11-5

 狭間通りの人間に関わらないよう彼女を諭した身だが、俺は他人に説教をできる立場ではない。己もまた鬼や犯罪者との繋がりを持ち、――裏街と繋がって利益を得る人間の一人、なのだから。

 後暗い所はない。狭間通りで鬼が営むとある喫茶店へ、豆や茶葉を融通している。誓って適正な価格での取引であり、鬼との商談を禁ずる法律も存在しない。

 知人の持ち込んだ取引ながら、生じた縁に多少の情も芽生えてきている。


 咄嗟の頼りに、顔が浮かぶ程度には。


 低い灰色の天井から、無数のランプが降りている。

 高低さまざまの無骨なカンテラ、内の火種がちろりと揺れる。ふるえる灯りも届かない隅に、主のいない蜘蛛の巣が埃をかぶっている。

 ソファから身体を起こすと、額をタオルがずり落ちた。ぎしりと耳慣れたスプリングの悲鳴に、博打同然の救援要請がうまく届いたことを知る。

 助けを求めた「店主」の姿はすぐ見つかった。

「……ツクモ。それは堅気かたぎじゃあない。気を許すな」

 黒服の後姿に警告する。――後ろ手に拘束されたまま、悠長に世間話を楽しむ余裕があるらしい殺し屋を睨み、牽制しながら。

 小柄な背中はぴくりと揺れ、振り向きざまに、うなじで結った長髪が弧を描く。小柄な一本角の下、俺を捉えた双眸が見開かれ、慌ててこちらに掛けてくる。

「雪平さん、まだ起き上がらないでください。すごい熱出てたんですよ」

「大丈夫だ、気分は随分ましになった。……ありがとうな。面倒事に加えて介抱まで、迷惑かけた」

 無理に寝かせようとする手を取り、額に当てる。熱が下がっていることを納得させないと、直ぐにでもソファに沈められそうな勢いだ。

 ツクモは女なうえ、鬼化の進行も軽度。戦闘とは無縁の鬼でも力比べでは敵わない――手を振り払われる勢いすら尋常でない。動揺の顕な赤面でまくし立てられる。

「そ、……んなことしたって、わたしの体温は人より高いんです! 雪平さんが熱出したって私よりちょびっとは冷えてます!」

「後でいい。そいつに、不用意に情報を与えていないな?」

「そう怖い顔なさらないでくださいな。ツクモさん、それは血相を変えて、お兄さんを寝ずに看病されていらっしゃいましたよ。もう少し彼女の心配を汲んで差し上げてはいかがです?」

