正義の執行人と殺し屋

12

 彼女の自覚した悪の定義は、他者の境界さかいの侵害である。

 元来ただしく保障されうる権利、財産、生命にその他。あらゆる他者の領分を侵し、みだりに壊し、奪うこと。

 秩序の破壊を咎める理性を、我欲が上回ること。たがを持ちえなかった気質が災いし、他者や社会へ害を為すこと。


 肉親を奪われた憎悪に染まり、復讐心から犯人を屠った凶刃が、彼女に悪を自覚させた。


――悪とは行為の是非である。怨恨の有無で正当性されてはいけない。

 血濡れた包丁に浮かぶ死人と向き合い、憎む仇と同じ悪徳を犯した現実を――同等の外道に落ちぶれた自己を、死にゆく心の隅で認めた。

 悪人の我が身に、情状酌量など許せるはずもなかった。


 箍を壊したのは感情だった。彼女は激情を危険視した。

 自らを律し、感情を排し、理性的であれと努めた。残された人生すべて償いに費やすと誓い、厳しい職務に身を投じた。

 そのようにして彼女は変わる。

 届く限りに悪を検挙し、善良な市民が善良なまま暮らせる秩序を維持する人間に。非道の連鎖が、自らのような新たな悪を生まぬよう。


「釈明はありません。羽住さんが列挙なさった事件はすべて私の行ったことです」

 北の裏街で都市伝説として囁かれ、長く実態の掴めなかった始末屋「死神」は、殺風景な面会室で眉を下げて笑った。


 医療用の眼帯と痩せた体躯が相まって、隔離患者と言われた方がそれらしい。

 男からアクリルの仕切りを隔て、スーツ姿の女が長髪をかきあげる。さらさらと指から逃れる金糸ブロンドの隙間、鋭い視線が資料を検めていく。

 ぎいとパイプ椅子が軋んだ。女――羽住はすみが口を開く。

「古いもので十年近く昔の事件だ。思い出すだけで時間が掛かりそうなものだが」

「そう仰られますと……覚えていますよ、としか申し上げようがありませんね」

 白く細長い、小枝のような指がアクリルを叩く。指しているのは羽住の資料、最も日付の古い事件――通り魔の犯行として処理されていた嘱託殺人。

 被害者の名前と人柄、殺害方法、依頼経緯。子どもを寝かしつける声色で紡がれだした思い出話は、感情を殺した制止によりピタリと止まった。

「……事実関係は把握したものとする。悪趣味な証明は結構だ、雨屋あめや浩太こうた

「承知いたしました」

「釈明は無いと。その言葉は真か」

「間違いありません」

「一つでも、強要された殺しはあるか」

「全て、私の意思で行われました」

「反省はしているか」

「一切ございません」

「殺人は悪だと、理解しているか」

「理解しております」

 羽住の眉間にしわが寄る。軽い吐き気を催した。

 明らかな矛盾を辻褄のあったもののように並べる神経が理解し難い。にもかかわらず雨屋の言葉は真実らしく聞こえるから、巧妙な騙し絵じみて気分が悪い。

「……貴様は一体、何を考えて依頼殺人を行っていた?」

――悪と知りながら殺人を犯す理由が何処にある。

――悪を為した分際で、反省がないと言い切る心理は。

 羽住の懊悩は深いが、悩ませる側は怪訝な顔だ。アクリル越しにひらひら手を振り、揺るがぬ無反応に指先が泳ぐ。

「その問いが殺人の動機をお尋ねなら、『頼まれたから』。それだけですよ」

 死神は始末屋だ。依頼を請けて殺す。当然といえば当然の答え。

 羽住の眉がぴくりと動いた。

「依頼するどなたかがいらっしゃる以上、全てに正当性があると思うから。犯したことを省みることはいたしますが、その可否が覆ることはありません」

――殺して欲しいと。願いがあるなら正当か。邪悪な動機であってもか。

 何の非もない命が奪われ、遺族が悲しみ、復讐に憑かれた悪が生まれても。それでも貴様は同じ台詞を吐くつもりか。


「狭間通りに棲む死神」の都市伝説そのものは雨屋の出生以前にも遡れる。膨大な歴史ある「死神」の犯罪から雨屋のみを抽出すると実はそれほど多くもないが、手際の良さと凶悪性は群を抜く。

