幕間:研究者の手記・前

 森の奥地で火の手が上がった。幸運にも雨が降り鎮火は叶ったが、延焼は広範囲に及んだ。

 雪夜に見上げたかの大樹は、焼跡の中に幻と消えた。


 樹木の正体を、一帯の植生から絞り込もうとした。しかし特定は出来なかった。恐らく地域に自生の、薄桃の花をつける落葉樹。その程度の手掛かりでは録な推測も立たず、それでも雪の珍しいこの地域で、雪害に耐えうる花などひとつも残らなかった。

「そのお花って、このあたりの『かみさま』みたいだね」

 笑うか泣くかしかしない母親が、寝物語にそう言った。


 氷中に咲く花。数十年に一度しか逢えない、人を惑わす花弁。

 それは、古くから土地に伝わる奇跡だった。


 無視できないと拘る執着、走り出す足に一番驚いたのは自分だ。土地を調べ、出典と思しき村に駆け込み、語り部まで辿って調査した。

 母親の示した物語は、雪降る夜に出逢った「あれ」かも知れない。

 予感はあり、類似点も多い。しかし確信には至らない。邂逅はたった一晩で検体採取もままならず、頼れるのは不確かな記憶だけ。伝承に残る観測条件との差異も目立つ。

 そして圧倒的に、伝承を読み解くための知識が足りない。


 そう。伝説、伝承。御伽噺に魔性の類い。

「あれ」の正体はそういうものだと、何故かそう考えた。


 知識が必要だ。それを得られる身分は限られている。

 地域で一番「持っていそうな」学者のもとへ向かった。近隣の子供から幽霊屋敷と噂される邸宅に籠る爺だ。薄暗い書斎で書き物を続ける彼は、人間嫌いの苦い皺を色濃く刻みながら「勝手にしろ」と言った。

 幽霊屋敷の黴臭い書庫が、ボクの住処になった。

 民俗学に歴史、因習、地質、気候。伝承を解析するに必要な系統知識を目につき次第引きずり出して吸収することを繰り返した。植物学に生物学、疫病を解くためには医学にまで手が伸びた。

「冬でも花をつける木って、聞いたことない?」

 届く範囲の民間伝承を調べ終えても答えは出ない。類似する伝承も見つからない。

 彼がいつもの硬いパンを投げ渡した。嗄れた声でぼそりと呟く。

「極北で似た話を聞いた」

 雪の中で、美しく咲き続ける桜があるらしい。


 北の土地まで旅をした。護衛連れの旅は不便ばかりで進みが遅く、次からは身軽な一人旅にしようと決めた。仏頂面の傭兵は「先生に頼まれたからケツ拭いてやっただけだ。二度と呼ぶな」と唾を吐いていた。

 遠くの嶺はまだ白い。青空の下、満開の桜が舞い散る野山に足を踏み入れた。桜の木は、北で信仰される女神の依代とうたわれていた。

 詳細を語り継ぐのは地域一帯の樹木の守り手、桜守の一族らしい。

 現地の人間に聞き込みを終え、資料の収集を続けるうち、一族の長への謁見許可が出た。

「あんたの言ってるのは、サクラさまの御神木だろうけれど……ありゃ言い伝えであって、別にあの山ん中にじいっと咲き続ける花なんかねぇよ」

「そう? 解った! でもやっぱ一回は探しに行ってき、」

 駆け出した足がつまづいた。転ばされたと気づいた時には縛られていた。

 護衛がどうして邪魔をする――布を猿轡代わりに噛まされた。

「お前が現地調査で土地の人間に迷惑かけるなら連れ帰れとの言付けだ。……ああいえ、邪魔しました。押し掛けた余所モンに寛大なご配慮ありがとうございます」

 傭兵の男が出立の日取りを纏めていた。実地調査も半ばのまま、この土地から離れなければならなくなった。

 寝泊りに貸されたあばら家でやっと口枷を外された。

「ぜんぜん見て回れてない!」

「収集も聞き取りも最低限は終わった」

 勝手に荷造りし始める傭兵を邪魔したところで剥がされた。押しても引いても叩いてもびくともしない大男に無力感と悔しさが込み上げ、ぬるい涙がぼろぼろ落ちる。

――やっと来たんだ。まだ調べていないものがあるのに。

 手足を投げ出し滅茶苦茶に転がって暴れ、泣き疲れて眠った。

 目覚めた時には既に帰路だった。傭兵がボクを麻袋に詰め背負っている。袋から出た頭だけを忙しく動かし、袋の中で身じろいだ。

 ボクの寝起きに気付いた男が、聞こえよがしに溜息を吐いた。

「先生も大概だがお前は輪をかけて見ちゃおれん。礼儀作法から覚え直せ。護衛なんて邪魔だ要らねえだの交渉が雑だの早くしろだの偉そうな注文は丁寧語くらい使えるようになってから言うんだな!」

 お前の親はとんだ放任主義だなと。普段なら認識もしない他人の苛立ちが、とある気付きをもたらした。

「……ボク、研究はじめる前どんなだった?」

「知らねえよ。どんなって、何が」

 この知識欲が目覚める前、ボクはどんな人間だっただろう。

 季節とともに咲く花が移ろうこと。種によって生存戦略が違うこと。空が青い理由も知らずに息をしていた。美しさを愛ではすれ、興味はどこにも無かったのだ。

 自分を取り巻く景色のすべてをそのまま受け入れ眺めながら、父母の庇護のもとで漠然と暮らして――あとは?

 何が楽しくて生きていたのか全く思い出せない。

「知りたいことが沢山あって、毎日びゅんびゅん時間が飛んでく。ホントは寝るのも嫌なの、いつまでだって本を読んでたい」

 両親の声も曖昧だけれど悲しくはない。仕方ないと思っている。

 飢え乾くような知識欲は、曖昧な自我を凌駕して余りあった。ボクを全く別の生きものに変質させて、生存欲求すら追い落とそうと今も肥大を続けている。

 傭兵は一貫して渋い顔だったが、両親への無関心を特に咎めた。「うん」と平静な僕へ、言葉を詰まらせ舌打ちする。

「病気だな。お前ら」

 吐き捨てた声が、好意でないことだけは分かった。

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