友人に置いていかれた男

13

 異類対策本部北支部、職員駐車場に停車する警邏車両の一台。

 運転席で人を待っていた棗は、窓ガラスを叩く大男を怪訝に見た。

「今日のシフト、氷崎が都合悪くなったらしくてよ。連絡いってねぇか?」

 冬部に促され開いた端末には、本来の仕事相手からメッセージが届いていた。代理で来たという説明に状況が腑に落ちる。

「分かった。助手席そっちドア開いてる」

「運転代わらなくていいか?」

「それより資料に目通して。走りながら説明する」

 冬部が身体を助手席に詰め込み、ゆさと車体が沈む。

 周囲を確かめエンジンをかけ、待機地点までの道のりを急いだ。

「術者は単独犯で、現時点で罪状は呪具の無認可所持だけ。呪具は主に逃走と撹乱用で、使用者を別人に誤認させる幻覚作用がある。ただし幻覚は一人にしか作用しない」

「それで二人組か。幻覚にかかってねぇ仲間が居りゃ、かかってる方を支援できる」

「氷崎と想定してた段取りはそれ。僕とさくだし、どっちか動ければ一人で捕縛できそうな気もするから状況に応じてそれなりに、でいい?」

 車を停め、路地から市街を監視すること数時間。資料に一致する人相を確認したと通信が入り、相槌も短く挟撃に散る。

 術者を捕捉した棗から通信が途切れた。

「……陽?」

 冬部が立ち止まる。返答は無い。

 追跡情報のみの機械的な列挙に応じながら走り出す。大通りへ紛れても途切れない追込みと、平静をつとめ押し殺す声に嫌な予感がした。

 争う物音が聞こえた。あまりの恐怖で取り乱した術者の声に、耳を塞ぎたくなる。

 じっとりした殺気が滲んでいた。

「――居なくなった人間に化けてんじゃねえよ」


 刃が重なり火花が散る。


 術者に振り下ろされた刀を、冬部が大太刀で押し返した。吐息を引き攣らせ失神した術者の手から、呪具――鬼の角の加工品が転がる。

「……陽、お前やっぱ休め。あとは俺がやる」

 刀ごと弾かれ尻餅をついた棗を見下ろす。刃を合わせて悟った軽さに眉を顰めた。

「立てるか」と差し伸べた手に溜息が返ってくる。棗は一人で立ち上がり、刀を拾って鞘に収めた。

「……傷も治り切ってない隊長よりはマシだと思うけど」

「総務から働かせ過ぎだって苦情来てんだ。確保しなきゃなんねぇ術者を殺しかけた奴に言われたかねぇぞ」

 心配しながら拘束し終え、術者の身柄をひょいと担ぐ。棗から車両のキーを預かり、後姿に声を掛けるも動かない。

 冬部は、術者が棗に「誰の」幻覚を見せたのか思い当たった。

「……頼むから、休んで頭冷やせ。思い詰めんな」

 棗の友人であり、殺し屋でもあった男がどうなったかを冬部は知らない。度重なる犯罪への処罰はもちろん生死すら。はたから察せるのは、男がいなくなった現状だけ。

 そして友人の喪失を、棗がまだ飲み込めていないこと。

「……思い詰めてなんかない。そんなもんに割く頭は残してないから」

 冬部からキーを強奪し、早足で路地を出ていく。

 冬部隊に休養命令が下されたのは翌日のことだった。


 だん、と。支部長室のデスクが殴られ軋む。

「休職だぁ!? なんで、僕まで!!」

「不満ならこちらでもいいよ。ペナルティとしての停職、と」

「ペナルティ……って、」

 言い淀む棗を支部長が見守る。逆賊は三人限り、短時間の出来事だとしても、北支部長を相手取って反乱騒ぎを起こした事実は認めているらしい。

「安岐くんの休職も、冬部隊長の負傷もある。元から隊としての活動は控えてもらうつもりだったよ。仕事で気が紛れることもあるかと傍観していたけれど……君はいま、自身の消耗すら知覚できていない」

