10-1

 健康そうな青年の姿は、昼下がりの病院の賑わいにはそぐわない。

 黒縁眼鏡に患者でごった返す受付を映し、用向きも無く通り過ぎた。ナースステーションを覗いて、ある患者への面会を申し入れる。

「こんにちはお兄さん。面会謝絶やめたのならさ、僕より先に呼ぶ人いない?」

 まだぎこちなさの残る笑顔が、氷崎の訪問を歓迎した。

「本当に、入っても大丈夫?」

「……俺の様子、おかしくなったら、ナースコール押してくれませんか」

「うん、そのつもり」


 和泉の逃避行動は――「蹂躙されない」時間の蓄積が薬となっているのか否か、悪化の兆しはみられない。

 冬部は怪我の軽快により退院した。和泉が徐々に、病院スタッフへの拒絶反応を抑えられそうになっていた事も理由のひとつだ。定期的な見舞いに訪れるかたわら、和泉が元の生活に戻れるよう、方々にリハビリの協力を頼んでいた。

「話すだけでいいとは聞いてるけど、話題が無いってことまでは気付いてくれないよね、冬部さんは」

 腿に載せたノートパソコンで大学のレポートを仕上げながら、氷崎は、目の前の病人の呼吸を数えている。

――多分、僕ではリハビリにならないだろうな。

 安定した呼吸に当惑するのは和泉の方だ。自分が落ち着いていることに空回りしてしまっていて、単純な理由に辿り着けるほど余裕は無い。

 目の前の氷崎に恐れるべき「好意」が含まれていないのだから、和泉の耳は確かな精度で働いているという限りだが。

「そうだ、これ。お見舞いに来た人とでも分けてほしいな」

「ありがとうございます。美味しそう! ゼリーですか?」

「うん。苦手だったら、博己にでも押し付けてやって」

 菓子を抱えて屈み、小さな冷蔵庫を開けると、市販のヨーグルトやプリンの類の先客がいる。

「このお店、氷崎先輩のお気に入りなんですね」

 ベッドの和泉を見上げた。洋菓子店の化粧箱を眺めている。

「人喰鬼の事件のとき、俺がまだ護衛されてた頃。氷崎先輩、ここのアップルパイ買ってきてくれたんです」

「……そんな事もあったかな」

「美味しかったの、覚えてますから。……あ、スプーン付けてくれてる! 先輩、一緒に食べませんか?」

 保冷剤で曖昧に冷えたカップを、和泉がひとつ手渡す。

「……お兄さんがそれでいいなら、いいよ」


 相手の好意に好意を返すことは、義務ではない。礼儀とは別の話として。

 相手から好かれているから好意的にならなければならないなんて決まりはない。そもそも好意というのが、意図して作れるものではないのだ。もとが形のないものなのだから。

 もし仮に、目の前の誰かに気遣いを返したいと思うのなら、その情動こそが好意の発露とも取れる。

 目の前の人間がそんな事を淡々と考えているとは想像もしていないだろう――何の屈託もなく、誰にでも信を預ける和泉に、相容れないという実感は深まるばかりだった。

 和泉が苦手だ。「耳の利く」厄介さと同時に、性善説を心から信じているような無防備さが理解しがたいから。

「雪、どうですか?」

「朝に降っても昼には溶けるくらい。まだ、そこまでじゃないよ」

 裏表のないシンプルな善意。風見と似通った能天気に、時おり警戒を忘れそうになる。和泉の特質を知っていたから構えていられただけで、そうでなければとうに踏み込まれていたかもしれない。

