8

 あたしの言葉遣いと怒り方の癖は、きっと母親譲りだ。


 両親の声といえば、口喧嘩ばかり聞いていた気がする。母の甲高い金切り声と、目も当てられない罵りあいが、小さな家を揺らしていた。

 子供部屋の隅、侮辱の意味も分からない幼さの妹が、怯えきったままあたしを見上げる――子どもひとり萎縮させるくらい、怒鳴り声で充分だった。

 それが聞こえる度、紫乃の耳を塞いでいた。

 両親の喧嘩を止める術を、あたしは知らなかった。

 いつ、どんな理由で起きるかも分からない。近しい大人の癇癪は、為す術もなく耐え忍ぶしかない災害と同じだ。

 不運な嵐に見舞われた後はいつも、家が静かになってから、紫乃と他愛もないお伽噺をした。分厚い図鑑を開いて、二人で指さし言葉を交わす。

 固かった表情がほんの少しでもほころぶと、ほっとした。あの子は昔から、植物図鑑が大好きだった。


 母親は紫乃に冷たかった。学校の成績が良くなかったせいだ。

 あの子が絵で賞を取っても「遊ぶ暇があるなら勉強なさい」と、何時間もかけて感情的に叱りつけた。

 たった一言でよかった。あの子はきっと、母親に褒めて欲しかっただけだった。

 幼い紫乃は暗い部屋でひとり、泣きながら絵を破いていた。気づくのが遅れたあたしに守れたのは、画用紙のいびつな半分だけ。

 綺麗な緋色の曼珠沙華がばらばらに千切れて、赤い紙屑が血の海みたいに散らばっていた。


 母親に制止は意味をなさない。

 頭を撫でる手は――暴力を振るう手へ容易に変わると、昔から身に染みている。

 刃に変わりかねないものが紫乃に向くくらいなら、釘付けにしてしまえばいい。こちらだけ見ていろと思った。幸い、頭の出来だけは良かったから。

――あたしが頑張るわ。だから、紫乃のことは傷つけないで。

――子供を痛めつける母親の顔なんて、あの子の前では見せないで。

 あたしは期待という重荷を背負った。反対に母親は、紫乃へ干渉しなくなった。

 紫乃はあたしを頼ってくれた。学校の面談も、些細な悩み事も。母親より先に相談してくれるのが嬉しかった。社会人になってからは、金銭面の援助も出来るようになった。歳が離れていてよかったと、心から思った。

 紫乃からお願い事をされる度、あたしはあの母親とは違うと思えた。

 母親の機嫌を宥めながら、紫乃へもこまめに連絡をとった。自身の見えないところで母親が暴力を振るわないように、また、些細な暴力も見逃さないように。牽制と監視のつもりでいた。


 満足していたのだ――あたしだけは。

 自分の役割に酔うばかりで、あの子の顔が見えていなかった。


 父親からの電話に急かされるまま、徹夜明けの寝ぼけた頭で家に帰った。愕然とした。

 自室で昏昏と眠り続ける紫乃の頭に、角が生えていた。


 スクリーニングの結果も、疑う余地はなく「駆除対象の鬼」だった。

 母親が通報を頑なに拒んだ。それは単なる世間体の問題だったけれど――あたし自身、対策部に籍を置く上で覚悟していた諸々が、他人事の域を出ない代物だったのだと思い知らされた。

――紫乃が、殺される?

 鬼は恐ろしい脅威だと知っている。暴走状態の危険を何度も目の当たりにした。隊員の負傷を、痛ましく感じていた。

 でも――ここで眠り続けるこの子に、一体何の非があった?