 棗の脳裏にお節介を焼きそうな顔が浮かぶ。

 支部長は「報告をくれたのは冬部隊長だけではないよ」と注釈して微笑んだ。

「これ以上、君の悪癖は看過できない。休養を命じます。棗副隊長」

 医療機関で精査を受け、心身の回復に努めること。

 実戦またはそれに準ずる戦闘行為の禁止。訓練は許容とする。

 挙げればすべて「戦闘禁止、療養優先」に集約される行動制約は、仕事一辺倒だった棗を自宅に留め、また早々に飽きさせていた。

――そも、大人しく従っておこうというのが気まぐれに過ぎなかったのだけれど。

 疎かになっていた家事は数日で尽きた。食料品の調達と保存処理、見様見真似で数種の常備菜まで揃え終えた冷蔵庫にこれ以上の手出しは無用だろう。身体面の負傷も異常も確認されず、それゆえ気遣うものもない。

 深夜、武装をととのえ外に出た棗は、小柄な男に行く手を阻まれた。

 薄い唇が夜闇に動き、無機質な声が響く。

「貴方の監視の任を負っています。お戻りになってください」

「そりゃご苦労さま。適当に話合わせといてやるから帰れば?」

「なりません」

 肩を押し退け――たかった男が石のように動かない。

「……、」

「なりません」

 墨色の短髪と瞳、言葉少なに帰宅を要請する男は「監視役」の一人らしい。

 戦闘沙汰の予兆を嗅ぎとり制止に現れる彼または彼女らの中でも、ことに撒きづらい男が煩わしくなるまで時間はかからなかった。

『彼、優秀だろう? 研修生の脱走にも慣れてると聞いているよ』

 ひとの監視と脱柵を一括りにするな。

 苦情を入れた支部長は例のごとく面白がるばかりで役に立たない。知ってはいたが。

 舌打ち混じりに漁った資料に男の名は無かった。北へ転属になったばかりらしい。

 男に覚えた既視感との齟齬は、とうに埋もれた過去の資料に答えがあった。

「お前どっかで見たと思ったら、シスコン助けに名乗り出た中央の物好き?」

「組織」――不死者及び第一級危険特別犯罪対策組織。不死者ばけものの秘匿に主旨を置き、和泉の誘拐の折、その身の鬼化と暴走を危惧して救出作戦を決行した秘密組織は棗のもう一つの職場である。

 その組織に「唆され」「和泉への私情から中央本部を裏切り、組織を手引きした」男。

 組織の秘匿のため記憶消去のうえ全てを黙秘し、言い値の罰則と処分を無抵抗で受け入れたはずの男は、棗の武装を咎めながら首肯した。

「中央対策本部から北支部へ転属と相成りました、相楽さがら宗二そうじと申します。奪還作戦の折のご協力には感謝いたします」

「……記憶は元通りってわけか。不死者ばけものの術とやらは便利でいいね」

「北と組織の双方に所属を置く条件で『思い出す』許可をいただきました」

 機械じみた無機質さで「お戻りになってください」と催促する男――相楽の顔をずいと覗き込む。

 微動だにしない墨色の瞳に、性根の歪んだ挑発の笑みが映った。

「お前も哀れだね。『黒の歌姫』の片割れの代用品に取り立てられて手前勝手に調教されたのに結果は粗悪な贋作以下。計画からも外されて、当のシスコンに会ったところで気づいてすら貰えない。挙句こんな田舎支部にお払い箱だ」

 和泉の支配は簡単だ。妹の生死さえ握っていれば御せるのだから。

――手綱を模造つくる価値はある。

 中央から歌の素養のある人間を徴用し、双子の妹としての性格、言葉、所作を調教して「妹」を作れば、彼女で和泉を宥めすかし自由に操れるに違いない――当初こそ計画の要でありながら、模造に失敗したため捨て置かれた贋作が男の正体だ。

 不可逆変化である鬼化を人間に戻しうる唯一の奇跡を得るためなら、ただの歌うたいひとりの犠牲は問題とされなかった。人知れず歪められ、不出来だからと捨てられた。

「……ああ、でも君はシスコンに情があるんだっけ。あいつのせいで人生滅茶苦茶なのに結構な忠犬だね。こんなとこで油売ってないでさっさと尻尾振って飼主んとこ行ってあげたらいいんじゃない?」