「シロさん! ああいえ、そんなの大したことじゃ……」

 ツクモに笑いかける黒ずくめは、最低限、致命傷に至りそうな傷だけが止血されていた。彼女が治療したのだろう。医療器具も限られているだろうに。

「ツクモ。それは、人殺しだ」

――やはり、これをどうにかするのが最優先だ。

 見下ろす身体が小さく見えるのは、雨水が染み込んだ服のままだからか。にこにこと振りまかれる愛想は、どうもツクモにも、得体の知れない代物と見えはじめたらしい。

「安全な場所にいてくれ。これ以上、負担はかけられない」

「……いえ、」

 回らない頭で頼れた先がここだった。ただ正直、あまり同席させたくはない――

「私自身はまるで役に立ちません。だから、何かあったら、直ぐ助けを呼びます。そのために、ここにいますから」

 その意志は動かなかった。――礼を言って、向き直る。

 吐き気のしそうな甘ったるい笑顔と相対する。

「嘘偽りなく話せ。彼女あいつの命を狙う理由と、……お前のふざけた態度を見るに、やめる気も無いんだろ。全部だ。いいな」

「よろしいのですか? お兄さん、私との縁は製菓技術だけでお腹いっぱいでしょうに。真実をご所望とあれば、私は答えるまでですけれど」

「本意でもないのに巻き込まれたからな。中途半端な傍観者でいるより、詳細に知ったほうが回避も易い、自衛も出来る。それだけだ」

「承知いたしました。……それでは失礼して、名乗りから始めさせていただきましょう」

 最敬礼をと構えた身が、手枷に引っ張られて引き戻される。

 派手に鳴った金属音に、殺し屋は初めて拘束具の存在を思い出したらしい。「ああ、」と呑気な声が出る。


「改めまして、私は本名を雨屋あめや浩太こうたと申します。男性、中卒、歳は十九。身売りと兼業で代行屋を営んでおります。……実態はほぼ、依頼殺人の専業ですけれど」

 後ろ手に縛られたまま、頭だけうやうやしく一礼してみせた。


「彼女を殺そうとしたのはお仕事です。庇ったのは、私情です」

「……ふざけているのか」

「? いいえ。正直にお話しておりますよ」

「……」まだいい。まずは聞く。

「雨合羽の先客かれとは偶然、標的が被ってしまったようでした。このごろ流行りの通り魔さんだったのかも知れませんね」

 曰く。雨合羽の包丁男と、黒ずくめの殺し屋――雨屋は無関係。それぞれ別個で彼女の生命を狙い、犯行現場が被った。包丁男の動機は知れないが、雨屋の犯行は殺害依頼に依る代物だった。

 目的を同じくする不審者同士、雨屋がなぜ包丁男の凶行を邪魔したのかという理由は――

「彼女が殺されたら、私の請けた依頼は無効になるな、と。そんな仮定を立てておりましたら、私情が勝りましたので、彼女を助けるため、彼を昏倒させました。

 ……でも、そうですね。彼女がお元気でいらっしゃるのなら、私の依頼は継続しております。となると、私は彼女を殺しに行かなくてはいけない……」

 雨屋が初めて表情を変えた。

 思案する色はこの一言だけ。たった、それきりだが。


「……これはお兄さんに『ふざけている』と言われても反論の余地がありませんね。仰る通りだ」


 そろそろ認めなければなるまい。

 人をおちょくるこの態度は、計算でなく、全くこれの素のままなのだと。


「……一度は諦めたんだな。だったらもう手を引け。依頼元も、一度しくじった刺客なんてとうに見限っているんじゃないのか」

「そうでもありません。当代行屋は、綿密に連絡を取り合ってご報告差し上げるような、親切丁寧な店子たなこではありませんから」

「……具体的に説明しろ」

「依頼元は私へ、一方的に対価と願いを託すだけなので御座います。私が依頼に応えるかどうか、顧客側から知る術はありません。神頼みのほうがまだ幾らかは上等でしょう」

 結果としての『死体』が目に見えてはじめて、依頼人は契約が果たされたことを認識する――契約という単語をどう曲解したら辿り着けるのか。そも、この関係性は契約関係なのか。

 客が勝手に怨嗟を吐き捨て、殺し屋は勝手に拾い叶える。その二つに繋がりはない。

 実態の不確かな始末屋をまともに信じていたのやら、機会があるなら依頼元にも問い質してみたいところだ。潰れていないのなら客はいるのだろう、一定の技術はあるのかも知れないが。

