15-2

 連日の氷点下を反転させた冬晴れは、重い雪雲に覆われてしまった。

 陽気が翳った北の街に、音もなく霧が満ち始めた。


 霧というのは不思議なもので、自身の周りは「そう」は見えない。霧など幻ではと疑う。でも振り返ってみれば、遠景の家々も、通り過ぎてきた道沿いの緑もみな白く掠れているから――恐らく自分も霧に包まれ、取り残された人影でしかないのだろうと。俯瞰することで自覚する。

 包まれている側は無自覚だった。季節はずれの濃霧だろうと笑っていた。

 市街や学校施設をはじめ、史跡や寺社仏閣の隅々まで。街はどこも青みのくすんだ怜悧な白色に煙っている。漂白された白衣のような冷たい濃霧が、北の一帯をまるごと包んで沈めていた。

 屋外はもちろん、家屋の中へも。街を覆う霧は隅々まで侵食する。


 無数の透明なてのひらに絡め取られ、ひとの意識は夢へと落ちた。


 ひとひらの雪が舞う。凍りの粒は、熱を帯びるアスファルトに融け消えた。黒い路面は微かに濡れただけ――けれど温度は有限だ。

 氷を溶かす熱が尽き、路面はゆるりと覆われはじめる。斑な白黒が薄灰にけぶり、一面の白が敷き詰められた。

 しんしんと音もなく、雪は静かに積もりはじめる。けれど。


 降雪を観測する「ひと」は、もういない。


 ■


 地下空間に、金属のひしゃげる音が響いている。

 獣の足が鉄格子の扉を蹴り、体当りし、金具が弾け、白壁の揺れは大きくなっていく。

――がしゃん、と。

 最後の悲鳴と共に扉が壊れ、長い脚が突き出した。

「よっしゃあ!」

 茶髪の男が歓喜に叫んで、右拳を思いっきり突き上げる――彼に両腕が揃っていれば万歳して喜んだだろうけれど、左腕は欠損していて叶わない。

娑婆シャバの空気はええなあ!」

 人喰鬼という呼称で恐れられた不死者は、人知れず牢を破って脱走を図っていた。

 彼は不死者の中では人狼と呼ばれており、現代でも名の知れた怪物である。ひと並み外れた身体能力と嗅覚を持ち、人肉を食らう性質から人間社会には属さず野山を駆け、腹が減れば人里に下りて狩猟を行ってきた。

 彼の呪力は著しく身体強化に偏っている。深い井戸ならひょいと跳躍して脱出、高所に閉じ込めれば飛び降りて無傷。天井は破るし金属は丸める怪物の収容が叶ったのは、ひとえに牢が特別製だったから。

 呪力封じの術式が施された牢。彼の場合は身体能力を封じられれば抵抗も出来なかったのだが――その枷は突然に弱まり、人狼の逃走を許した。

 彼には囚人の自覚があり、また身体も本調子でない。脱出を妨げる職員らとの戦闘を警戒して聴覚を研ぎ澄ませていたのだが、建物まるごと死に絶えたような静寂を察して首を傾げるばかり。