 暴露も侮辱も意味は無い。最重要は攻撃に対する応答情報だ。言語、非言語は問わず。

 眉一つ動かさない不気味な男を扱いあぐね仕掛けたものの、依然として分析に足る情報は少なかった。人格が死んでいるのかと舌打ちする。

 そんな棗を眺めながら、相楽が初めて見せた変化は嘆息だった。

「貴方も言った通り、さんざん殴られ慣れました。事実に立てる腹も無い。挑発の意図は知りませんが、私が贋作止まりなのは当然なのですから怒る理由もありません」

「当然? 自分の努力不足とか言い訳だとか思わないの」

「……あのですね。……和泉にこそ明かしていないけれど本部は『彼女』をよく調査していた。にも関わらず芸事を軽んじているから魔法あれを一介の芸人に模倣トレースしろという無謀を平気で口にする。貴方がたは揃いも揃って無作法だ」

 語気が強まる。声こそ荒らげないが芯のある主張は、芸事への無理解に対する憤りだ。

「歌唱で人の精神状態を惑わすことの何処が『簡単なこと』だ。どう見ても異常でしょう。呪力や異能に感覚が麻痺しておられるのか」

 中央本部と「無作法」で括られたのは不快だった。だがそれよりも、能面男の感情が人格攻撃より芸への侮辱に向けられたことを踏み、嫌がらせの方針を調整する。

「……その装備。裏街に出向いて暴れるつもりでしょう」

 僅かながらの怒りは、棗が焚きつけるより早く鎮火した。

 棗の帯刀に目を遣った相楽が淡々と問いかける。

「私達は貴方が体調を整えてくれればいい。暴力だの斬り合いだのと距離を置いてくれさえすればいいのにどうして戦いたがる。どうして大人しくしていられない。趣味のひとつもお持ちでないのか」

 彼ら「監視」は棗から戦闘沙汰を遠ざけるためのものだ。通常の外出なら口を出すこともないのに、よりにもよって武装を整え裏街へ向かうことを繰り返すから彼らが止めに入る。当然ながら。