 殺し屋の評判になど明るくはない。

「……応える必要もない『依頼』で、馬鹿正直に殺しをするのか。気が狂ってるな」

「正当な対価を頂いて頼まれたからには、お応えするのが筋というものでしょう」

「ふざけるなよ、頼まれたからには応えるだと? 依頼元が『契約』と認識しているかも解らない、一方的で身勝手な嘆願だろう」

「願いに貴賎がありますか? 私はそうは思いませんよ」

「いつ俺が依頼主の感情を査定した。お前自身の人道の話だ」

 依頼殺人というのだから、これ自身に動機は無い。今まで何人手にかけたかなど知ったことではないが、そのうち誰にも。ただの一人でさえ。

「私の人道と問われましても……そうですね。信条、と呼べるかも怪しいのですけれど」

 借り物の殺意で、顔も知らない人間を殺せる――いや。

 親しくしていた人間だろうと殺せる。


「頼まれごと、断れないんですよね。なんて」

――懺悔の一つでも期待した俺が馬鹿だった。


 使いぱしりと殺人を一緒くたに語るなど暴論もいいところだ。稚拙な追及逃れでも、雑な誤魔化しでもない。それがあれの本心なのだろう。

 真実、どちらも同じだと思っているのだ。

「一度しくじっても私の仕事に支障はごさいませんし、依頼を反故にしたつもりもありません。私は彼女のお命を頂戴に伺います」

「……態々こんな場所で世間話に興じるくらいだ。随分と余裕らしいな」

「そうですね。……どう申し上げるのが適切でしょうか」

 今に至るまで、雨屋はほとんど顔色を変えない。指折り数えながら話し続ける。ゆるゆると散歩でもしているような声のまま。

「いつでも殺せますから、慢心しているのかもしれません」


 救いようのない人間というものは、いる。

 これは、野放しにすれば必ず彼女を殺しに行く。邪魔が入れば何度でも。足がついて捕まるか、死ぬかしない限りやめないだろう。

 雨屋は、彼女との縁を一時の契約関係としか思っていない。彼女の主張する優しさとて、弱っている人間につけ込んだだけの代物だ――にも関わらず、ほだされた彼女は、これを助けたいと笑っていた。関わる必要もないことに態々心を砕いてまで。

 そういう善良な人間を、これは、何のためらいもなく奪う。


 こんな馬鹿な話があってたまるか。


 気狂いと会話しようなどという方がどうかしていた。

 理解などはなから出来ない。価値観をすり合わせたところで摩耗するだけ。紛れもない徒労だ。関わらないよう距離を取って生きるのが賢明であって、俺はそうするべきだった。

 腹の底から喉をせり上がる、舌までも焼く不味い殺意が、今にも呪詛として零れ落ちそうでかなわない。

「雪平さ、……!?」

 ツクモの悲鳴が聞こえる。目の前の、生白い首に手を掛けたからだろう。分かっている。

 分かっては、いる。

 雨屋が後ろ手に拘束されたまま倒れ、手枷が無理に身動きを縛る。煤けた床に白髪が広がった。錆びた金属音とともに手首の皮膚がめくれて、血が香っている。

 鬱血していく顔は嘘のように静かだ。ずっと笑っていた。小さく開いた唇も、酸素を求めたわけではなく。

 音とはなり得なかった。

――いいですよ。貴方の断罪なら、受け容れます。



 どうして読めたかは解らない。

 ただ、気づいた時には、ひっくり返って天井を見つめているのは己のほうだった。


 手にはまだ、喉仏の動く感触が残っている。血色の失せきった指先が凍えていた。

 強ばったままの指は、あたたかい両手に包まれた。心配そうな視線がこちらをのぞき込む。

「……しっかりしてください。雪平さん、変です。やっぱり熱がありますね」

「……ツクモ、……この借りは、大きいな。楽しみに待っていてくれ」

「そんなのいいです。……雪平さんは、彼に、ものすごく怒っていたんでしょう。わたしだって……おんなじ、ですから」

 声は暗い。尚更それが、頭を冷やした。

 いたずらに昂った怒気が冷め、数秒前の自己を冷静に見つめられるようになる。己の中にはまだこんな青臭い熱が残っていたのかと、くすぶる埋火うずみびを眺める――これと相容れないという結論は、覆らないにせよ。