 この子は、人を襲う畜生に成り下がる。理屈を飲み込むことを、心が拒絶した。

 通報するべきだという父親と、初めて口論になった。


 あたしの声は、記憶の母によく似ていた。


 自分自身へのどうしようもない嫌悪感から、生まれてはじめてトイレで吐いた。胃の中のものが無くなっても、身体が勝手に嘔吐いて胃液を絞り出す。

 食事を戻す日が続いた。

 母親との繋がりを実感するたび、トイレに籠る時間が延びていった。



――ある晩、紫乃は前触れなく目を覚ました。


 リビングで口論する姉と父親を眺めて、眠そうに目を擦っていた。寝癖のついた頭に、生えていたはずの角が無い。

 すこし痩せた肩を掴んで、紫乃と真正面から向き合った。

 紫乃の身に起きていることに説明がつかない。

「……彩姉あやねえ? 肩、いたいよ」

 鬼化変性は不可逆だ。角は脱落した? 吸収された? ――見目がどうあれ、呪力は確実に肉体へ蓄積されているはずだ。異形の脅威は保存されている。角無しの鬼だって珍しくない。

 思考の濁流がとめどなく警鐘を鳴らす。すくい上げる暇もなく溢れてくる。

 忙しい思案の隙を縫って滑り落ちた言葉は、ちっぽけな一言だけ。

「……――おかえりなさい。紫乃」

――ひどい悪夢でも見ていたかもしれない。

 虫のいいお伽噺に納得できたわけではなく。気分の悪くなる仮定――さっきまで直面していた現実――を、頭から追いやっただけ。

 逃避だと分かっていながら、いつ消えるとも知れない安寧に縋った。


 少しだけ気負わずに笑うようになった紫乃は、前よりずっと多くのことを打ち明けてくれた。今まで伏せられ続けていた、紫乃自身の痛みのことも。

 そして同時に、窶れたあたしの手を握った。

「よかったら、彩姉の話も、聞かせてください。……苦しかったことも、我慢してきたことも。わたしはずっと彩姉に頼りきりで、寄りかかってきただけだったから……そんな奴に話してやるとか、今更、いやかもしれないけど」

 支え合える「家族」になりたいのだと。紫乃は慎重に、言葉を濁さず言い切った。

 幼かった妹は、とうに、自分と同じ背丈に成長していた。


「あのさ彩姉、夢を見たよ。やさしくて幸せな、夢みたいな夢を見てた」

「……眠ってた間のこと、覚えてるのね」

「? わたし超げんきでおさんぽしまくってたよ」

「そう、……?」

「幼女のわたしの前に、少女漫画みたいな好青年が現れてね。まぁ、とくべつ彼が何したってわけでもな……あるか。うん。彼が、話聞いてくれたおかげだから」

 聞いた名前に、心臓が嫌な音を立てた。

 中央からの指示とはいえ、いちど見殺しにしようとした――その頃は彼女だった――彼の名に、相違なかった。

 彼が生き延びた偶然で、紫乃は救われた。

 自分を見殺しにしようとした女の身内を救けてしまうなんて、ずいぶんとお人好しな皮肉があったものだ――我が身醜さと罪悪感に苛まれて、慣れた吐き気がせり上がる。

 きっとあたしに道はなかった。

 幾ら抵抗を続けたところで、最後には対策部に通報することしかできなかった。和泉がそうしたように、紫乃に寄り添うことはできなかった。

 だってもう、手の届かなくなってしまった後だったから。

「家族のこと思い出したとき、彩姉の顔が真っ先に浮かんだよ」

 そう笑ってくれた紫乃の傍に、今度こそ、居てあげたいと思った。

 もう一度だけ得られたチャンスで、いい「姉」になりたかった。曇らせたくなかった。どこかに行ってしまいそうなら、手遅れになる前に引き留めたかった。

 血中呪力値の定期計測は、その万が一が起きた時に、いち早く気付くためのものであり。


「ハルちゃんがわるいんだよ? こ――んなにきれいなデータが取れる不死者の幼体みつけてたくせに、ボクにヒミツでこそこそして!」

 決して――この子どもに玩具を与える為ではなかった。


 研究室の榛名のデスクに、白い癖毛が揺れている。ちいさな背中が振り向いて、あどけない笑顔が屈託なくほころぶ。

 この研究室の室長である子ども――白幡しらはたゆうは、榛名のパソコンを我がもの顔で操り、紫乃の呪力値データで数十通りの統計処理を済ませていた。

「ボクの仮説通り、呪力による変質が起こらない――『呪力を受容した』個体。いまの呪力測定法では発見できない、健常の異形。この幼体の場合、変性の速度が早かったかな。でも、受容が間に合ってきてるみたいでよかった」

