11-3
「久しぶりと、喫茶店のあかるい前途を祝して。かんぱーい」
別れ話以来、数ヶ月。蒸した梅雨が秋の長雨に変わる頃、喫茶店を訪ねたいと話していた彼女との口約束が実現した。
「開店から暫くだからな。祝い文句は嬉しいが、もう遅いかもしれない」
「私の方も、転職うまくいったところなの。そっちもお祝いついで」
「そうか。それは良い話だな、祝い甲斐がある」
店閉まいを済ませた夜更け、カウンターを挟んで向い合う彼女と、軽めの洋酒を
「味は美味しいよ。でも、強みがあるかと言われたら疑問かも。お店の印象には合ってる。から、変えるべきか、も……迷う。奇を
食べ掛けのパフェは盛り付けも崩れ、葡萄の粒が生クリームに埋まっている。デザートをメニューに加えるべきか迷う要因は、この華の無さと、今ひとつ決め手に欠ける味の両方。
「珈琲、本当に美味しくてびっくりした。もうリピーターがついてるって話にも納得する。でも、これ以外にも強みを増やしたいっていうのが牧之さんの主張なわけだろうし」
「ああ。理解してくれて助かる」
周辺店舗の評判、特色を交える彼女の知見は有難い。他店との競合を思案しながら、酒気で和らいだ語り口が、何度か世間話に脱線していく様を眺めていた。
電燈が揺れる。彼女の頬に赤みが見えるのは、暖色の灯りのせいだけではない。
元の職場を辞め、現在の生活が充実しているのだろうと見て取れる。表情が以前より、随分と明るくなった。
「人を呼べたら絶対軌道に乗れるのに、ってお店は多いよ。その切っ掛けには弱いかもしれない。しかも牧之さん、知る人ぞ知る隠れ家的お店に憧れてる質なんでしょう」
「……確かに、宣伝は得意じゃないな」それは問題と考えていたところだ。
「誤魔化した。牧之さん、ちょっとロマンチスト入ってるとこあるよね。かーわいい」
上機嫌な彼女の口に、生クリームの最後のひと掬いが消えた。「六十点かな」と、評点は芳しくない。
「美味しさはもちろん必要。牧之さんは、インパクト重視で味は二の次のメニューなんて許さなそうだけど……まあ。それ以上はさぁ、愛じゃない?」
「……酒には強いと記憶していたが、違ったか。帰りは送っていく」近ごろ通り魔の話をよく聞く。夜は物騒だ。
「やだなぁ冗談。……この人は甘い方が好き、果物が苦手だから他のものを、とか。好みを汲むってことだよ。真面目な話。……こう飾ったら綺麗だろうな、楽しんでもらいたいな。この人はびっくりするような装飾で喜んでくれるなぁ、なんて……こっちまで楽しくなる顔で作業してさぁ。そんな風に出来たお菓子は、やっぱり本当に美味しかったから」
水を差すのは野暮だろう。
語り尽くすまで静かに聞きながら、酔い醒ましの白湯でも準備しようと思い立つ。湯の沸く音をしばらく待った。
「それは、喫茶店で提供するものとは違うだろう」
「んん? どうして」
自覚していないらしい。普段しない質だから気付かないのか。とはいえ鈍くはないだろう、時間の問題のような気もするが。
『自分を思って、自分の為だけに』作られたから、特別な菓子だったのだろう。――言ってしまえば
さっぱりとして執着の薄い彼女に、こんな一面があったとは初めて知った。
酔いよりも熱にのぼせた頬を持て余したまま、小さな声がやけに言い訳がましい。
「……お菓子作るのが好きな人だっただけ。うるさい」
「前に見せてきた鉱石菓子の相手か」
「……牧之さんのそういう平然とした顔見ると、私に対して特別な感情は無かったんだなって実感するよ。本当、……そういう男ばっか引っ掛かるなぁ私は……」
口振りからして、もう切れたか。
要らない勘がはたらいてすぐ、彼女は推測を肯定した。つい最近の話だった。
「……聞き流していいよ。牧之さん、興味無いだろうから」
笑顔の
彼女が――己との関係を続けていた頃から、長く。そうして悩んでいたことを、いまさらに知った。
「元の職場、さ。けっこうしんどかったの。今はとにかく仕事優先だって、生活を犠牲にすることしか出来なかった。だんだんと、自分の世話が出来なくなって、仕事もミスが続いて、動けなく、なって……うん、よくある話。
決断できる頭が残ってるうちにやめよう、でもどうしたら、って悩んでた時、シロ君を拾った」
シロ。犬のような名前だ。「私は飼主だったから」と、事も無げに彼女は言う。
「私が蔑ろにしてきた、私の世話を焼いてくれた。外から持込んだ不満を聞いて、きちんとした言葉をくれた。色々と制度を調べて、問合せて、現状から最善の形で抜け出せるよう協力してくれた。
彼を好きになったのは、いちばん酷かった時にそばで支えてくれたから、だと思う。やっと今、少しは広い視野を持つ余裕ができて、……そしたら、さよならしようって決心もついた」