 触れてくる手に害意はない。謀る悪意も裏もない。当たり前に手を差し伸べてくる、冬部と同種のお人好し。壁を意に介さない気質と聞き耳の敏さが、冬部より数段は厄介だが。

 忘れるな、と言い聞かせる。油断するな。隙を見せるな。

「冬部さん、これから此処に来たいけどいいかって」

「? 僕に聞く必要ないと思うよ」

「……先輩は、冬部さんのこと、ちょっとだけ苦手じゃないですか?」

 和泉の本質は、読み取る才だ。

 化物紛いの常識はずれ――人の中身を暴くもの。



 覇気のないドアベルが来客を知らせた。

 無人の店内で清掃に勤しんでいた雪平が、俯く紫乃をみとめる。カウンター席の椅子を引いて、唯一の客を招き入れた。

「注文か? それとも相談か」

「……どちらもで。コーヒー、カフェラテにしたいとか言っても怒りませんか」

「人の好みだろう、何を怒る」

「……そっすか、どうも」

 床を見つめたまま、誘われた席へ落ち着く。気の抜けた風船のようにふらふらしていて、好きな席を選ぶという思考すら働いていそうにない。

 使い込まれた単語帳が、開かれる気配もなく握り締められている。

「土曜なのに、学校帰りか」「これでも高校三年生なんで、受験業者のくそ難テストがノルマなんすよ」「そうか。お疲れ様」

 一人か、と聞くことはしない。紫乃が携帯している鏡の気配は感じ取れている。

 雨粒に氷が混じりだす時期だ。白ワンピースの軽装甚だしい少女が悪目立ちするのは必至であり、実体化を避けているに違いなかった。

「……すみません。やっぱりわたしは、なんにも納得できていません」

 単語帳の隙間から押し花がすり抜け、カウンターを彩る。

 花を具現化する異能――紫乃に育ちつつある不死の予兆を指で掬う。雪平の手の内で、泡のように消えた。

「ああ、そうだな。……きっと、それが正常だ」

「……わたしが死亡扱いされなきゃならないってのも意味わかんないです。店長さんやピンクのおねーさんが目いっぱいエンジョイしてんのはなんなんすか? 贔屓?」

「俺や佐倉が生まれたのは、この時代じゃあないからな」

 不死、長命。そんな言葉が紫乃に過ぎる。創作物、アニメや漫画の「つくりもの」で慣れ親しんだ言葉でも、身に降りかかるものとしては異物感が強すぎた。

 へえ、と。他人事の噂話を遠くに聞き取る相槌は横目で見たきり、雪平は棚から柔らかな色のマグカップを手に取る。

「『榛名紫乃』という人間の記憶や記録が風化するくらい先なら。どこかの街で、偽りの身分で生きることは出来る。周囲に不死を悟らせないという条件付きだが……俺達の名前や存在も、そういう代物だ」

 鬼籍に入る直前の戸籍を拝借してもいい。裏街の名前屋に用立てて貰うことも出来る。それはなにも化け物のやり直しに限った話ではなく、一般社会のはぐれものには馴染みの「抜け道」というものだ。

 砂糖は多めに。試験に加え、余分な悩みで消耗している少女への労りを込め、黒い水面にミルクを溶かしこむ。

「別人にだって成れるんだ。不死者が人間をやり直すくらいは、融通がきく」

 普段は鮮烈な珈琲の香りが、まるみを帯びて柔らかい。

 紫乃がぱちりと瞬いて、目の前に現れた優しい色合いに喜色を零した。マグカップを両手で包み、手に伝わる温もりにほっとする。

「店長さんは、やり直したくて、いま?」

「……そう、かもしれないな。多分」

「人生のだいせんぱいの話、聞きたーい……ん、ですけど。だめすか?」

「なんで弱気になった」

「や、なんとなく。すんません」

 興味があったのは本当だった。口が滑ってから思い出して、予防線を引いただけ。

「俺の目的は贖罪だから、あまり愉快じゃあない」

 他者の人生を知るということ。誰かの抱えた重さを知るのなら、相応に覚悟が要ると。


 過去の自分が犯したこと、殺してきた人間への償いだ、と――平然と続ける目の前の大人に、紫乃が無意識に、マグカップをきつく握る。

「……え、と」

「倫理が欠けていたこと。心が動かなかったこと……そうして見過ごして、殺してきたことが、あったんだ。……多分、俺が気付いていないものも、数え切れないほど」

 不当な暴力を目の前にして、当たり前の怒りを覚えること。

 見過ごさないこと。声をあげること。虐げられたものを守ろうとすること。良識としての、真っ当な。淡々と次々に積み上げていく言葉が無機質で、とめどなく、強迫観念か自責の呪いじみている。