 ディスプレイに映る、紫乃の呪力値が下降の一途を辿っているという事実。

 数十年単位で予測された減少傾向に、統計ソフトが優位性を見出している。

 一度は見ない振りをした寒気が戻ってくる。突き付けられる。


 鬼化は不可逆変化だ。呪力の上昇や多少の変動あれど、下降傾向はありえない。


 直視させてきた目の前の子どもが、恐ろしい。

「……フシシャ? 何よそれ。あんたの作ったあんただけの言語で話すのはやめてって、いつも言ってるわよね」

 遊にだけは見つかりたくなかった。

 見目通りかそれより拙い幼児の情緒と――過去の歴史の転換点、鬼化の論文を完全に理解した上、数段発展した論理を巧みに操る知能を併せ持つ「異常」。

 歴とした榛名の上司であり、白幡研究室の主任研究員。

『――ボクがなんで、この論文を理解できるかって?』

『だってコレ、ボクが書いたボクの論文だよ? 理解できて当たり前じゃんか。ハルちゃんたら、たまぁに変なこと言うよね?』

 そんな冗談を呆れ調子で口にする。

 世話が焼ける幼児でありながら、理解不能な回路の仮説と立証を積み重ね、着実に、確実に真理に迫っていく、変態的なまでに純粋な生物学者。

「この検体が手に入れば、呪力そのものを観測する技術を見つける足掛かりになるかもしれない……ううん、きっとなる。これまで不可視だった不死者が、ちゃあんと、客観的な証拠で特定できるようになる!」