 金属音がした。重たげに四肢を引きずり、雨屋が身体を起こしている。脱力した首に力は無く、壊れた人形のようで気味が悪い。

 湿った咳を繰り返しながら、喉はざらざらに掠れたまま「よろしいのですか」と。俺の意向を確認するようなことを言った――気がする。

「まだ寝惚けているらしいな。……どうして俺がお前の為に手を汚さなきゃならない。死にたがりなら他所でやれ」

 俺がこれと同レベルに落ちてやる理由はない。

 迷惑な話だ。堅気は巻き込まない良識だけは残っている、というのも、買いかぶりだったらしい。

「可哀想にな」

 教え諭してくれる人間もいなかったのだろう。倫理や常識、人道というもの、善悪の価値観。そういうものを、自ら育てることもしなかった。

 願いに貴賎が無いと言う真意は、――きっと「分からない」だけだ。測るための物差しを持たないのだから、善悪問わずに同じく映る。

 能動的な無知と、それで良しとする怠惰。

「哀れみではありませんね。嫌悪一色のお顔だ。……お兄さんは全部お顔に表れる方で助かります。解りやすくて好きですよ」

「その通りだ。憐憫をくれてやる余地もない」

 ただの空洞だった。

 大人を象る知識ではなく。情緒や倫理、その実質なかみが。

「確認するが。お前、殺人嗜好があるわけじゃないんだな」

「はい、特別な感情はありません。お仕事なのでやっています」

 署名押印の確かな念書と、戯れの指切り。どちらも同等に価値があり、守るべき契約なのだろう。少なくとも、この子どもにとっては。


「――彼女あいつを生かせ。これは俺からの『頼みごと』だ。この意味が、解るな?」

 際立った自我も信念も無いのだろう。要求の一つや二つねじ込まれたところで構うまい。


「……殺害依頼を反故にしろ、と」

「今ここで答えを出せ。待ってやる」

 かおを合わせた要求だ。一方的に吐き捨てられる恨み言とは違う。承諾さえ引き出せれば、雨屋にとっては十二分に行動を縛る契約となり得るはずだ。

 いま拾い上げている依頼はまだ、手放すことが叶うだろう。不幸にも死神が目を留めることのなかった、ごくありふれた嘆願のひとつになるだけだ。

「俺はあいにく正義漢じゃあない。俺や、俺の縁のある相手に害をなさないのなら、お前を放置する選択も有りうる」殺す必要は無い――褒められた倫理観ではないが。

 己とて、多少に後暗い縁はある。

 何者にも後ろめたく思わず、堂々と胸を張ってこれを裁ける道理など、持ち合わせがない。

「断罪が欲しいのなら他所よそをあたれ」

 ほんの微か、これきりの希望だった――壊れた情緒に微かでも、罰を欲する罪悪感が有るのではないかと。

 けれども当の殺し屋は。脈絡もなく突然、目の前で手品でも見せられたような顔をした。印象の薄い間抜けた面が破顔して、自身では止められなそうに身体を震わせる。

「まさか。私はまっとうに生き汚い人間ですのに。……ひとさまを殺めている身で、殺されるのは御免だなんて我儘が通るとは思っておりません。お兄さんが先に駆られてらっしゃったような激情には、抵抗する資格がないというだけのお話です」

「……当然だな」衝動的な殺意という理不尽の代行屋が、やられる側だと不満だというのは虫が良すぎる。

「お兄さんのお願いは簡単なようでいて、保証となると難しいお話だ。神様でもあるまいし、お兄さんの御縁の所在など見当がつきません」

 俺の頼みを聞き届けるために、あれの考える方法は単純だった。「私が死ぬか、代行屋から足を洗うか、仕事場を移動する……ことは、御縁を害さない保証にはなりませんね」と、独り言を呟いては却下する。

 実のある提案は期待できそうにないと察してきた。

「日銭を稼ぐ術が身売りとこれだけである以上、私は代行屋をやめるわけにはいきません。請けたい気持ちばかりではどうにもならないことですね」

「……結論が早すぎる。もっと真面目に悩んだらどうだ。再考しろ」

「そういうまともなものを、私に期待するものではありませんよ」

 ちゃらんぽらんも一周回れば正論だ。

 己の口が重く閉ざされているのを感じた。早合点して自害して死んでくれとすら思った。生き汚さの自己申告は真実らしいのが今だけは憎い。

「お兄さんならお分かりでしょう。身分証明が覚束無い人間は、お部屋を借りられない。住所が無いと職を持てない。職がなければ、真っ当なお金は稼げない」

「よくあるお話です」と男は言った。

 真実、その辺に転がっている話だった。

「……俺は、お前と関わりあいになりたくない」

「でしょうねえ」

「縁が交わるどころか触れることすら御免だ。知己の知り合いになるのも嫌だ。面倒ごとは今すぐ放り出したいと思っている」

「おまけに野郎なんて」

「ああそうだな。よりにもよって男だ」

「お兄さんのそのブレなさ、私は大好きですよ」

「要るかそんなもの」

 へらへらとした雨屋は、これまでと変わらず、怠惰を選んだに違いなかった。自分が変わらなくてもいい道を。無知を良しとして、努力と思考を放棄する在り方を。

 自分が変わらずに済む、未来のない生き方――他の可能性を見もしないで。

「……他に職がありさえすれば、代行屋に拘る理由は無いんだろ」

 ――俺は大人だ。折り目正しくなろうとしている「常識のある」大人だ。

 中身の壊れた見掛け倒しとは、違う。


「働き口なら俺の店で提供する。雇うからには手心なしで教育させてもらうがな」

『手段を選ばず表の職を勝ち取ってしがみつき、真人間に復帰する』――例えば。俺のような、裏街と癒着している自営業などがあつらえ向きだろう。


「機会をやるのは一度だけだ。断れば止めない、好きにしろ。俺は心から清々してお前を追い出す。晴れて見知らぬ他人同士だ。……変わるつもりもない奴を慈善事業で社会復帰させてやる余裕は無い。変えたいのなら、お前が変われ」