 話が出来そうなのは、向かいの檻にいる囚人仲間のご近所さんだけだ。

「おーい兄ちゃん、出るんなら今やで」

 鉄格子の扉をソフトキャンディみたいに捻じりちぎって引っがし、毛布の繭にくるまる青年――雨屋へ呼びかけたが、微かに唸って身じろぐだけ。

 彼はムッとして右腕を獣化させ、毛布を切り裂く爪をぎらつかせる。しかし一定の間合いを保ち、無闇に近づこうとはしない。

「狸寝入りしたって無駄やねん、獲物の隙を見極めんのは狩りのキホンや。……起こしたってもええけどな、ちゃあんと避けんと死んでまうから気張ってやれや」

 芋虫じみた呑気な動きに変化はない。

 人狼は地団駄を踏みながら待って、寝ぼけ眼でゆらゆら這い出た雨屋で憂さ晴らしをしようと滅茶苦茶に頬をつついた。被害者にとっては丁度いい目覚ましだった。

「脱獄のお勧め有難うございます。けれど私は残りますので、お兄さんの道中のご安全をお祈りしております」

「残る? べつに構へんけど。変なやっちゃなぁ」

 獣の爪がさくりと刺さり、雨屋の頬から血が垂れた。

 人狼がふと頬肉を伸ばし、細い腕をつまむ。モチの感触にむむと唇を曲げる。

「ちょっともろてもええか?」

「構いませんよ」

「おおきに」

 腕に噛みついた牙が、骨にがちりと突き当たる。

 薄い肉を寄せ集め、どうにかちぎって咀嚼するも眉をひそめ「もう要らん」と渋い顔をくしゃくしゃにした。彼は脂肪を好むため、皮とわずかな筋肉のみの薄ぺらな肉には食指が動かない――うえ、自分以外の不死者だれかの匂いが鼻につく。

 世辞にも美味とは程遠いくず肉だ。肉としての芳香よりも、この人間を囲うか何かしようとした同類の影が鼻につく肉を餌にしようとは思わない。

 もう少し味がましなら考えた。実際、食べ覚えのある匂いではあったから。

「もうちっと脂つけて出直せえ。食肉舐めとったらアカンで」

「精進致します。お兄さんはお逃げになり、……真っ直ぐお帰りになられますか?」

「せやなぁ……の前に、まずは左腕キッチリ返して貰わんと。ホンマならどついたるねんけどしゃあなしや、現物返却で手打ちにしたる」

 近くにあるので場所は分かる。弾んだ足で牢を出て、左腕目指して階段を上がっていった。

――一周回って感心するほど不味い肉を何故マークしたやら。

 不死者が人間を好むかには個体差があり、呪いをかける意味合いや作用も異なる。

 以前に遭遇した人間には、水中へ好いたものを引き込む不死者から呪いが掛かっていた。その場合のマーキングは要するに、人間を化物と添える形質に変えてしまう作用の術式。人間も呪いを受け容れており、その身は半分ほど変質が進んでいた。

 人体は変質の過程で呪力を蓄える。つまりは呪力をたっぷり含む鮮肉で、彼の好物。

 あれは今まで食べてきた中で一二を争う美食だったと、頬を綻ばせひとり頷く。

 同時に不死者の怒りを買って、水中へ引きずり込まれ溺死しかけた――人狼が身震いと共に立ち止まる。

「……ホンマに残ってええんか。化物の知り合いおらんのか」

 だから彼も、この無自覚な人間に対して慎重になった。

 雨屋ばかりが現状を分かっていない。しかし人狼側にも一から十まで説明してやろうというほどの親切はない。強いて言うなら命が惜しい。

「外で待っとったら案外お迎え来るかもしれんで。獏の術式がガラクタになっとんのは今だけやし。とりあえず出とったらええんと違う」

 雨屋は不思議そうに人狼を見上げ、そのまま首を横に振る。

 一旦は提案した。これをマークしていた不死者が居たとて言い訳は立つ。断られたなら食い下がる理由もない――人狼は無い脳味噌をフル回転させ打算に走った。

 そして脳の稼働ついでに、興味をひとつ思い出した。

「そや兄ちゃん、まえ話しとった美味いもんて何処で食える?」

「日ごろお聞きしている限りでしたら、お肉が一番お好きですよね? ヒト肉の取り扱いはされてらっしゃいませんが、色んな種類のある美味しい精肉屋さんはご紹介できますよ」

