11-4
「……考えはしたよ。牧之さんにシロ君を紹介したらどうかな、とさ。でも流石に、……元セフレに元彼氏を紹介するって字面がさぁ……」
「あれは『作法』とやらを守っている。顧客情報は一切喋る様子がないから安心していい」恐らく彼氏ではなく、買われた男として、だが。
喫茶店のカウンター席。何回目かの批評を終え、それとなく聞かれた上達の理由を話した途端、彼女の興味は早くも男に移った。「次の飼主が牧之さんで良かった」と呟く彼女は、解雇して以来、放り出した男娼の身を案じていたらしい。
「牧之さんは女に死ぬほどだらしないけど男は眼中に無いからさ。暴力も振るわないし、安心して預けておける」
「語弊があるな」
女狂いは過去で、男を泊める目的は技術提供だ。好きで置いてはいない上に預かったつもりも無い。
七十五点まで評定を上げたパフェの器を片付けながら、未練のありそうな憂い顔を眺める。「望みは薄いと思うが」「……知ってる」分かっているならきっぱりと諦めればいいだろうに。らしくもない。
「シロ君、食後の薬はまだ飲んでる?」
「持病の
「……変な動きとか、ない?」
「変かと聞かれれば大体おかしいが。どうかしたか」
本心として、あの男とは関わりあいになりたくない。ただ、彼女の興味がそちらに向いている限り、話に付き合うくらいは仕方がない――
「……あれ、よくないクスリだったりしない?」
「……、は?」
「あの葉っぱみたいな粉薬、病院の処方じゃないよ。中身見せてって聞いてから、私の前では出さなくなった」
「……それは、」余計に疑われても仕方が無い。下手くそか。
「シロ君の出生……本人は言わないけど、たぶん裏街だよ。有り得ない話じゃあない」
拾った場所を思い返す。確かに狭間通りの近辺をふらふらしていた。
狭間通りや裏街なら、妙な薬の売人は腐るほどいる。眉唾の呪具商、娼館崩れに荒事屋、術者や鬼。あの辺りは、
「ヤク中じみた挙動はしてないと思うが」
「私もそう思ったけど……飲み続けてるから普通でいられるだけ、とか」
――彼女は深入りしようとしている。
下手をすれば、いや、しなくとも、体調観察や身辺調査に協力してくれと迫られるだろう。気は進まない。男の人生に立ち入ることも、無責任に彼女の背を押し、面倒事に巻き込まれていく様を傍観するのも。
彼女は様子がおかしい。物事に拘らず、平静で冷淡なほどの気質だったのが、いまや別人のように構いたがりだ。人が変わったのかとすら。
「親とか、周りの大人から薬漬けにされたのかもしれない。下手したら、売人やらされてるのかも。だから名前、名乗らなかったんだと思う」
「……シロ、は。違うのか」
「や。それ、私が適当につけただけ」
名は『シロ』でいいのかと聞いた。男は「構いません」と答えた。
まさか『呼ばれる分にはシロで困らないからそう呼べ』という意味だ――などと、普通気付くか。気付くまい。
面倒な嘘のつき方をする。
これが計算なら、
「薬漬けも身体売ってるのも、環境のせいだよ。選んで生まれて来られるなら苦労しない。彼は悪くない。……おかしいくらい優しく育ったのは、本人の性格が良かったからだよ。あんな人が裏街に居続ける必要はどこにも無い」
相手に誤解させて欺く、質の悪いやり方だ。人が良い人間ほど、善良な価値観で「誤解して」相手を量る。善人だと誤認する。
彼女は周りが見えていない。自分の言葉が未だ全て憶測でしかないという事実さえ、自覚があるのか微妙なところだ。想像力の視野もだいぶん狭まっている。
恋は盲目とはよく言ったものだと、先人の言葉に呆れるばかりだ。
「深入りは止めておけ。ろくな死に方出来なくなるぞ」
どうしようもなく、救いようの無い環境というものがある。