 活動の最盛期は名を得てから数年間。ある時点から年単位の休止期間を挟み「人喰事件」を契機に復帰。最終的には自ら事件への関与を認める形で自主的に組織へ収容された。

「殺しの技術は貴様の『前世』に由来するものだな」

「仰る通りです」

「そして『前世』は、安岐和泉に縁あるもの。血の繋がった父親だった」

「……羽住さんがその仮説に拘る理由は、一体?」

 曖昧に笑うだけで肯定はしない。前回と似たり寄ったりの反応だ。

「貴様の『動機』に関わると推測しているからだ」

「動機なら『頼まれたから』と。以前も」

「人喰事件もか?」

 雨屋の返答は要領を得ない。

 依頼あっての遂行であるから受動的な実行。供述は疑っていないが――足りないのだ。

 この人喰事件に限って、雨屋は能動的に仕事を受注している。

「貴様が人喰事件――『安岐和泉の救出』に手を貸した理由だけが明確でない。不自然と言ってもいいだろう。であれば理由は貴様の前生にしかない」

 一度は辞めた殺し屋に復帰してまで、安岐和泉の救出に与した。

 この事実こそ遠からぬ縁故の証左。雨屋が父親だという推測の根拠だった。

「ははあ、なるほど……」

「答えるなら肯定か否定かだ。腑抜けた返事は求めていない」

 現在の事実関係への供述は淀みないが、前生に関しては言葉を濁す。その差が雨屋に抱く疑念であり、晴れない以上は追及を終えることもできない。羽住の職務は過去への確認事項を残すばかりだ。

「常に薄笑いを浮かべてばかりの貴様が、この問いには明確に可笑しな反応を見せた。先ほどから執拗に話を逸らしたがる」

 雨屋が眉をますます下げて、困った様子で微笑む。

 増える口数は、言い訳がましいと取れなくもない。

「紛らわしい挙動は謝罪させていただきたく。申し上げにくいのですが、あなたの解釈は誤解です。毛髪でも血液でもお持ちになって、然るべき検査を、……」

「現在の遺伝関係を調べて何になる。問題なのは貴様の過去だ」

「……それはまったく、仰る通りで……」

 雨屋は長考を続け、ひとつ提案を捻り出した。

「……幾つか、羽住さんの疑念を払拭できそうな事実をお伝えします。証明に事足りるかは、あなた自身でご判断くださいませ」



「人喰事件の情報を流し、安岐和泉の救援を要請したのが貴様だという供述は、事実か? 氷崎ひざきすばる」

「……わかりました。話なら聞きますから、雨屋に文句だけ伝えておいてくれますか」

「請け負おう」

 休日の聴取に応じた大学生は、促されるまま喫茶店のテーブル席へ着席した。羽住も向かいに腰掛け、注文の珈琲が届くまでの間、沈黙を苦にしない様子の氷崎を観察する。

 殺し屋「死神」に毒薬を融通していた薬師。協力者であり、共犯。

 氷崎の所業も処罰の対象である。現状、狭間通りで行ったのは治療行為のみという事実と、調合毒の卸先は死神に限るという裏取りを終えたところだ。

「雨屋浩太との関係性は『前生』同様の友人関係だと聞いている」

「そうですね。一緒に悪巧みするくらいの仲です」

「当時の間柄、接点の詳細に説明を求めたい」

「入職時期が近いので同期みたいな感覚でした。一緒の仕事が多かったのと、僕の本職として怪我の治療、調合毒の融通に……医局の雑務を手伝ってもらったりもしましたよ」

 店主が届けた珈琲に、氷崎が「ありがとうございます」と会釈する。

 ひとくち含んで熱さに怯み、一旦カップを置いた。

「裏街に出てたお兄さんの救援依頼、……人喰鬼の討伐でしたか? ちょっと覚えてないんですけど、押し付けたのは事実ですね。色々と考えたら丁度いいかなと」

「色々?」

「中央から『見捨てろ』と命令があっても、実際に護衛対象を死なせた隊員に何らかの罰はあると思いました。だから黙って責任を取ってくれそうな隊長に押し付けてきた。……お兄さんが『外部の人間のせいで助かってしまう』のが僕らの隊にはいちばん丸くて、それをやってのける人間にも心当たりがあった」