 性根の善し悪し、虫が好くかどうかで人間関係を選り好みできる――などという幻想には、とうの昔に諦めがついている。大人なのだから。

「……私という危険を遠ざける、という目的のための手段が『お兄さんが厄を引受ける』というのは、……本末転倒ではありませんか?」

「俺はお前の身元を掴んだ。いつでもお前を警察に突き出すことが出来る。……この際はっきり言うが、これは脅迫だ」

 野放しにして縁を切り得られる安寧と、首根っこを押さえ監視して得られる安心。身近な人間が狙われている現状は後者が欲しい。

 それに。無法地帯の裏街、狭間通りに通える程度、俺にも荒事の心得はある。これが始末屋ということは知れているのだ、不意打ちの成立する隙は無いだろう。

 もし変化が見られないのなら、彼女の保護を警察に頼み、速やかにこれを通報する。

「俺はお前に殺されないが、俺はお前をいつでも殺せる。その前提を理解してから口を開け」

「……そうですよ。殺し屋さん」

 ふつふつと煮え立つ凍りの声は、背後から聞こえた。

「この人のこと傷付けてみなさい。狭間通りの鬼は全員あなたの敵になる。……わたしも。裏だろうと表だろうと、北では息もできなくしてやるから」

「――……ツクモ、」

「雪平さん、あなたに恩のある鬼は多いんです。……こんな。人間でいられるくせに努力もしない、死ぬほど贅沢で無神経で救いようもないクソッタレなんか、一人で抱え込もうとしないでください」


『人は誰しもやり直せる』などと。悪人にばかり都合のいい綺麗事を口にしたいわけではない。

 自身の行いはどうやっても消えない。過ちを犯した事実は一生ついて回る。大義があろうと、許しがあろうと。もしこれが過去の自分の行いに殺されるようなことがあれば、己は「何も知らなかった」経営者を装い、保身につとめるだろう。

 その程度だ。俺とて。


 あれに、掬い上げられる気があるのかもわからない。

 俺も嫌々で、口に出した以上引っ込みがつかないだけだ。多分、常識的な大人のようになろうとして、身の丈に合わない格好をつけた。後悔はしている。正義感は言わずもがな、壊れたものを直してやろうという気概も無いのに。


 互いに薄っぺらい信念だ。それでいい。今は。


「狭間通りには近寄らない。……殺しも請けない」

「ああ」

「……お兄さんの喫茶店でのアルバイト経歴を足して、審査の通りそうな物件を探す。手伝いの合間に他のアルバイトも見つけて、ゆくゆくはそちらに移る。真っ当な職に就く」

「ああ」

「……住所と職を得て、フリーターになれれば、始末屋をする必要も無くなる、……」

「そうだ」

 誤解のないよう復唱させた。

 意図は正確に伝わっている。後は、これの選択を待つだけだ。


 特級の厄種を拾った自覚はある。

 俺は製菓技術が欲しい。あれは真っ当な職が欲しい。需要と供給が奇しくも一致した偶然に頭を抱えたくなる。

 ひとまず待遇は掃除とホール、引き続いての製菓顧問――殺し屋に厨房を明け渡す気はない――で、いいだろう。待遇相応の薄給だが、不当に拘束はしない。物件なり、他所のアルバイトなり。さっさと見つけてくれれば御の字だ。

「……――んな、こと」

 深入りする気はない。

 供え物のような恨み言を拾い集めるのが趣味の、人格の破綻した暇人――の、上辺を眺めた結論だけで、上辺だけの対処を提案した。彼女に諭した「中途半端な助力」そのものだが、俺はそれでいい。これを救いたいなどとは考えていないのだから。

 成り行きと、己の見栄と、始末屋への牽制力を勘定した結果。そういうものに過ぎない。

「……そんなことで、……変わり、ますか」


 俺を見上げる表情は、迷子のそれだった。

 これの望みが停滞なのか、変化なのかは分からない。しおらしい態度を気味悪く見守りながら、迷わず吐き捨てる。


「知らん」

 媚びめいた薄ら笑いよりはマシかもしれない。

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