あれが真実、極めて劣悪な環境の中、何をとち狂ったか善良な人間に成長したと仮定する。百歩譲って。その上で周りに助けを求めないのなら――ちゃちな他人の手助け程度じゃ、どうにもならない場所にいるだけだ。
だから身の上を話さない。同情を引くこともしない。真っ当な人間を道連れにしようとしないだけ、その点だけは良識があると評していいのかもわからない。
「中途半端な助力をした所で、手を差し伸べた人間にまで危害が加わりかねない、そういう輩だろう。放っておいた方がいい。関わらないのが一番マシだ」
雨風の吹き付ける音がする。
しんと途切れた会話の残響に、語気の鋭さを遅れて悟った。ちらと見た彼女は、端末に視線を落として動かない。
「……牧之さん。あのさ――」
彼女はそれきり、長らく黙っていた。珈琲のお代わりを頼む事務連絡には、店主として注文に応えた。
店の時計は何度か鳴った。幾らか平静に戻った声と三、四つ意見を交わし終え、彼女が席を立ったのは深夜のことだ。
引き結んでいた口元を、悪戯の種明かしのように緩めながら。
「牧之さんの言い分も受け取るし、考えてるから。そんな面白い顔しなくていいよ」
「……的が外れた忠告をした、と思っていたんだ」
「いいよ、心配してくれてるんだろうからさ。むかついたのも否定はしないけど」
店の扉を開けた瞬間、雨音が洪水のように流れ込んだ。冷たい飛沫が手を濡らす。一歩出ることすら億劫な質量の雨脚は、まだしばらく止みそうにない。
「だとしても、見通しの甘さは認めないと。シロ君の身の上話にはまだ、確からしい話が何も無い……もういちど彼と話さなきゃ。今度こそ」
彼女に置き傘を貸し、店の施錠を済ませて連れ立った。
夜は更け豪雨で視界も悪い。街灯も切れ、互いの傘しか見えないような路地を、いくつか横目に通り過ぎた。
『――私がシロ君に入れ込む理由、全然分かってなさそうだから言っておく』
気配が
視界の端に、注意を引かれる暗がりがあった。ただの路地としか見えないものに言い様もなく胸がざわつく。
雨音の向こうから彼女が呼び掛けてくる。返事を耐え、雨粒で霞む景色に目を凝らす。
雨垂れの波紋ばかりを映していた水溜りを「何か」が踏んだ。
『シロ君は、私を助けてくれたからさ。私も同じように、力になれたらいいのにって思う。それって、そんなにおかしい?』
――あれは、そんな殊勝な良心に釣り合う
彼女は気付いていないようだった。先に行ってくれと頼んで、別れた。
「そこにいるのは分かってる。お前、何のつもりだ」
路地の影が凝り固まり、分離する。――ひょろりとした長身は、知った身丈だ。
全身は黒ずくめ。顔をはじめ肌の一切を黒い包帯で覆い隠している。ずぶ濡れた服が細長い四肢に張り付いて、雨に打たれて萎れた野犬を連想した。
それを笑えないのは、右手にナイフが握られているから。
「それで誰を刺す。……俺か。
首肯は、――彼女の悲鳴と重なった。
帰り道を追ってすぐ、開いたままのビニール傘に躓いた。己が貸したものだ。
雨合羽を着込んだ中年の男が、目を血走らせて包丁を構えている。鈍色の切っ先が指し向く方に彼女がいた。鞄を構えて身を守ろうとしているものの、その手は震えている。
幸いまだ無傷だ。
張り上げた声は雨音に掻き消されたが、彼女には届いた。
ぎりぎりで立ち向かっていたのだろう。俺を見た途端、泣きそうに眉根が寄る。
感情的な怒号と包丁が、逃げる背を追う。
彼女の手を引いて庇うには、間に合わない――
届かない、
――雨音だけが
どしゃどしゃと無遠慮に降り注いでは、全てを雨でかき消した。中年の男が戸惑いに立ち止まり、彼女が無事、俺の腕の中に飛び込んでくる。
喧しい無音の中、すべての画がコマ送りに眼に焼き付いた。
街灯の明滅のたび、雨溜まりに血の雫が融けてひろがる。
血でぬめる包丁が地面に弾かれ、きん、と鳴った。