――その昔、化物に「鬼」という呼称がついた時と同じように。

 遊の笑顔が目前に迫る。

「それでハルちゃん。この幼体、どこでみっけた?」

 息が詰まる。動けなかった。

「検体」の素性への追及に、容赦は期待できそうにない――


彩姉あやねえ! いない!?』

 研究室の扉を力任せに叩く音が、凍りついた意識を一瞬で引き戻す。


 榛名が扉を振り向いた。彼女の表情の固さとは対照的な、緩みきった遊の声が続く。

「なーに? 二号くん?」

 誰よそれ、と。榛名の疑問は心中に留まった。

 何に、誰と誤解しているかは問題でなかった。重要なのは、榛名の青ざめようから事態を察する機微は持ち合わせなかったという、遊の欠点。榛名の幸運。

『……ごめん、緊急事態だから開けるよ!』

 勢いよくドアノブが回る。鍵は掛けていなかった――


「っ駄目! 来るな!!」


――ああ。

――やっぱり、瓜二つね。


 ドアノブから手が離れる。紫乃が息を止めた気配がした。

――それでいい。あたしを嫌ってくれていい。

 信頼は得にくく、また喪い易い。裏切れば最後、何もかも元通りにとは戻れない。失うことばかり繰り返せば、新しく芽生えることすらなくなっていく。

 もう二度と信頼してもらえなくていい。

 頼ってもらえなくても、笑顔を向けてもらえなくなっても。せっかく寄り添ってくれた紫乃を拒絶し、その手を振り払う行為であっても、構わなかった。

「家族」の約束を、破ることになっていたとしても。

『……あ、……や、ねえ、』

「来ないで!! 絶対に開けないで、今すぐ帰りなさい!!」


 自分勝手だとは分かってる。刃と知ってこれを振るった。

 あの子が怯えると分かりきった暴力で言うことをきかせた――あたしはやっぱり、あの母親と同類なんでしょう。

 でも今は、それでいい。

 この暴力から逃げることも、退けることも選べるようになったあなたなら、迷わず此処を離れてくれるだろうから。

 ごめんね、紫乃。あたしの話を聞かせてって、苦しいことは分け合おうって言ってくれたこと、本当に嬉しかったの。あなたはもう、小さな子どもじゃなかった。

 それでもあたしは、あなたにこれを明かしはしないでしょう。

 この秘密は、死ぬまであたしが抱えていく。


『じゃあね、彩姉』

 あなたの姉でいられなくなってもいい。大好きなあなたを守れるのなら。



「はあ、えっと。……わたしが、何か……?」

「……紫乃、私の後ろに」

 鏡が紫乃を背に庇う。和泉と同一、「相良」を写したその顔に、無表情と警戒心を器用に同居させている。

 招かれざる客でありながら、難なく鏡面の世界に踏み入ってきた不死者ふたりに、勘定すら馬鹿らしいほどの力の差を感じながらも。

「ふふ、随分と無謀に出るじゃない? 可愛いのね。『本物』はもっと利口だったけれど」

「地雷女から離れられたなら本望ですよ。……貴方のようなものが、戯れで姿を現しはしないでしょう……紫乃を、歓迎するなどと。世迷言が聞こえた気がしますが」

「あらぁ心外。本気よぉ。聞き分けがよくて可愛げのある新人さんの気配を感じたから、古株連中で手厚く勧誘しましょうって話になるんじゃない」

 ネイルアートの艶やかな指がひらひらと踊る。手妻のように、細い鎖が絡んでいる。

 手のひらに載せられた古鏡を見て、鏡がひゅっと息を呑んだ。

「慌ててたにしたって、不用心ね。自分の命を放り出して行くなんて」

「……、」

「妙な気は起こさないことよ。本体が壊されたらどうなるか想像できないほど、察しは悪くないでしょう? 呪具ごときが不死者に太刀打ちできるなんて、まさか本気で思ってないわよね」