 腕が鈍るというなら訓練に向かえばいいのにそうしない。ならばその暴力衝動は何なのだと、純粋な疑問に棗が押し黙った。

「余暇の貴方は何をして過ごされていた。いつも通りでいいという指示に何故そうまで反抗するのです」

「……さっきから聞いてりゃ馬鹿にしないでくれない。趣味くらい、」

 斬り合いの方が手に馴染むのはさて置き、スポーツの類は得意と言っていい。教職や鬼化の知識のため多方面の専門書籍は読み込んだ。舞台演劇を眺めることも多い。

 酒を入れるかは別として外食は好む。軽い旅行や遠出もする。行く宛もない夜歩きをして、暇を持てあませば家に押しかけていた。どちらかが作った料理を適当に囲んで、――

――全部、あいつと。

「……身体を動かしたいなら運動施設を案内します。要望があれば音楽作品でも映像作品でもお持ちしますから」

 連絡先のメモを握らせた相楽が、棗の身体をくるりと反転させる。

 棗は押されるがまま、自宅前まで戻っても気味の悪いほど何も喋らない。そのまま玄関に収められ、任務を終えた相楽が息をつく。

「私も、散歩くらいなら付き合って差し上げますよ。失礼」

 暗い玄関で、靴箱の上に放置していた合鍵が鈍く光った。


 ■


 些細な切っ掛けで浮かんでくるなら、思考も体力も仕事ひとつで埋めていた方がいい。余計なものが挟まる隙間を与えないように。思い出してしまわないように。

 休んだところで持て余す。呆けるだけの空白に喪失を直視させられる。それを欠いても何ら変わらない日常が巡ることを、認めざるを得なくなる。

 だから、単なる逃避だった。

 昼だが外は薄暗い。冬が近付く寂れた色彩の街を過ぎる。そろそろ降雪が街を埋めてもおかしくないだろうと、通常通りにまともな知覚に軽い嫌気がさした。

 食事を受け付けなくなることも、思考に靄がかかることもない。

 雨屋が居なくなったところで、自分は普通に生きていけた。

 他人事に乱されない図太さは、己の矜恃を支える柱だ。外部からの影響でいちいち病むなど馬鹿げているなと本気で思う。気持ちは今も変わらない。それなのに。

 正常と分かっていながら、その冷静が厭わしくなる情動は何なのか。

 雨屋の住んでいた安アパートが見えてくる。虫と隙間風が入り込み、いつ取り壊されるか危惧していた錆色の外壁もそのままだ――

 道路から眺めた窓に、人影が動いた。


「……っわ、……びっくりした。なんですか」

 部屋に居たのは氷崎だった。息を切らして転がり込んだ上官を引き気味に見つめた彼は、戸棚から出したばかりの鍋を戻した。

 棗はしばし立ち尽くし、握り締めたドアノブから力を抜いた。落ちそうなほど緩んだ金属は、辛うじて扉に固定されている。

「……何してんの、君」

「荷物整理ですけど。雨屋の」

 雨屋の処罰は組織の判断に委ねた。処遇についての結論が出るまで、住居は現状のまま保存されると聞いていた。

「頼まれるのはいいんですけど、大学の実習が詰まってて土日しか来られないんです。だから全然終わらなくて」

「あいつ、死ぬの」

「そうみたいですよ。執行予定日とか聞きます?」


 殺した人数を考えても妥当な処罰だろう。

 私的な感情とは一切を分離している。相手が友人であれやったことはやったこと。治安維持に与する側としての分別は持ち合わせている。だからこそ、組織提案の救済措置――犯罪技術を見込んで手駒に欲しただけだろうが――社会奉仕で贖罪を続けながら生きる、などという戯言を叩き潰して自首させた。

 決断は後悔していない。何度その時に立ち戻っても迷わない自信がある。

 しかし逆に、個人的な執心へ向き合おうとすると思考を阻んだ。社会的な決心が揺るがないぶん混同しそうになる。ぐらぐらと拗れた感情に悪癖の天邪鬼が重なってしまえば、探り当てた本音を自分の物だと確認するのも一苦労だ。

 依存とまではいかずとも、単なる友人に抱く執着ではなかった。けれど中身は淡白で、それひとり欠けたところで支障はなく、きっとこれから先も同じ。

 一人の足で手前勝手に生きていける人間が、それでも気まぐれに望んで選んだ、清くも正しくもない不必要な情。


 死刑に納得していながら、「償い終えるまで待ちたかった」なんて感傷が在ることを、何の冗談だと嘲笑する。


「他人を使って自分のバランスとるのやめてもらっていいですか」

 氷崎が疲れ混じりに言った。荷物整理はとうに諦め、帰り支度にマフラーを巻いている。

「自分の機嫌は自分でとってくださいって言ってます。そんなに難しいですか?」

「……君に関係あんのかよ」

「そうなりたくないので帰ります。あなたの自棄のしわ寄せが来るの、疲れるし苦手なんです」

 時間が無くて終わらないとの申告通り、部屋の内観は棗の記憶と大差なかった。居間など手つかずに等しく、本人による簡単な身辺整理の後から変わっていない。

 炬燵こたつの天板の上に、見慣れた蜂蜜色のピアスが放置されている。

『片付け、もし棗さんが進めてくれるならお願いします。担当が変わりましたって僕から連絡しておくので』

 氷崎は笑って、上官にさらりと仕事を転嫁していった。いっそ腹も立たない。

 炬燵と小さな衣装ケース、棚がすこし。ずっと思ってはいたが粗末な部屋だ。製菓が趣味でありながら調理道具さえ満足に揃える気がない――雨屋の怠惰を呆れるよりも、薄ら寒さを覚えたあれは何時いつだったか。


