9

 身体の回復につれ、和泉は病室を抜け出すようになった。看護師や医師、見舞い客の足音から逃げるように。身を縮めて、見知らぬ誰かから隠れるように。

 顔の見えない足音が迫って来るのに耐えられなかった。

 この人は違う、「彼女」が来るはずないと言い聞かせても、気配が病室に辿り着くより早く、身体が勝手に逃げている。耳を塞いでも変わらない。いつ迫ってくるか分からない影に怯えて、気が休まらず震えるだけ。


 受け容れられない「愛情」の泥。

 あれはきっと異質ではなかった。普遍の感情から芽吹いた結実。誰かが持っているかもしれないもの。再び遭うことも、差向けられることもあるだろう――考えただけで動けなくなった。

 好意が怖い。

 あの暗い場所で受けた蹂躙と、そうでないものを、区別することが出来なかった。


 附属病院と北支部との行き来は、非常階段を経由する回り道なら認証がいらない。

 藍の夜空に光が透けはじめる明け方、監視をくぐって息を殺し、鉄の扉を押し開ける。感知式の明かりが灯る廊下を、電灯の切れかけた暗がりをくぐって、真っ直ぐに隊室を目指した。

 夜明け前に目が覚める。

 多くの人が寝静まるなら、きっと「彼女」も眠りの中だ。

 呼吸が叶う数時間、検温までのわずかな猶予に酸素を求める。冴えた頭を抱えたまま、布団を被って不安に耐えるよりずっといい。

 たとえ、ひと時ばかりの気休めだったとしても。

「……は? 何で居んの」

 薄暗い隊室の奥。いつも空席の棗のデスクに、当人の姿があった。


 不意をつかれた。咄嗟に身を退く。

 バスタオルを被る金髪が、わずかに湿って大人しい。仮眠室で夜を明かして、シャワーを浴びてきた後にも見える――世間話が喉につかえるのは、自分のせいか、睨めつけてくる視線のせいか。