「技術目的での要請、か」

 中央本部の思惑に関し異論はなかった。仮に和泉が人喰鬼に殺された場合、北支部及び冬部隊に何らかの処罰は免れなかっただろう。

 本部からの極秘命令は喧伝せず、保護対象を死なせた責任のみを重く受け止めるだろう生真面目な隊長――冬部が人選された。

「親しげな呼称は、安岐和泉の縁者というわけではないと」

「……お兄さん、て呼び方。親しげですか?」

 氷崎の表情が曇った。

 しばし沈黙があったものの、溜め息で切りかえ平静を取り戻す。

「僕は極力あの人を刺激したくないので、呼び方ひとつで機嫌をとれるならそうします。おかしいですか?」

 仮に過去、氷崎と和泉に縁があれば、和泉が無反応とは考えにくい。過去と容姿が違う可能性も否定しないが、声帯で個人を識別しがちな和泉は見目の変化に惑わされづらい。

 和泉の縁者の線は薄いとみた。現段階で、雨屋に覚える以上の可能性は見出せない――羽住は結論づけ頭を下げる。

「率直な回答、感謝する。次いで何だが、共犯関係の詳細……支援および協力の領分を確認させてほしい」

「分かりました。どうぞ」

 薬師の能力として、薬毒調剤と提供。加えて隠匿を含めた報酬管理、仕事に関する連絡の仲介役。外部協力を仰ぐ際の交渉と調整も氷崎による手腕だ。

 言わば氷崎は、死神の裏方として欠かせない役目を担っていた。

「僕の『補助業務』は充分に殺人幇助だと思います。なのに、罪状が毒劇物の取り扱いと無許可の医療行為しか確定していないのは理由があるんですか?」

「貴様の協力に関しては、避け得ない事情につけ込んだ脅迫で取り付けたものと供述している。調査の結果、貴様の家庭環境は情状酌量に充分な理由たり得ると判断された」

「あの馬鹿ほんと使えるものは何でも使いますね」

 氷崎は呆れてものも言えなくなった。「恥とか知らないんでしょうね」と吐いて、冷めた珈琲にやっと口をつける。

「脅迫とかはないですよ。そもそもあいつ、僕の環境を哀れんだことなんか一回もありませんからね。僕も両親の放任を幸運として享受してきましたし。あなた方が『かわいそうな事情』だと解釈したいのなら勝手にどうぞ」