心当たりは一人いた。決して、良い心象とは言い難い白髪。
「『彼はとても優しい。誰にでも平等に優しい人だって、解った。私のことを特別に好きなわけではなかったんだと思う』……だと」
解雇された捨て犬の居所に心当たりがあったわけではない。
ホテル街の路地で客引きのタイミングを伺っているのか、ひょろりと立ち尽くす男を偶然に見つけただけ。彼女を家まで送り届けた後の帰路がその道だったに過ぎない。
下がり眉を困らせながら、人畜無害で気弱な笑顔を浮かべている。袖の伸びたカーディガンで口元を隠して、空気を食むような声がわずかに弾んだ。
「約半数の御客様から、同様の御意見を頂戴しております」
「他もあるのか」
「次点は『本当の恋が出来る相手は、いつかきっと見つかるよ』。こちら全体の三割ほどにございます」
「八割が同じ解雇理由になるな」
「左様ですか。残りの二割は」
「言わなくていい」問い質したのではないのだから。
しかしながら、男娼とはそういう仕事であるはずだ。
自分の我慢がきく限り、どんな相手も受け入れる。深入りはしない、客に特別な感情を持たない。別れを切り出されれば退く。そういうものなのだから――「相手が自分を特別にしてくれない」などと嘆くこと自体、根本から的を外している。
殊にこの男は、向いている気性だろう。
問題があるなら、客に「特別になりたい」と思わせる添い方をすることか。それもおそらく、無意識のうちに――本人はどこまでもビジネスライクな「売り」であり、応える気も無いのに。
「特別」を求めたがるのは客のエゴだ。金で買い、買われる関係の相手に、特別な愛など求めるものではない。
この男は凡庸な男娼だ。平均的な情が行き過ぎている、致命的な一点を除いては。
特別を欲されたとて、男にとっては金銭契約。求められても応えはしない。別れを告げられれば躊躇いなく手を離す。
客が変われど繰り返すだけだ。平均的に過剰な愛を、一方通行に贈るだけ。
身勝手さなら、双方ともいい勝負だろう。
「シロ、でいいのか。名前」
製菓の技術と引き換えに宿を提供する居候契約を、男は笑顔で快諾した。
「……そう決めたはずだ。反故にするつもりなら今すぐに出ていってもらう他に無いが。弁明はあるか」
居候準備を整えて、暫く。
現状把握に例のパフェを試食させて以来、一向に菓子を作らない犬に痺れを切らし、とうとう自宅の台所に引っ張り出してエプロンを押しつけるに至った。
「ですから。お兄さんのお作りになったものの方がよほど美味しい。何を教える必要があるのか分からない、と。そう申し上げておりますだけで」
「それは俺が判断することだ。材料は揃えてある。取り敢えず出来そうな菓子から作ってみてくれ」
催促して動かないほど愚鈍ではないらしい。そも彼女に聞いた話、製菓は当人の趣味だ。面倒がって作りたくないという話ではないから、――ならどうして作りたがらなかったこの男。意味が分からない。
エプロンの紐を締め、念入りの手洗いと手指消毒を終えた指先が梨に伸びる。慣れた包丁捌きのかたわら、ぼやく余裕もあるらしい。
「……基礎から確と勉強されておられるかたに、趣味と独学で好きな所だけやっていただけの私が何をお教えできるとも思いませんのですけれど……違いますか?」
おおかた、製菓の勉強に揃えた書籍を見られたのだろう。言い分は理解する。ただ、それを菓子を作らない理由にされては困る。
学びたいのは――そう。
「愛、とやらだ」
「あはは、酔ってらっしゃいますか?」
「……次は怒るからな」
「肝に銘じさせて頂きます」
引き際は潔い。
梨が粗い賽の目に整えられていく。
砂糖を混ぜ、レンジに入れた。出来上がりは待たず、他の工程に手を付けている。薄力粉と砂糖、バターの計量。
他人の家を転々として暮らしているだけあり、男は共同生活のコツをよく心得ていた。驚くことだが、この居候をストレスと感じたことは少ない。
書籍がいい例かも分からない。察しが良い、とでも言うのか。
己も気付かないうち、こちらの神経に触らない立ち回りをされているのだろうという気がする。時折、突拍子もない先回りをされて驚くこともあるが。
「……独学と言ったな。全部か」
「大体は。基礎は随分と昔、製菓を志している御仁と暮しておりました折にご教授いただきました。それから先は素人趣味ですよ」
硝子の器を給仕した男は、すぐに台所へ戻る。目に付いたもので思い付いたレシピを、計画性なく作っている気配がした。
初めに出来上がったのはパフェだ。――秋梨と葡萄。仕込む段階から、手間の掛け様は理解した。目下、装飾と飾り切りは上達の余地がある。つや出しの技法は他にも汎用性がききそうだ。
「ささ、お召し上がり下さい。溶けないうちに」
促され、スプーンと器を手に取る。どちらもよく冷えていた。