 和泉は問いに応えようと、声の出ない口を何度も開け閉めする。形にならない言葉のいくつめかに、低い声が被さった。

「…………ま、死ぬほどどうでもいいけど」

 道端のゴミでも一瞥する温度で、和泉は空気と同じになった。


「……おはよう、ございます。……朝早くからおつかれさまです」

「……」

「散歩と、いうか……気分転換なんです。毎日病院で寝てばっかりいるから、眠れなくなっちゃって。すみません、えへへ」

「…………」

「俺のこと嫌いなのに、ほっといてくれるんですね。棗さ」

「大っ嫌いな声聞かされ続けて今まさにキレそうなんだけど空気読んでくれない」

 癇癪混じりに刺した視線を、安堵の笑顔が受け止める。

「棗さんが俺を嫌ってくれてて、よかった」

 シンプルな嫌悪の棘が、透き通っていることに安心していた。

 議論の余地もなく固まり切った厭悪は、分かりやすくて先がない。中身の知れない好意に怯えているよりずっと楽だ。

「……シスコンと妄想癖に加えて嗜虐性癖まで目覚めた? 本気で救えない三重苦だな。地獄かよ」

 棗が僅かに押されていた。薄気味悪そうに吐き捨てて、和泉を視界から追いやる。

 当の和泉が、隊室の入口、扉のすぐ側に腰を下ろす。膝を小さく畳んで抱え、コンパクトに身を縮めた。

「棗さんって、ご家族と仲いいですか?」

 返答を渋る空白が、異様に長い。

「……個人情報に突っ込んでくんのやめてくれない。僕とお前、他人同士よりも親しくないよね。それともお得意の妄想癖で捏造した?」

「前に冬部さんが言ってました。棗さんはこっちじゃなくて、中央の出身で……北へ進学する為に親元を離れたって」

「人んちの家庭事情勝手にほじくり返したうえ堂々と本人に喋るとか愉快な神経してんね。それ聞かされて僕が喜ぶとでも思ったわけ」

「……棗さんばっかり俺の個人情報に詳しい」

「必要に迫られて仕方なく調べてただけだから。お前なんかに興味も関心も一切ない。現に全く覚えてない」

「納得いかないです……」

 明けゆく空が薄青に掠れ、曖昧な夜に満ちる部屋。

 薄影の暗幕を破らないよう、そっと触れる。静かな声が、移ろう夜気を震わせる。

「……俺いま、家族の顔、まともに見れなくて。……棗さんにお話聞きたかったの、それが理由です。ごめんなさい」

「俺」が死んで「私」になるなら、養父母は喜ぶのかもしれなかった。

 歓迎こそなくとも。微かにも期待に心が揺らげば、和泉の耳は鮮明に読み取るだろう。その可能性が恐ろしかった。

養父母りょうしんは俺に、『和泉ちゃん』でいて欲しがっているから……大喧嘩してきちゃった会いづらさもあるんですけど、それよりも俺が、今はもう、「私」を求められることに耐えられない」

 養父母が、「彼女」と同じものだったとしたら。

 そのもしもを目の当たりにする瞬間が、怖い――

「所詮は他人だろ。取捨選択するのが普通」


 ぞんざいな返答が、和泉の両手へすぽりと収まった。

「……他人、ですか?」

「家族なんて所詮、血が繋がった他人か、繋がってない他人かってだけ。養子縁組なら尚のこと他人だろ。……血縁も、家族なんて肩書も、僕からしたら神聖視する理由の方がわからない。自分で選べないものに不自由を強制されるとか吐き気がする」

 不快感に眉を顰め、和泉に目をやる。眉間の皺が深くなる。

 ひどく重だるい溜息を吐ききるまで暫くかかった。

「好きにしなよ。一個の人間なら、環境を選ぶのは当然の権利だ。自分が死ぬしかない場所に居続けるなんざ、この世で一番怠惰で馬鹿らしい、緩慢な自殺だ」


 両親のことを語る口に結わった重石は、罪悪感だと気付いた。――加害に加わっていない両親を疑うこと。信用できないという負い目。

 後ろめたさを、迷いを。彼は「何が悪い」と言い切った。


 変わらない傲慢に懐かしさを覚える。

 急に、抱える重荷が消えたように錯覚する。押し潰され、追いやられていた微かな気持ちを、空いた両手で拾えるようになる。

「……愛してくれたことは、ほんものでした。それを受け取っていいのは、俺じゃなかっただけで」

「俺」が偽りなく「私」であれば。きっと、真っ当な親子になれた。

 過保護のきらいはあったけれど。穏やかな親子の愛情を、間違いなく注がれてきた――確かな記憶の感触が、罪悪感の出処であり、首肯を躊躇う理由だった。

 会いたくないけど離れがたい。縁を切ればどうかと聞かれて、安堵よりも躊躇が先に立つ。矛盾が奇妙に成立していて、棗の言葉に頷くことも、跳ね除けることもできない。

「……あんなにひどいこと言っておいて、……結局俺は、養父とうさんのことも、養母かあさんのことも、嫌いになりきれない――」


 明けの気配に満ちていく。

 白っぽくぼやけた朝が忍び寄る。影色の青が温度を帯びる。藍が青へ、薄青が白み、暖色を纏いだした雲と光が、射しこむ部屋をくっきりと染めていく。冷えて混じり気のない晴天の匂いが、夜の気配を洗い流す。