「感情的な憐憫ではない。物理的な支援の欠如を指摘している」

 両親の育児放棄と、経済的支援の望めない家庭環境。欠陥のある環境に生まれついた氷崎へ殺し屋が持ち掛けた契約は、自立の難しい状況を打開する活路だった。

 やむを得ない事情、情状酌量を検討する背景があるなら、氷崎の環境がそれに近い。

 中学卒業と同時に一人暮らしを始める資金、自立支援、大学の学費。全ての出処は、共犯の対価に支払われてきた破格の報酬――雨屋が殺人で得た金――に、他ならなかった。

「良心は咎めなかったか」金の出処は知っているはずだ。

「お金はお金ですよね」笑顔に曇りはない。

「報酬と犯罪を秤にかける理性と、その上で迷わず自由の拡張に傾くくらいの悪性はありますよ」

「家庭環境がまともであればその命題も発生しない。充分な養育と経済支援、子が教育を受ける権利は、本来なら対価を払わずとも保障されるべき権利だ」

 公正な裁きには人権への配慮が伴わなければならない。

 一般水準と同等の環境を獲得するため対価が必要な仕組みは、すなわち悪を産む社会構造である。正されなければならない欠陥だ。

「……そういうのがまとも、ですか。へえ」

 氷崎は羨ましくもなさそうに独りごちる。処罰が軽いぶんにはありがたいことだと、平然と呟いた。

「僕にも、弱味で脅されて不利な契約のむような、人並みの繊細さがあれば良かったんですかね」

 氷崎は、雨屋が恐らく死罪になることを承知していた。

 仮にも友人と評した相手を案ずるにしては冷静な顔だった。「何人殺したか分かりませんけど。抵抗しないし、庇いようもありませんし」と、死刑に納得する素振りも含めて。

「……量刑を定めるため、動機や背景を詳らかにしている。その調査段階だ」

「そういえばさっき、情状酌量がどうとか仰ってましたね。そんなこと調べなきゃいけないなんて、裁く側のひとって大変なんですね」

 他人事の物言いに羽住が眉をひそめる。

 情状酌量など仮にあっても焼け石に水。犯人は容疑を全面的に認めて釈明もしない。公正を期す為の調査だと分かっていても、その態度にはたびたび苛立ちを誘われている。

「あっちの家庭こそ問題ありませんでした?」

「雨屋は中流家庭から勘当された不良息子だ。両親はきちんと扶養義務を全うしていた」

 素行の悪さから口論の末に両親と縁を切り、自主的に家出して以来帰らなかった。家事労働や身売りを対価に他者の家を転々と渡り歩き、身元の不明瞭な人間として住所不定の暮らしを続けていた。

 情報開示へ怪訝そうに礼を述べる氷崎は、雨屋の生い立ちを知らなかったらしい。

「貴様の問題を把握しておきながら、自身の個人情報は語らなかったのか」

「僕の話は自分でしましたから。なんか卒業式とか野次馬しに来たがるなあとは思ってましたよ」

「どういった情動だ?」

「珍しかったんじゃないですか?」

 もの言いたげに黙る羽住をちらと見ながら、氷崎も特に説明はせず珈琲を飲み干した。

「厄介な喋り方は置いといて、僕の知る限りの雨屋はほとんど嘘つきません。信用できない気持ちは分かりますけど、僕に事実確認しても二度手間になりますよ」

 テーブルに珈琲代の紙幣を置いて、氷崎が席を立つ。「代金は不要だ」「頂くのも悪いので。お断りします」明瞭な返答は淡白だ。

「、――……最後に一点、聞かせて欲しい」

 最後まで確認を躊躇した「事実」を、やっと口にする。

「過去の雨屋浩太に、生殖能力が無かったというのは。真実か」

「? あー……、はい、本当ですよ。主治医として保証します」


 ■


 報告を聞き終え、雨屋は「そうですか」と答えた。

「氷崎さん、お元気でしたか」「問題は無かろう」ひと声で世間話を切上げる。性急さは自覚していた。

 思考を書き留めた手帳を開き、やわらかく歪んだ頁を指で探る。

 アクリル板の向こうから、雨屋が気づかわしげに羽住を覗き込んだ。

「ひどい隈ですよ。休息を取っていらっしゃいますか」

 雨屋はずっと、北の支部長である多々良から、対策部への所属を打診されていた。

 北支部長は目をつけた人材の勧誘に余念がない。本人にとりつく島がない場合、周囲や縁者から取り込もうとする手管はよく知っていた。

 そして、雨屋の「人質」は。

「……もう猶予が無い。今日は、答えを得るまで解放してやるわけにはいかない」

――雨屋の『前生』の正体を知る支部長が、和泉を餌に利用した。

 過去、社会の弾かれ者を取りまとめて反乱軍を組織し、煽動した実績を持つ男だ。人心掌握や急所の把握に秀でていることは分かっている。

 そんな男が用いた人質だからこそ、雨屋が和泉の男親だという仮説が補強された。

「聴取は構いませんが……猶予、とは?」

「血縁だけが親ではない。過去、安岐和泉に愛情を注いだ育て親とも考えられる」

 一度は辞めた始末屋に復帰し和泉を助けた心中は、氷崎からの要請に従っただけなのか。人喰鬼という勝ちの見えない脅威に対して、名乗れもしない立場でも、一片の情に動かされたのではないのか。