「それはそやけど。違うねん。兄ちゃんが前に話しとったやろ、きいろくて柔こいふわふわとか、四角いカリカリのもちもちとか。あれ試しに食うてみたいねん」

 雨屋が一寸考えて、人狼へ寄り道を提案した。


 ■


 幼い丸みのみじかい指が、警察官の脈を診て離れる。呼吸は安定していて目視できる異常も見当たらない。おそらく眠っているだけだ。

 倒れた榛名(身体は遊なのだが)の身を案じてくれた警察官に起きた異常は警察署全体に及んでいた。通報しようにも異類対策部も救急も繋がらない。

 出来ることはないと悟った時点で、榛名はここからの脱出を決意した。


 遊の動機は解っている。検体の捕獲だろう。

 問題は、検体が紫乃だと特定されているか否か――

 頭の中でゴムをはじく音がして、鈍い痛みがぱちりと跳ねた。


「中央の不死、吸血鬼。容姿不明の人型、変幻自在の変身能力ゆえに捕捉困難。――『偽りの歌姫』で揺さぶるも反応無し。死亡? ――中央本部に保管していた研究データの痕跡を消された。生存確認。慎重、神出鬼没」

「北の不死。いまこそ桜の女神と呼ばれるそれは、古来の伝承では夢喰いの獏と呼ばれてきた。他者の夢への干渉。夢渡り、夢を食べる――記憶への干渉。精神操作?」

「人狼。西地区と周辺地域での『食事』痕跡が多数。比較的『釣りやすい』。食事の現場を押さえればサンプル採取も可能。左腕を採取するも行方不明、何らかの介入か」


 民間伝承の実地調査フィールドワークと、文献を読み解きつづけた膨大な経験が一瞬で榛名を呑んだ。

「前生」の遊の一生分の知識は、足を踏み入れたら飲み込まれてしまいそうな密度の濁流だった。膨大でありながらも細部まで隙のない理論が整然と詰まっている。一切の欠けなく保存された記憶と、記録を劣化なく正確に再生する遊の脳に言葉を失った。