 鏡の本体を握り潰そうとする――抵抗するなという脅し。

「……っ鏡くん!?」

 紫乃が慌てようと、膝をつく動作に迷いは無い。

 頭をたれ、地に額をつけた鏡に、佐倉はやっと相好を崩した。

「そう。『本物』もそうして頭を下げてたわねぇ……記憶を消したい人がいる、お力をお貸しくださいって。神頼みなんかしちゃって。ふふ」

「肥太った自意識は貴方の美を損ねますよ。貴方とて、魔性という点は私と変わりない」

「――……あら、そう。減らない口ね」

 細い鎖がねじ曲がり、輪のひとつが破裂する。


 ぱちり、ぱきりと硬質な音を立て、鎖が歪む。円環がねじれる。

 不可視の圧力は徐々に本体へとにじり寄る。

 羽虫の羽根をもぎ、手足を千切って甚振るとの同じ。緩慢に、しかし確実に迫る死をちらつかせる。

 土下座から動かない小さな身体を、消失への恐怖が掠める。


 破壊の予感は、喉元まで来て――いた。

「……趣味が、悪いぞ。……こちらの倫理観を疑われるような真似はやめろ」

 男の声が近かった。鏡がつられて面を上げる。

 つい先刻まで蹲って動かなかった男が、所々が歪んだ鎖に繋がれた古鏡を、鏡の目前に揺らしていた。彼の顔はまだ微かに青く、水っぽい血痰の絡む咳が痛々しい。

 自身の本体の無事に、鏡が浅く、詰めていた息を吐く。

「……有難う、ございます」

 今度は純粋な感謝から。

 再度の土下座は、視線を合わせた男に制止された。

「礼なんかいい、こっちが謝ることだ。……悪かった。怖かったろ」

 齢百を超える器物相手に、まるで子ども相手のような物言いをする。

「さっすが、囚われの姫を救い出した王子様は違うわねぇ。吐き気がするわ」

「……顔が似ていると思っただけだ。関係ない」

「はいはいそうね、何だっていいわ。屑の昔語りに付き合ってあげるほど暇じゃないもの」

「あの、お話中すんません、けど」

 鏡を助け起こしたまま、紫乃が小さく手を挙げる。

 互いへの棘を隠さない応酬を続ける二人の、見知らぬ方の顔。視線に気付いた男が振り向き、問い掛けを待つ。

「……。店長さん、です?」

 男の視線の逸らし様は、紫乃が喫茶店で覚えのある――都合の悪い質問に相対した店主の癖に、似ていた。

「……俺はそんなに分かりやすいか」「や、……声、おんなじですもん」「……」「……すんません、中の人の聴き分けに関しちゃ特殊な訓練受けてるんで……」

 見破られたものを続ける意味もないと割り切ったらしい。

 男の顔が瞬きに霞む。紫乃の見慣れた雪平の姿かたちが現れる――種も仕掛けもなく起きた事象を、彼女が飲み込めるかどうかは別として。

「普通じゃない、って? あなただってそうでしょう。だいたいの人間はね、身体から花が湧き出て困ることなんてないのよ」

 一歩、思わず後ずさったローファーが花に埋もれた。

 紫乃を中心として、鮮やかな花弁が丸く絨毯のように広がっている。ぽんと一輪、現れた白い花が地面に落ちて、それが最後のひとひらだった。

「その花は正真正銘、あなたに育ちつつある『不死者』の力のかたち。あんまり殺意を煮やしていたから、余波で揺れて、零れてしまったんでしょうね」


「描いた花」が、平面から「現実に出てくる」ことが、あった。

 紙に根を張っている訳でもない。細い茎を掬って持ち上げると、紙面の境界から丁寧に手折られたような断面をしている。

 出てくるかどうかは制御できない。ただ、緻密に描くほど、時間をかけるほどに、具現の確率は上がる。万が一の事態が恐ろしく、総文祭の題材にも植物を避けた。

 佐倉の言葉を信じるなら、その判断は正解だったのかもしれなかった。


「あたし達もあなたと同じ。今の科学では証明できない力を以て、奇跡の術を行使する。そのせいかは分からないけれど、自然には死ななくなってしまったわ」

 紫乃は「奇跡」への心当たりから閉口し――鏡はその様子から、佐倉の言葉が的を得た言葉であることを悟る。

「私たちは、不死の秘匿と平穏が欲しい。不死性を可視化する技術の発見に繋がりかねない、……不死の『異質』の客観的な裏付けを掴ませたくない。化学に証明されてしまうことを避けたいの。

 貴方の身体はきっとこれから、人から不死への変化を辿ってゆくわ。それは格好の研究材料になるでしょう。あたし達の感情としては、一刻も早くこちら側に保護したい」

 専門用語や学術知見を避けた説明は抽象的で、現実味の薄さばかりが耳に残った。

 強い感情、妄執、願い――が、人を鬼に変える。条件を満たすと不死者へ進化することもある。何通りかある「不死者」の発生パターンのひとつで、紫乃はその経過を辿っている「らしい」。

「実際のところ、五分五分かしらね」

 佐倉の言葉に頷きこそすれ、実感はなかった。

 不老不死を自称する目の前の二人とて、普通の人間と何ら変わらないものにしか見えない。

「もし貴方が人の子のままだったとしても、死ぬまで不自由しない暮らしを与えて上げる用意があるわ。悪い話じゃないと思うの。戸籍上は死んで貰わないといけないから、家族や友達には会えなくなるけれど」