 狭間通りで棗陽介の襲撃に遭った際、瀕死手前まで逃げず戦い続けたのは、放っておけば棗の刀が場にいた人間――和泉を含めた三人。に、向くと予測した為だろう。

「安岐和泉に対し、命を懸ける理由があるか否か。確認したいのはその一点だ」

「何故、その様なご質問をなさるのですか」

「肯定か否定かだ。それ以外の回答は受け付けない」

「であれば否定と申し上げるほかございません」

 回答は短く明瞭だった。さらに続く。

「安岐さんと私に縁はありません。現在でなく過去が問題だと仰っても同様です。私が過去、仮に彼の父親であったとしても『雨屋浩太』には関わりのないことです。……過去のことは私ではなく、死体へお尋ねになってくださらないと」

「……本当に、何の情もない人間のために、命を捨てる博打をうったと?」

「不自然だと仰りたいのですよね。個人の思想の違いかとは思いますけれど……」

 呟く雨屋は、理解を得られないことを初めから納得している。頭を抱える羽住を眺めて「あなたはきっと、信念の確りした御仁でいらっしゃいますから」と頷いた。

「……貴様の、先の問いに答えてやる。安岐和泉の命を捨て置けないなら。貴様にとっても看過できない事態が起きている」

 揺さぶりをかけて情報を引き出すやり口は嫌いだが、試す価値はあった。

 どちらにせよ事態は切迫しているのだから。

「いま現在、安岐和泉は中央に拉致監禁されている。身体拘束に人格否定、摂食制限やホルモン剤投与による肉体改造をはじめとし、彼という人格を根本から破壊せしめんとする拷問同然の責苦に苛まれている」

 中央本部に所属する従姉によって拉致され、彼女の自宅に監禁された。目的が個人的な独占であるため中央本部の関与が無いのは幸いだが、外部地区から中央地区への侵攻が困難なことは変わらない。

 和泉が鬼化した推定の危険度は人喰にも匹敵しかねない。精神負荷は鬼化を招く危険と同義であり、羽住の属す組織は何としても阻止する必要があった。

「策はある。が、駒が無い。……貴様にその意志さえあるのなら、安岐和泉の救出及び奪還作戦への参加を許容――否、要請する」

 父親かと問いかけた際の動揺は、気のせいではなかった。

 愚かなのだろう。それでもまだ期待を捨てずにいた。この悪人にも、欠片ほどなら人間の心が残っているのではないかと。

「やさしい人は、大変ですね。厄介な縁にまで好かれてしまって」

 男はやんわり眉を下げ、無辜むこの子どもの命を見捨てた。


「……それが貴様の答えなら、私はもう何も言うまい」

 羽住は手帳を閉じた。へらりと変わらぬ男と向き合う。最早いかなる感情も無い。

 事件の動機に過去が無関係なら、追及も必要なかった。善悪勘定も挙動の整合性も破綻した男が過去から引き継いだ殺人技術をみだりに行使し無秩序に暴れた。事実はそれだけだ。

「中身も無ければ失うものも無い。貴様のような人間が、罪悪感なく他者を害するのだろうな」

「以前からその様に申し上げておりますよ」

「……その通りだ、初めから貴様は偽らなかった。自身の生業が社会の癌とも気付かず幾重にも罪をかさねた、頭足らずの破綻者そのままだった」

 感情が煮えている自覚はあった。理性が警告する。しかし目前の男は彼女にとって、何をおいても決して許さないと決めた悪だ。

 かつて一度は手に掛けた、生まれながらの悪人だった。

「重さも分からず命を奪い、復讐を誓う悪を生み、依頼があるからまた殺す。市井に悪意を拡散させ続けて何故へらへらと正気でいられる」

「? ある意味では正しい営業戦略と呼べるのでは」

「貴様の悪性を見くびっていた。そうだな、貴様は悪と知っても事を成す。罪の重さを感じないから苦しみもしない。最も救いようのない邪悪だ。……どんな文脈であれ復讐を正当化することは許されない。私が許さない」