 隅々に収納された知識の幅広さに眩暈がする。


「入れ替わり」の呪具の性質は、身体の持ち主の記憶を覗き見ることで、嗜好、知識、その人生の模倣が可能であること。他者に「成り代わる」ための呪いである。

 であれば遊は――榛名の過去の記憶から、採血を行った「検体」を紫乃だと突き止めただろう。榛名のふりをして実験協力を取り付けるか、身柄を確保したがるはずだ。


 榛名や遊を心配してくれていた警察官に頭を下げ、部屋を出た。

 自然公園を探索していたせいだろう。慢性的な運動不足の遊の身体は、体力が既に底をついている。棒の足を無理矢理動かし、榛名は自身を叱咤した。

――紫乃を助けないと。

 幼い身体の歩幅は小さい。

 荒い呼吸を整える最中、視界の端で人が倒れた。

「! あなた、起きてる!?」

 まだ意識がある。眠っていない人間をやっと見つけた。

 北の隊服姿に見覚えは無かった。小柄な体躯は和泉と重なるものの、塗り込めたような黒の短髪は光を吸込み艶がない。細い身体は筋肉のため重く、顔立ちも大人びている。

 薄く目が開く。自身を揺り起こす幼女を認識して、墨色の瞳が瞬いた。

「ご無事で、よかった」

 身を起こした男は、遊の身体に「榛名女史」と呼びかけた。

「私は相楽さがら宗二そうじと申します。さる機関の命によりお迎えに上がりました。……申し訳ありません、手続きを進めておりましたら、このような」

「いいの、ありがとう。それよりあなた、遊の中身があたしだってどうして……」

 言いかけて固まる。渡りに船だと飛びついた。

「助けて欲しい子がいるの。あたしは放っておいてあの子を早く、」

妹君いもうとぎみはご無事です。落ち着いてください」

 榛名を説得した彼は、遊と榛名の入れ替わりや遊の動機、紫乃に迫る危険を把握していた。「詳しいお話は、貴方をお連れしながら」と荷物を纏め、榛名の手を引く。

 静まり返った屋内に、二人の足音だけが響く。

 職員が廊下で倒れて動かない。窓口の職員も机に伏している。待合の椅子に座っていた老人、子ども――みな寝静まった「異常」は建物の外も同じ。

 外は分厚い雪雲が垂れこめて暗く、路面に雪が積もっていた。降雪の勢いが衰えない。

「……街の機能が停止しているようです。徒歩で参りましょう」

 相楽が車両を諦め、榛名を背負った上から外套を引っ掛け歩き出す。

 街路樹の脇、寄り添って眠る人間と犬の傍を通り過ぎた。自転車と乗り手がばらばらに行き倒れている。車道はある瞬間で自動車ごと凍らされてしまったように動いていない。

 時が止まってしまった様だった。榛名が身じろぎ辺りを見回す。

「……ほんとうに、現実なの?」

「……原因は、私にもわかりかねます」

 相楽は一つずつ話しだした。紫乃が無事であることや、その逃走を相楽の協力者が支援し、和泉と風見が同行していること。合流地点が分からないので、ひとまず和泉の座標情報が示す場所へ向かっていること。

「白幡博士から貴方がた姉妹を保護する任務は達成出来そうです。けれどこの『眠り』は全く別の異常だ。情けないお話ですが、現状こちらに対処する手段が思いつかない」

 相楽に任務を命じた組織とも連絡が途絶えた。支援は期待できない。

 止まない雪が足元を埋め始めている。榛名が背負われたまま手を伸ばし、相楽の頭に積もった雪を払い除けた。

「妹君との再会を最優先いたしますのでご安心ください。しばしご辛抱を」

 雪を踏み締めるくぐもった音が響く。一面の白にひとりきりの足跡は、ゆるゆると蛇行しながら止まらない。

「……ねえ。相楽くん、て言ったかしら」

「……はい、どうかなさいましたか」

「あなた、言わないけれど眠いんでしょう。ごめんなさい。運んでもらってるあたしが言うのはおかしいけれど、無理はしないで」

 相楽は榛名より強く『眠り』に影響されている。榛名の疑念は確信に至っていた。

 警察署で倒れたのは、眠気に耐えきれなかったから。重そうな瞼を懸命に開こうと努めながらも時おり足がふらつく様子を、榛名はじっと観察していた。

 相楽が驚いて立ち止まりかけ、頭を下げた。「お気遣い感謝いたします」と平坦な謝辞の後、歩くペースを上げる。

「白幡博士がどのように不死者を暴こうとなさっているのか、榛名女史はご存知ですか」

 相楽の提案は、眠気覚ましの世間話だった。

「伝承の魔物、神様の類が実在しているなど、私は未だに嘘のようだと思っています。榛名女史はどのようにお考えでしたか」

「……あたしも同じ。鬼だけでも手に負えないのに何よそれ、あんたの創造した言葉で喋るのはやめてって思ってたのよ。面と向かって説明されたこともなかったしね」

 榛名から「話して欲しい」と頼んでいたら、遊はその仮説と根拠を明かしてくれたのか。そんな仮定はもう意味の無いことだけれど。

 遊の思考を覗き見る事故で知ってしまった「不死者」というモノは、榛名の想像よりずっと整然とした知識の上で存在を予測されていた。これを虚言とは笑えない。あまりにも理論が完成されている。「説明はせず信じてくれとは無茶を仰る」「もっと言ってやって頂戴」順に話していくため、榛名はとりあえず確認から始めた。

「相楽くんは見たところ隊員さんよね、座学は得意だった?」

「比較的得手だと自負しておりますが、どの程度の理解が要求されますか?」

「ヒトの鬼化変性機序……概論程度かしら。それと、現在おもに運用されている呪力測定法の標的物質。『現在の呪力測定法が何を測定しているか』を説明できること」

「恐らく問題ありません」

 相楽の答えは虚勢には見えない。榛名は安心と同時に情けなくなり嘆息した。

 北支部の隊員も武術や体術だけでなく、こういった話の出来る人がもっと居て欲しい。生き残るのが最重要だと座学を捨てる輩の多いこと。最低限、討伐作戦を理解するための知識を備えてくれ。「殺せばいいんだろ」じゃあない。だから中央本部から田舎の蛮族とか呼ばれるのよ――榛名は泣きたくなって考えるのをやめた。