 身に馴染んだ心地よい関係性や居場所と、自分の身の安全及び不明瞭な「不死」の秘匿。天秤にかけるまでもなかった。

 前者を手放す不安も、後者に対する実感の持てなさも。どちらも大きかったから。

「……あの。わたし、」

「ごめんなさいね、焦らせちゃったかしら。返事は急いでいないわ? これでも長く生きてるの。待つのは慣れっこよ」

 譲歩のようなものは、今にも紫乃から零れかけていた返答を、やんわりと差し戻す。

 佐倉は立ち去る気配を見せていた。男を促し、「お邪魔したわね」と鏡に告げる。まだ呆然としたままの紫乃へと、振り返りざまに微笑んだ。

「あなたの他にもう一人、不死化の芽が見えてる子がいるわ。今と同じ提案を持ち掛けるつもり。同期なんて言ったら可笑しいかしら? でも、心細くなることはないと思うの」

 紫乃の鼻が微かに動く――花の香に混じる、仄かなミルクココアの香り。

「安岐和泉君、って子なんだけれど。丁度いいでしょう? つがいだったら、長い命も寂しくないわ。好きな人とずっと一緒にいられるの。とっても素敵よ」

 目に留まった白い花が、不意に、優しい記憶と重なった。



 鏡面の内で、冷えた風が吹いている。

 鏡の世界は几帳面に、生者以外のうつつの景色を丁寧に模倣する。小さなつむじ風が、かすかに砂塵を巻上げた。

 紫乃が見えなくなったのを確かめ、雪平がやっと、声を尖らせる。

「雌雄揃えれば番になるとでも思うのか。ペットや家畜とは話が違う」

「あたしがいつそんな暴論ひけらかしたわよ。……あの子達には好意が育ってる。至って自然な成行きよ。その程度も見えないなんて、あんたまた情緒が退行したんじゃない?」

「……好き同士なら一緒にいられる、それが幸せだなんていうのも、ある種の暴論だ」

「そうね、情の絡まない交尾しか能のない色情魔にとってはさぞかし幻想に見えるでしょうね。そうやって伴侶を決めて添い遂げる番は実在するのよ」

 まだ続く反論は、口を開いたところで硬直「させられた」。

 雪平が喉を押さえる。声が出ない。呼吸すら抑制しようと気道を締め上げる「圧力」とともに、佐倉の冷えた眼差しが刺さる。

「はっきり言って、今のあんたなんか女神様の敵じゃあないのよ。建前上、対等に振舞ってあげてただけ」

「――、っ――――」

「いつもならこの程度、羽虫同然に小指で退けるでしょう? それがこんな体たらくで、よくもまぁそこまで尊大な口がきけたものね」

 苛立ちを押し付ける圧は、ほんの戯れに掻き消えた。

 つんと表情を変えない佐倉を――美という概念を形どったような精緻な人型を、雪平がなりふり構わず睨みつける。

「ど、こが。神性だ……! お前はただの獏――、っ」

「違うわね。『北の地を愛し、この地の桜に愛された』『男身の美しい女神様』――それがあたしの『伝承』よ。魔物風情が、弁えなさいな」


 彼らの実像は『身に集めた信仰』。『伝承の形』に拠る。

 彼らの存在が語り継がれて「伝承」を造形ったのか。それとも、よく似た「伝承」の形を拝借し当てはめることで、その不死に名前をつけたのか。明確な順序はない。


 人間が移ろうものである限り、伝承も変わりゆくもの。

 その論を否定はせず、雪平は苦々しい表情を隠さない。

「……名前を変えたところで、一度定まった力の基盤はそう簡単に変わらない。お前の本質は夢喰いのままだ。……っだいたいお前、神性だ魔性だと、他所からの線引きを気にする質でもないだろう!」

「『本名で呼ばないで』程度の頼みにそこまで頑なだからあんたは堅物なのよ。……あたしは『この美しさを崇め奉りなさい人間共』って再三主張してるわ? その信仰物の概念に『神様』って名前がついてたから、分かりやすいように、人間の言い回しに合わせてあげてるだけよ」