「では。何故、許されないと?」

――貴様はそんな事すら分からないのか。

 鼻の奥に、錆びた脂の匂いが蘇る。ぬめる刃が肉に沈む感覚も。

「復讐は復讐を生む。復讐しか生まない。殺したところで奪われた隣人は帰らず、死者が復讐を望むことも有り得ない。自己満足。極めて醜く耳障りのよい悪徳だ」

 憤怒から衝動的に暴走するもの。誤った正義に酔って道を踏み外すもの。すべて等しく、すべて愚かな行いだ。そして自分も愚かなひとりだった。

 眼帯に隠れていない雨屋の片眼が、羽住の声で微かに揺れる。瞼を閉じて頷いた。

「……そうですね。……天国でお待ちのその御仁は、愛するひとが過ちを犯すことを悲しまれるでしょう」

 声の調子は羽住よりも平静だ。

 大人しい肯定に羽住の溜飲はかすかに下がる。理性の欠けを自覚し、自律が叶いそうな間際だった。

「でも同時に、復讐に安堵なさる死者もいらっしゃると思いますよ」

「……何だと?」

 その妄言は聞き捨てならないと、怒気が満ちた。

 所詮は詭弁だ、耳を貸す価値はないが放置はできない。ふざけた理屈がのさばらないよう完膚なきまでに叩き潰さねばならない――

 睨めつけた男は、羽住の殺気を素手で抱き締めやわらかく笑った。

「感情に従うまま及んだ凶行ことで足るかはどうあれ、ご遺族様がお気持ちを整理される切欠ではあるでしょう。……遺してきてしまったひとが、亡霊の恨み言の幻聴から解放され憂いなく笑えるようになるなら。その過ちを、誰が責めようとなさいますか?」

 死者の温もりを象り、遺族の復讐を正当化する論。

 戯言だと切り捨てかけた手が――自身の首へ掛かった事に、彼女は気付いてしまった。

 この詭弁を否定することは、かつて傍に居てくれた誰かの優しさを否定することと同義である。死者に敬意を表し、恩義ある誰かを亡くしたものほど反論できない。

 死者を盾にした復讐の擁護に羽住は激する。許されざる冒涜だった。

 何故なら死者は語らない。

 幻影に救いの言葉を代弁させ、安息を得ようとする心理のなんと浅ましく愚かなこと。

「復讐は遺された側のエゴでしかない。故人が安堵するだと? そんなもの、弱い人間が救いを求める一心で死者を貶め作り出した、生者にばかり都合のいい幻想だ」

 復讐にあるのは正義ではなく、怨恨を動機にした私刑だ。手元に残るのは消えない罪と色の欠けた現実だけ。

 恨みの声は幻聴で、嘆く背中は夢まぼろし。歪めた認知と憎しみばかりは復讐の有無に関わらず焦げ付いたままで、それでも血を見て少しばかり軽くなった心は、時おり重さを見失ったように吹き飛びそうになる。

 虚ろを抱えて生きながらえ、一人きりで罪を抱えつづける。

 救いを求めたとて誰も答えてはくれない。


 この地獄こそが贖罪だ。救いなど、求めてはいけない。


 雨屋の手がアクリルに触れる。羽住の瞳をなぞり、病人の白さの指が動く。

「復讐は生者のエゴ。良いことです。だからこそ安心できます。復讐を遂げ、死者とも憎しみとも決別できた愛する人に安堵する。……だって、当たり前でしょう」

 一瞬だけ、その唇が動かなくなることを願った。

 嫌な予感は現実になる。


「死者の願いは、遺された人の――あなたの。幸福だけだ」

 こんな甘言で、貴方がたの笑顔を思い出したくはなかった。

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