「今の呪力値の測定法は、鬼化変性の初期過程で生じる特異物質の血中濃度を呪力値として運用している。いわゆる『間接法』よね。直接的に呪力を測定してはいない」

 特異物質の検出は、ある段階まで鬼化変性が進行したという証拠でしかない。しかし特異物質の血中濃度は鬼化変性の進行度と強い相関が実証されているし、客観的評価基準としての運用には何の問題もないのだが。

「不死者が現在の呪力測定法で発見できない理由は簡単。膨大な呪力を持つにも関わらず、不死者の身体は鬼化変性を起こさない。だから特異物質は産生されないし、呪力値も健常人と同じくらいになる。これは化学分析上、病理所見上でも同様。だから鑑別手段がない」

「……膨大な呪力を蓄え、鬼よりも遥かに高度な奇跡を操る彼が、……彼らが。本当に人間と差異が無いなんてこと、有り得るでしょうか?」

「分からないわ。不死者だという確証のある被検体を徹底的に分析したら解ることがあるかも知れない。知識のある人間が、確実な不死者を捕らえて、鑑別目的で調べること自体に例がないから」

 そう。それが叶ったなら、遊は不死者を炙り出す方法を見つけてしまうかもしれない。


 傾聴に徹していた相楽が「実は」と口火を切った。

「私は以前、不死者に会ったことがあります。彼……か、彼女かも分からない怪物は、自身の意のまま自由自在に肉体を変化させてみせた」

 骨格、筋組織の増減、性別から身体の色素まで変幻自在に操った魔物のことを、相楽は途切れながら語った。相楽本人も夢だと言われれば信じてしまうかもしれないという記憶に、榛名は二度目の衝撃を受ける。

 一度目は、遊の中でほぼ完成した、不死者の存在を示す推論を目の当たりにした衝撃。そして二度目が、――その実在を語る第三者によって不死者の存在が肯定されたこと。

「私は、人間と不死者が同じとは思えません。不死者と呼ばれる彼らに抱く感情は力あるものへの畏怖であって、只人と並べることなど罰当たりとすら思ってしまう」

「……その信心は、あなたが不死者をその目で見たから?」

「恐らくそうです、今も信心深い方ではありません。それでも彼に出逢って、その怒りに触れた時……私には、この畏れ多い魔物の許しを乞うことしか出来ないと、頭を垂れながら思いました」

「……あなたが無事で良かったわ」

 榛名は全て信じた訳ではなかったが、彼が出鱈目を言う人間ではないとも察していた。

 息を吐いて、呼吸を整える。

「冗長な説明でごめんなさい。遊がどうやって不死者の存在を可視化しようとしているか、よね。考えうるアプローチは二通り」

 遊の脳に残された思考を覗き、諳んじる。


「ひとつめ、彼らは鬼とは比較にならない高度な術を操る存在だから、その呪力に狙いを定めるアプローチ。こちらの目標は呪力の直接測定法の開発ね。人体の内包する呪力『そのもの』を直接定量する技術を発見することで、不死者の存在を可視化する。

 ふたつめ。確実に不死者と呼べる個体を確保できたなら、徹底的に分析にかけて人間との差異を探すことができるかも。……って仮定した通りのことをする。こちらの目標はもちろん、確実に不死者と断定できる個体を捕まえること」


 遊の脳はあまり長く覗いていられないため骨格程度だ。けれどそれらは断片的に聞かされてきた情報や、今朝の自然公園で起こした器物損壊とも矛盾しないように見える。

「いま遊が進めているアプローチはこの二通りよ。不死者の確保については各地に根付く成体に揺さぶりをかけてきたけれど、未だこれという手応えが無い」

「成程。それで妹君が」

 そう。遊は偶然、紫乃の呪力値データを見つけてしまった。仮説に基づく不死化変異パターンのひとつを模倣したのかというほど理想的な呪力値変動を見せた、変化過程の幼体を。

 健常者では有り得ない生体変化――鬼化変性初期からの回復および、以降の呪力値減衰傾向を示す予後。成体の不死者に手が届かず難航していたところに、設えたような美しいデータを叩き出す被検体がぽんと現れたのだ。