 金属の把手とってが冷たい。

 一度も触れてこなかった引き出しを、開けた。


 引き出しの中は一段まるごと空だった。その下も。最下段には数枚の契約書。

 生活必需品は最低限、ものによっては欠いている。衣服は通年で着られるものが数枚。瞬く間に分別を終え、こじんまり纏まったゴミ袋を前に骨壺でも眺めている気持ちになる。

 持ち物が少なく、身軽で。あらゆるしがらみと無縁な能天気は、生きていた痕跡すら嘘のように希薄だった。

 ひどい無力感に襲われた。指一本動かしたくなかった。その正体が無視し続けていた眠気のツケとも気付かないまま、炬燵に潜って瞼を閉じた。


 平気で生きていけるなら、抱えたままでいればいい。ぽっかりと穴をあけたまま。

 埋めない空白が巣食ったところで、きっと支障はないのだから。病まず止まらず生きて死に、平然と幸福を享受する。非情なほどに普通でいられる――この僕なら。

 喪失如きで崩れない、図太くも高潔な矜恃とこの悪癖は、せいぜい便利に使ってやる。


 ■


 相楽の監視シフトに届いた呼び出しの答えは、棗の持っている外套だった。

 玄関先で服を受け取った相楽が、生地の感触からクリーニングが済んでいることを察する。

「よく分かりましたね。私の服だと」

「小さい男の心当たりが無かった。……ひとの寝顔ジロジロ見んな。起こせ」

「私がしたのは最低限の生存確認のみです」

 棗が数日ほど家に戻っていないとの申し送りに監視側はかなり慌てた。炬燵で無防備に眠り込み、死んだように動かない監視対象を前にした相楽は少なからず動揺したし、脈を診る前には深呼吸して最悪の覚悟を決めていた。

 棗も棗で、誰かが自分に掛けて行ったのだろう外套を見つけた時は思わず跳ね起き炬燵に頭を打ち付けた。他人の接近に気付かないなど、彼にとっては不覚だった。

 物言いたげな棗に臆せず、小柄な男は一礼する。

「よく眠ってらしたので、起こしたくなかったんですよ」

 相楽の視線は棗の武装を捉えていた。

 彼はまず、棗にどう問い掛けたものかと考えた――「堂々たるものですね」「事情がおありか」。検討中に、先を読んだ回答が放られる。

「裏街に、僕が稽古つけてる教え子がいる。そろそろ指導に行かなきゃならないんだけど、そういう外出も難しい?」

 理性的な対話の気配は、今まで例のないものだった。

 異変を訝り、長考の末に息を吐く。けれど結論は悩まない。

「構いません。と、思いますよ。恐らく監視も解かれる頃合いでしょう」

「は? 願ったり叶ったりだけど、何で」


『無謀な自傷を止めてほしい。それと、彼の憔悴につけ込み、利用する輩が出ないように。頼んだよ』

 支部長からの任務はそのような内容だった。棗が落ち着くまでの期限付きだが、終わりが本人次第であるため拘束期間は分からないとも聞いていた。

『……そのような輩が居ますか?』

『まず居ないね』

『でしょうね』

 相楽は棗と面識は無いが、中央本部で噂ばかりは聞いていた。兄とは異なり先祖返りでない劣等者、中央本部を必ず裏切る狡猾な悪人だと。棗の家が持て囃されると何かにつけて比較され、これでは性根も曲がるだろうと無関心に俯瞰していただけだが。

『彼は自力で立ち直れる性質だし、つけ込まれるような隙を放置することもない、けれど……うん、自分を棚に上げるのは良くないと思って』

 支部長が笑う。

『だって僕は、そうしたからね』


「眠れるようになりましたか」

「……別に。元から、弱ってたわけでもないし」

「ええ。そういうことです」

 用件は外套だけかと、淡白な男は踵を返した。今夜の監視がほとんど立ち番になることや、任務の終わりを予感しながら。

「散歩、付き合ってくれんの」

 小さな声を拾い上げ、相楽は何度か瞬いた。

 振り向き、眺める。その問いを吐いたと思われる男が玄関先に佇んだまま、不機嫌そうに返答を待っている。

 聞き違いではなさそうだ――理解した相楽が発したのは、間違っても和解ではなく。

「いいですよ。あいにく貴方の犬ではありませんが」

「、……反応薄いわりに根に持ってんのな。君」

「罪の意識を感じるくらいなら、詫びの一つでも入れてみてはどうですか」

 事務的な声に圧され、棗は居心地悪そうに口をつぐむ。自身を捉える墨色の瞳が底なし沼に見えた。


「……僕が悪かった」

「謝罪を受け入れます。一食分の奢りで示談としましょう」

「んな怒ってんなら顔に出しなよ」

「面を合わせて食事が出来る所まで持ち直しました」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る