薄切りの梨はどれも瑞々しく、硝子の器を飾っている。宝石の葡萄が二粒ぴかぴか光り、ぷつりと弾ける水音と同時に、果汁が溢れる。
「…………、」
……学ぶことは多かった。似たような手順を踏んで、見違える味の菓子が出来上がる理由が分からない。
ついでに、愛とやら。それは、この味を作る為の純粋な技術とは違うのか。それもまだ、見分けがつかないままでいる。
「ところで、何品作るつもりだ」
「葡萄と梨でやり繰りしてタルトとジュレ、パンケーキに……あ、クレープもどきも出来ますね。最後はさっぱりと珈琲ゼリーなど。如何でしょう」
「……ひとまず製菓の腕を見たかっただけで、今ここでデザートのフルコースを作れと言った覚えは無いんだが」
「ああ、……それはそれは……なるほど。左様ですか……」
フルコースは軌道修正できたらしい。
それから毎日、保存した生地や蜜漬けを使い回しながら、数品ずつ仕上げられた菓子を試食した。
同じ品は一つとない。引出しの多さを実感するほどに、その要領を己がどれだけ吸収出来るのか、検討もしくは妥協する必要があるという考えがもたげる。
見通しの甘さに頭が痛い。技術という資産を、安く見積もり過ぎていた。
「……それはですね、お気持ちの問題ではありませんか?」
短期契約を延長したいと申し出た。我ながら、不甲斐ない顔を晒していたらしい。へらへらとした笑顔には、珍しくも困惑が見て取れた。
「例えば、料理も。自分が作るより、他の人に作ってもらったものの方が美味しく感じたりしませんか? きっと違いなんて、それだけですよ」
「……菓子以外なら、お前より俺の方が美味く作る」だから、思い違いとは別だ。
「それは全く、仰る通りで……っふふ、はい」
「何がおかしい」
「いいえ。お兄さんがお作りになる料理はどれも、とても美味しいですからね。ご馳走様です」
男は見知らぬ人間に対し、旧知の間柄かと疑うほどに協力的だ。親身でかつ、技術の開示も提供も惜しまない。気味が悪いほどの人の良さは、居候される負荷と天秤にかけても充分に釣りが来る。
人選に不足はない。――疑念が無いとは、言わないが。
「あの、宝石の菓子はどう作ったんだ。ケーキに載っていた」
「宝石、……ケーキ? ……ああ、なるほど。おそらく――」
焼菓子、生菓子、チョコレートの基礎の処理や氷菓まで。安直に思い付くあらかたの品を作らせたあと、そう尋ねたことがあった。
「それは琥珀糖というお菓子かと。検索すればレシピが判りますし、作り方も簡単ですから、お気が向いたら作ってみて下さいませ」
どんな菓子を挙げても一言『では作ってご覧にいれましょう』と。嬉々として作業を始めていた男が、唯一それだけは、作ろうとしなかったこと。
「昨日、昼間にどこか行ってたか」
「そうですね、すこし空けておりました。……すみません、なにか御用でしたか?」
時おり姿が見えない。朝起きて、男の寝床に貸したソファが空なのを見ることもざらだ。
何処で油を売っているのか、夜を明かしているのかは知らないが、丸一日見えなくなることは無い。興味もない、別段不利益でもないから放っておいている。
「大した用事じゃあなかった、気にするな。ただ、空けるときはなるべく連絡をくれ」
「承りました」
それからは、律儀に連絡が入るようになった。不在に規則性は見られない。
「お前、成人はしてるのか」
「幾つに見えます? ……ああ、戯れが過ぎましたね。当てる方が少ないので、ついお聞きしたくなってしまって」
台所で並んだ背は、あちらが猫背だからそこまで差を感じないのだろう。普通に並べば、おそらく頭ひとつは越されている。
ふにゃふにゃと笑う童顔が目につく。加えて、その頭に詰まっている浅い楽観思考が、予想年齢をより低く見積もらせた。
「、……十九くらいか」
「あれ、仰る通りです。びっくりしました」
糖蜜に漬けたオレンジピールに、洋酒の香りが染み込んでいる。オランジェットに使うチョコレートは、まだテンパリングの途中だ。
「……飼われていた時、酒を飲んでたと聞いたが」
「それはきっと、お菓子に洋酒を使った時ですね。風味を確かめようと、ほんの少し舐めただけで」
「シャトーの二十年もの、……退職祝いに開けたワイン、美味かったか」
「はい。それはもう――あっ」
年齢詐称に未成年飲酒。
「シロ」という名以外に初めて知った個人情報が年齢なうえ、未成年。それ以外の身元の情報が一切無い。……あと、平然と嘘をつこうとするな。
少なくとも数年はキャリアのありそうな男娼が十九だという。ならば十中八九、身内や環境に問題があるのだろうとくらいは予想していた。
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