「紫乃が、……かなり確実そうな不死者の幼体が見つかるのは遊にとって想定外だったけれど、見つけたからには捕まえる気でいるわ。簡単に見逃してくれるほど甘い執着じゃあない。どうすれば助けられるか考えているけど、答えが出ないの」

「……では、」

 相楽が訊ねる。

「榛名女史は、白幡博士の研究を看過できないと――妹君の為にも、止めるお気持ちがあると解釈してもよろしいのですか」


 榛名はしばらく答えなかった。

 ざく、ざくと。相楽の歩みだけが一定のペースで進んでいく。端末の地図を確認して目線を上げたとき、しがみつく子どもの腕に力が籠る。

 相楽の背中に顔を伏せながら、榛名が呻いた。

「……鑑別手段が見つからないのは調べていないからだ、出来る限りの分析も怠って思考を止めるのは愚かだというのが遊の性格。それはあたしも同意するの」

 科学というものは特に、大多数に支持されてきた定説が新発見で覆されることが珍しくない。鬼化変性という未知の領域なら尚更そう。

 遊の構築した不死者の理論とて所詮は仮説だ。検証の裏付けが無ければ三文小説と同じ。鬼化変性研究の第一人者はかつての遊だが、論説の証明と受容が成されたのは無数の学者達が積み重ねた尊い研究成果による功績だ。

 鬼化変性は提唱から長く相手にされず、時代を超えて見直された。遊の論文をオカルトと一蹴した当時の学会を批判する声もあるが――榛名は遊の追放を避けられなかったものと考えている。遊の論文が概ね正しかったのは結果論であって、再現性や普遍性への言及を欠いた突飛な理論を持ちこまれて困ったのは当時の学者達だろう。

「研究者として持つべき誠意は、疑い続けること、研究結果と真摯に向き合うことだと思うわ。信頼性のある結果を積み重ねて、自分達よりも先の科学者達やその研究の糧になる記録を残すこと。……遊の論説には足りないものも多かったけれど、誠実さは持ち合わせていたと思う」

 重要なのは正しいことではない。研究で判明した仮説の真偽に関わらず、詳細な分析を怠らないことだ。考察し、反証を模索し検討する。

「正直に言うと、研究者としての姿勢には同調したの。発想や知識量、他分野の知識を統合する処理能力……遊の能力や貪欲さは本当に尊敬した」

 榛名は素直に、遊の研究者としての一面を見直した。この人間離れした天才の研究を傍で見たい。仮説の証明を手伝いたいと思ってしまった。

「……もしも相手が紫乃でなければ、あたしは遊の側につくかもしれなかった。それが怖くて、あなたの問いに答えられない」

 独白は終わった。足音だけの沈黙が、不意にひりつく無音に変わる。

 榛名がぎゅっと目を瞑った。


「よいしょ、と」

 相楽が軽く跳ねて、ずり落ちる榛名をしっかり背負い直す。

 よしと小さく聞こえた声は、榛名の恐れたものではなかった。

「迷いがあるのなら、……貴方は博士の研究が孕む危険と、何故それが『受容されないのか』を理解しているのでしょう」

――そしてご自身が、恐れている。

 表情は見えないが、平坦な声には安堵があった。

「その恐怖があるのなら、大丈夫。貴方は倫理を尊べる研究者なのだと思う」

 続いた言葉は遠い過去を眺めていて、


「鬼化変性の論文を完成させるため博士が行ってきたことを、きっと貴方は許せない」


――鬼化変性の論文。遊が過去、一度目の人生で完成させた研究の基盤に何がどれほど積み上げられてきたか。

 遊の記憶の片鱗に触れると、脳がじん、と炎症を起こす異物感を訴える。冷汗の滲む感覚は、ことに古い記憶や感情の伴う思い出への立ち入りを躊躇させてきた。

 知識に手を伸ばすたび、記憶を探るたびに、脳の芯に冷えた針金を差し込まれる感覚が歯の根のあたりを痒くさせた。嫌悪感を堪えて探り、榛名が指先を伸ばす。

 そうして彼女は「ユウ」の深層に触れた。

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