黒手袋を纏う指が、凶器を拾い上げる。――男と彼女の間に割り込み、黒衣の上からも薄い腹に深々と突き刺さっていた、それを。
細長い影は何も語らない。ひどい雨脚に揺れる視界の中、黒一色の人影が遠のいていく。
倒れて動かなくなった男の雨合羽が、延々と、冷たい飛沫を
「? 誰かいるのか、――」
荒っぽい足音が近づいてくる。懐中電灯の光が雨を裂いた。
対策部、北支部隊員の二人組は、夜間巡回の最中らしい。
倒れる不審者の息を確かめ、俺と彼女に事態の説明を求めた結果、雨合羽の男は手際よく拘束された。協議の結果、警察へ引き渡す方針に落ち着くやり取りまでは聞こえた。
止まない雨は、もう一人の不審人物の血痕を、すっかり流してしまっている。
引きずる足取りのまま、彼女をマンションまで送り届けた。
緊張が切れたか、玄関先で腰を抜かしてた彼女を、脱衣場から拝借したバスタオルで包む。怯えて震えの止まらない身体に、しばらくの間、体温を分けた。
「……そうやって、その気もないのに優しくするの、やめたら?」
「……ふざけるな。……本当に心配したんだ。また、死なせるんじゃないかと」
彼女に焼き付いた恐怖の記憶が、早く薄らいでくれるように。――少しでも忘れられるように。出来ることは無いだろうか。
抱き締める腕を緩め、目を合わせる。彼女の涙目がぼうっと緩んだ。
「あれは、物騒な縁に近しい男だ。この家を離れたのは、あれに残った良識だろう。……そのまま、その特別な感情は、忘れてしまったほうがいい」
俺との口約束に、彼女はこくりと頷いた。
狭間通りに近しいものとは、関わらないのが賢明だ。善良な人間なら尚更。
「この辺りに悪いものはいない、安心していい。……ああ、そうだな。いい夢を」
シャワーで温まった彼女を抱きしめ、ベッドで軽い口付けを落としてから、電気を消して部屋を出た。
不審者同士の傷害現場を通り過ぎ、あれの潜んでいた路地に足を踏み入れた。
黒いアスファルトを雨飛沫が跳ねる。激しい雨脚に飽和した水分は濃い霧として満ち、顔を濡らした。湿気ばかりが肺に絡んで息苦しい。土臭く、青い雨の匂いが立ち込める中、それを上塗りする花蜜が香る。
匂いの元凶へ近づいていくのがわかる。
流されたはずの血痕が空気に焼き付いている。雨の霧が血を溶かしこみ、色濃く匂い立つ。吸った空気の甘ったるさに酷くむせ込んだ。足を引きずり、手負いの獣のように背を丸めながら、拒絶する身体に無理を聞かせる。
冷え切った身の、芯だけがひどく熱い。動悸がうるさい。
足が重くなっていく。地面を踏んでいる感触が遠い。
視界を遮るざらざらとした砂嵐に、鮮やかな紅色を幻視する。
落ちそうなほど緩いドアノブを捻った。――どれだけ歩いただろうか。階段をいくつも登ったようにも、長い長い砂利道を、休まずに辿り続けたような気もする。
暗く、冷えたコンクリートの壁にもたれて、黒ずくめの不審者は動かない。
深く被ったフードを剥いて、黒いミイラの布を雑に乱した。真っ白な髪がのぞき、開いた瞳が友好的に笑む。
細い指は、自ら、口元の布を緩めた。
漏れた笑い声があまりにも平和ぼけていて、挑発なのかと憤る。
「お、前。何が、おかしい……!」
足元が覚束無い。膝をつき、地べたに縋って身を支える。
最後の力で胸倉を掴んだ。
――俺の手は、血に染まっていた。
夜目を凝らす。地面がぬるりと光沢を増している。足元は一面に赤く、いまも広がり続けている。
すべて、負傷した
血溜まりの中、に、膝をついている――自覚した匂いが強烈に頭を殴る。
「……抵抗しませんよ。そうお怒りにならず、――……お兄さん?」
ひどい嘔気に意識は焼け落ち、それから先は記憶にない。
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