 微かな嗚咽は、静かな寝息に変わっていた。

 膝を抱え、寝顔を埋める小さな子どもに朝日が届く。不格好な黒の短髪に、夜明けの空を溶かしたような藍色が揺れる。

 欠伸を殺した棗が、ひどく喧しい足音に気付き――予想通りの大男が隊室に駆け込んできた。

 棗の在室をみとめた三白眼が見開かれる。

「陽? なんでこんな朝っぱらから」

「帰んの面倒で泊まった」

「……お前、最近休んでんのか。報告書の量見たぞ」

「通常運転。それで朔、お前の用件は?」

 冬部が用件を思い出し、表情を曇らせた。

「和泉の奴、病院から脱走しやがって……心当たりをしらみ潰しに当たってんだけどよ」

「へえ。誇れる隊長殿の背中を見て育ったらしいじゃん」

「うるせぇ茶化すな」

「退院するって無理押して傷開けたのはお前が悪いだろ。反省しな」

「、……俺じゃなくて和泉の話だ。……今のあいつ、ほっとくと何しでかすか分かんねぇんだよ。とにかく急いでんだ、来てねぇのか?」

 ちらと、棗の意識が冬部に注ぐ。

 視野に入れたのは――冬部の死角。扉のすぐ側で身を縮めて眠っている和泉の姿を、視線を揺らさず確認する。

「見た通りだけど」

「分かった。邪魔したな、和泉見掛けたら捕まえといてくれ!」



 おとついも、きのうも今朝も。ハルちゃんはひとことも喋ってくれない。

「知らない」なんて嘘ばかりついて、ボクのことを露骨に避ける。放ったらかしにする。しかも明日からケンシュウカイに出るとかで、一週間は帰ってこない。いつもなら絶対そんなの行かないくせに。

 鬼化も不死化も、解明されてないことだらけの不可思議だ。

 ハルちゃんだって科学者なら、その秘密に手が届くってことがどういうことか、理解しているはずなのに。

「……あんまり呪具アレは使いたくないけど、」

 けっこう前に作った呪具で、頭をいじって秘密を吐かせるモノがあった。仕方ないけれど、研究の進歩には代えられない――


――ダメだ。ハルちゃんは、ボクと同じところに立てるかもしれないから。


 前生、不死化もとい鬼化の論文をふいにされて思い知った。

 研究には、理論を裏打ちする客観的証拠と同じくらい、それを繋げていける後継者が必要になる。

 ウソだと笑われて日の目を見なかったボクの論文は、偶然に重なる偶然に恵まれて、なんでか世間に認められていた。ボクがもう一度生まれた世界は、ボクの死体に手のひらを返して、笑いながらボクを歓迎した。

 世界に感謝なんかしない――幸運の気まぐれがなければ、ボクの研究は絶えていた。

 ボクが死んだ後も研究を継いで、細部を精査し発展させていける、優秀な研究者。学会で論を提唱して議論を重ね、世に広めるための弁が立てば、もっと適格。

 ハルちゃんはきっと、前のボクに足りなかったモノだ。

 ボクの研究を、今度こそちゃんと認めてもらうために、ボクや検体と同じくらい必要なモノ。


 その優れた脳を損なうリスクは、研究の未来を潰すリスクと等価。

 そこまでの演算を瞬時に済ませて、遊は身体ごとソファに飛び込んだ。ファミリーパックのお菓子を開ける。ご飯前の間食を咎める保護者は、暫く帰ってこない。

 補給の合間、少しだけ頭を休める。独り言が滑り落ちる。

「ボクは見たんだ、ウソじゃない。ウソなんかついてない」

 慣れた言葉、慣れた抑揚。挫折の度に唱えてきた魔法の呪文。

 研究における失敗は、真理へ辿り着く可能性を高めたというプラスだ。行き止りの道という手掛かりを得た頭は再び数多の仮説を導き出し、遊も嬉嬉としてあたらしい立証を始める。

 だから。その呪文は反骨心の現れでも、頑張る為の気力を奮い立たせる暗示でもない。

 単純な話だ。自分の原点を見失いたくないだけ。


 幼い頃、迷い込んだ森の奥。

 白銀に覆われながら、鮮やかに咲き誇る真冬の桜――突き刺さる冷気など知らない顔の、瑞々しく香る薄桃。凍てついた冬の中、凛と聳える大樹に触れた。

 静かな息吹を、覚えている。

「証明してみせる。生物の不死化――ボクの見たものが、ほんとうだってこと」

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