、遺書で言及されていた植物が載っていた。記述の通り、幹は茶色い樹皮だが枝のみが赤い。陸に生えた珊瑚のような樹木だった。

「この本、隠してたの?」

「……先生は、……偏屈で気難しい厄介ジジイだったけど、お前のことはいっぱしの学者として気に入ってた。アレは俺の同類だ、話が通じる。上等な議論が出来るって、まあ不気味なツラして笑ってたんだ」

「ボクはあの人の人格の話なんかしてないよ。隠してたのかって聞いてる」

「ああそうだよ隠してた。だから聞け。……なんで先生がそんなことさせたのか、ちゃんと聞いてくれ」

 傭兵はなんだか苦しそうに見えた。

「抱えてる疑問が解けたら、お前が先生のところに居る意味がなくなる。だから答えを言わなかったし、遠ざけてた。……理解者が現れてはじめて、寂しさってやつに打ちのめされたんだ。あの人を恨まないでくれ」

「? ボクはなんにも怒ってないよ。それと、もうボク知りたいこといっぱいになっちゃったから、これひとつ分かっただけじゃ居なくなれない」

 ボクの目的は変わらない。ヒトの異形化現象と、伝承の中にうたわれる怪物や神様、そういう化物達の探究だから。

「……おい、ユウ坊」

 彼の死後もこの屋敷に居られることは聞いていた。遺書で改めてそう記されていたからボクはほっとして、次の実地調査に行くための準備のことばかり考えていた。

「俺は先生から、お前の身の回りの世話をしてやれと言われた。先生にしてたことを引継ぐだけだから、俺はそれでも構わない。でもな」

 傭兵がボクの腕を掴んだ。痛かった。逃げられないボクに刀を突き付ける。

「お前が話したような人体実験をするつもりなら、俺はついていけない。人道に反した研究には加担できない。……先生と対等な学者だったお前が外道に落ちるのを見過ごすこともしたくない」

 返答次第ではお前を殺すと言われた。当時のボクは全く意味がわからなかった。懇願するみたいにボクを見る、弱りきった目に込められた感情も。

「……頼む。殺させるな。死ぬのは嫌だと命乞いをしてくれ。……そうすれば俺は刀を下ろせるんだ。お前を守ってやれる。先生の名誉を汚さずにすむ」


 もしかしたら彼は、ボクを止めたかったのかもしれない。

 ハルちゃんと同じように、ボクを殺さないために言葉を尽くしていたのかもしれない。悪いことしたなぁと思ったけれど、もう謝れない。

 いなくなるってそういうことだ。ボクが生まれ直してしまったのが異常なだけ。

 彼の血筋が今も生きていてくれたら良いなと思った。ハルちゃんとおんなじ、一生懸命ひとのために損してる、不器用で可哀想な性分のひと。


――彼女はきっと、自分の命を縮める選択を受け入れていた。

 ハルちゃんがボクの身体に入って生きる。それを彼女は、ボクの命を延ばす方法としか言わなかった。彼女にとっては自分の命を削りかねないと分かっていただろうに。

 だったらボクは、ボクの命を延ばす方法を探す。

 どうせ長くないから、最短で最大限の成果を出せるよう積極的に命を削る方針だった。でもハルちゃんの協力を勘定していいなら違ってくる。長く生きていられた方が得られるものも多いだろう。例えば思考負荷の消耗を抑えてみるとか、体の修復機構に期待してみるとか。可能性はすべて試して検討しないと。

 ハルちゃんが損を受け入れてくれてたなら、ボクも少しの退屈くらい我慢しよう。


 ボクひとりで研究を続けることはやめた方がいい。

 けれど、ハルちゃんしかいない――なんて、可能性を狭めてもいけない。彼女はボクに協力を申し出てくれたから、もちろん選択肢のひとつではある。けれど唯一ではない。考えるのをやめたら終わり。

 きっとやり方は幾らでもある。

 もっと。ボクも長生きできて、ハルちゃんも生きて、長く一緒に研究できる方法。より小さいリスクで効率よく知識を共有する手段。そういうものを探してみないと始まらない。


 なぜならボクは知っている。

 この世には奇跡が存在し、願ったことは実現する。人間の中には願望を叶える機能があるのだし、ボクの我儘を叶える手段だってあるはずだ。

 有り得ないことなんて、この世にひとつも無いのだから。

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