「――、……俺たちは所詮、信仰なしには力を保っていられない。お前の見下す『人間』ありきの存在だ。糧を得なければ死ぬ。その程度の魔性だろう。思い上がるな」

「だから礼を尽くされれば利益も与えるし、基本的には庇護の立場に立ってあげてるじゃない。これって破格の待遇でしょう?」

 たおやかに微笑む片手間で、鏡面から抜け出す術を練り終える。


 辺りの景色は、見慣れた喫茶店に変わっていた。

 定休日の店内に客はいない。畳んで置いたカフェエプロンに手を伸ばしつ、雪平は諦念に目を伏せる。

「俺も昔とは変わった。……少しはお前と分かり合えるかもしれないとも期待していたが、そうでもないらしい」

「あたしだって、あんたがあたしに匹敵する『信仰』持ちでなければさっさと殺してやりたいくらい大嫌いよ」

「そうだな。両思いで結構だ」

 嫌いあい同士。価値観の噛み合わない同士。

 仲の悪いものが拮抗して、互いの牽制となるバランスが丁度いい。長いこと続いてきた力関係は、良くも悪くも安定した形だった。

「ところでお前、……和泉の記憶の封を、わざわざ自分で解いたのか」

「元々、封じる期間がいつまでとまでは頼まれてないもの」

「厳重な術は解くのも手間だ。お前は、理由の無い面倒をボランティアでやりたがる性分じゃあない」

「そうでもないわ? 女神様は慈悲深いんだから――、」

 ドアノブが回らない。

 扉向こうの誰かが、出入りをかたく禁じているかのようだった。そんな細工をする男は一人しかいない。


「和泉になにを吹き込んだ」

 言外の断定を察し、佐倉が優雅に唇を歪める。


「嫌な言い草ね。初めから悪事を企んでるって決めつけてる」

「あれはお前好みの顔だからな。その上あれほどの呪力持ちなら、糧にするにも誂え向きだ」

「……あら。あんた、人間の顔の系統とか見分けられるようになったの……人間の真似事、無駄な道楽って評価は撤回してあげようかしら。成長したのね、見直したわ」

「真面目に答えろ」

「大真面目よ。やぁねえ必死になっちゃって」

 紅を引いた唇が、雪平を茶化してやろうかと動き掛け――ここで切るには勿体ないと、手札の言葉を飲み込んだ。

「死人に信仰を集めるなんて、勿体ないでしょ? あたしが貰ってあげた方が有意義だと思うのよね」

 妹への依存感情は、ある種の「信仰」に類似する。


 和泉の信仰、妹への狂信。強度と執念は折り紙付きだ。

「信仰」に実像を委ねる魔性にとって、敬虔な信者は多いほどいい。

「……あの狂信は、自己防衛本能と背合わせだから堅牢なんだ。余所から掬い取れるような代物じゃあない」

「だから態々『愛する妹の末期の声を聞いてくれた女神様』を名乗ってあげたじゃない?」

 雪平の驚きも束の間、またたく間に嫌悪が滲む。「最低だな」「女神の名乗りに誓って、嘘偽りない真実よ」「すこぶる性根が悪い。恩着せがましさで吐気を催したのは初めてだ」「あんたはあたしが嫌いなだけでしょ、勝手にバイアスかけてんのよ」

 ネイルアートがひらひら踊る。思案の素振りに花を添える彩りが、不意に雪平を刺した。

「和泉くんの信仰心をうまく貰えたら、本調子のあんたを潰すくらいは朝飯前かしら。――まあ、」

――今のあんた相手なら、杭一本で充分でしょうけど。


 あまねく浸透した伝承は強い。しかし同時に、弱点が認知されるリスクと隣合わせだ。

 その筆頭ともと言える「伝承」持ち――避け得ないリスクを莫大な力に飽かせて無力化してきた男は、いまやその「弱点」が致命傷となりそうなほど弱っていた。


 雪平の顔はまだ青い。紫乃の「花」の毒が根深く残っている。

 特定の手段でないと殺せないとまで言わしめる「伝承」。桁外れの回復力と不死の力を持ちながら、その片鱗すらうかがえない。

「……信仰を集めて、名を上げて……お前を唯一抑え込める俺も、いずれは消す気か」

「そこまできたら被害妄想ね。被害者ぶる前に、あんたがさっさと本調子に戻って、牽制でも何でもしたらいいんじゃない?」

 ばちりと、弾けた。

 雪平が苦痛に眉を顰め、ドアノブは軽い音を立てて回る。内扉の向こうの風除室から、霧雨の匂いがゆらゆらと迷い込む。

 雨の気配を纏う、ヒールの足音。

「あんた、最後に『食事』したのはいつ?」

 問いながら、蹲る雪平を正面から見下ろした。


「――……それは、」

「食べなきゃ食べないだけ弱るわよ。四十余年も人間もどきのおままごと続けて、本調子のままいられるとでも思ってたの? 舐めんじゃないわよ」

「……口出しされる謂れはない。俺は、別のやり方で糧を得ている」

「そっくりそのまま返して上げるけど、あんたという魔性の本質はとっくに固まり切ってんのよ。代替法に頼ったって所詮は邪道、燃費の悪いその場凌ぎ。今のあんたじゃ人狼にだって負けるわ」

 猶予は無い。諦めて、受け入れろと、佐倉が釘を刺す。

「節度ある大人になろうったって、とっくに手遅れよ。恨むんなら自分の本質を恨んで、潔く自殺でもしたら?」

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