 すべて、自分自身に刺す、非難の杭だった。

「亡くした人間に償うことは叶わない。だから俺は、また同じようなものに出逢った時、守ると決めた。手を取ると誓った。……そうすればあの死を、無駄にしないでいられる」

 聞いていられない。痛い。手の中の甘い飲み物に逃避を求めて、水面から雪平の表情をうかがう。

 心臓を軽く掴まれる圧迫感が、不意に胸を締めた。


「そうすれば俺は、忘れずにいられる」

 苦しみばかりに苛まれる中、確かに安堵が混じった理由は、なぜだろう。


「……人間として生き直せば『当然に』養われるだろう、なんて思いつきは、甚だ楽観だったがな。それは反省点だ」

「……と、いうと?」

「ああ、覚えておくといい。人間は大概、碌なものじゃない」

「あんたに言われちゃおしまいですよ見せかけ硬派め」

 紫乃が思わず口を挟み、雪平は「そうだな」と、可笑しげに笑う。

 その言葉はもう、軽い語り口に戻っていた。

「昔の知り合いに、好事家の爺さんがいてな。賭博と酒、古美術と……絵画や歌劇の類も好んでいた。人生の余剰が化けて出たような、女好きのじじいだったんだが」

「はあ。店長さんと同じ波長のお爺さんすね」

「……不死を明かした化物を面白がって、自分の隠し子として『雪平』の家にねじ込んでくれた。不死の自覚のない『雪平牧之』が平穏に此処に居られたのは、そういう、好き者の爺さんのお陰だった――」


 余分な世間話は賑やかしだ。

 中身は何だっていい。聞き流すことが意義である笑い種であり、吐露を誘う呼び水。不安な子どもに顔色を戻りはじめるのを、店主は曖昧な安堵で見守っている。

 固く結んだ唇から、冗談めいた言葉が滑り落ちる。

「一生ニートで暮らせるって、ホントですか」

「語弊はあるが、間違ってはいない」

「……お客いないのに喫茶店が潰れないのもそういう、」

「営業努力の結果だ」

「……暇なんすか? 不死者」

「遊びと名のつくものはたいてい網羅してしまったな」

「薄々そうかなと思ってたけど、やっぱりあんた結構なろくでなしだな!?」

 声を荒らげ――息継ぎがそのまま、嘆息に変わる。


 懸命に茶化していた悩みを、また笑えなくなった。

 その口ばかりは情けなくも緩んだままで、弱った声がぽろぽろ零れる。

「……いきなりさぁ、主語が大きいんすよ」

 不死の秘匿のために、人としての生を捨てる。ある組織の保護を受け、表向きは死んだ事にして、隠れ忍んで生きること。

 分かり切っている。受験と、家族と、友人と――身近なことで精一杯な高校生こどもの手に負える問い掛けではないことくらい。

「怖いか?」

「……正直、未だに冗談でしょって思ってます」

「不死なんて信じなくていい。本当に『そう』なら、そのうち嫌でも実感する」

 さらりと放られた言葉が重い。

 押し黙る紫乃へ、雪平が首を振る。「佐倉も俺も、今すぐ決めろとは思っていない」「……あんな言い方しておいて?」「本当だ。時間だけはあるからな。考える時間も、やり直す時間も。……ただ、」

 普段にましてお喋りなほど、滑らかさをつとめていた声が、不意に翳る。

「……不死を、……異端だと咎められて吊るされる前に、決断してほしい。それはきっと、お前自身の為でもある」

 その忠告を、どんな表情で口にしたのか。

 紫乃が顔を上げ――そのまま不自然に固まった。

「焦らなくていい。ゆっくり、な」

 不安が蕩ける、というより。知覚する頭ごと馬鹿になりそうだ。

 控えめな微笑の、噎せる甘さで窒息しかける。

 その顔を、営業時間は殊に顔色を変えない店主が見せたという事実にも打ちのめされる。詰まった喉に無理矢理いうことをきかせた。

「……女好きのろくでなしだって分かった上でも顔のいい男の流し目スマイルは本当に心臓に悪いです勘弁してください怖い」

「褒められてるのか貶されてるのかどっちなんだ」

「あーハイハイ色男色男……茶化さないとやってられっかちくしょう顔あっつい」

「ああ、成程な。可愛いな」

「……店長さん、最近ますますフェロモン自重する気ないっすよね。マジで気をつけた方いっすよ。こないだの女の子達、目ぇリアルにハートでしたから」

 雪平の表情が凍りついたことに、紫乃は気付かない。

 手でぱたぱた顔を扇ぎながら、胸焼けをやり過ごそうと目を逸ら――せずに捕まった。カウンター越しに肩を押さえられ、動かない。

 少女の動揺など見えていない、焦りすら滲む真顔が紫乃の間近に迫る。

 お互い、相手の状態に気を回せる余裕は無かった。

「紫乃。好きな男の名前、まだ言えるか」

「えあ"!? ……っな、なななななにをいきなり」

「真面目に聞いてる。確認だ。頼む」

 照れの余韻が無いと言ったら嘘だった。じわじわと熱を取り戻していく頬を悟られる前に白状する。

 何よりも、距離が近い。

「いずみくん、です、けど、!」

 心臓が暴れて、今にも飛び出し跳ね回りそうだ。

 即座に離れて息を整える。一命を取りとめた、という心地しかしない。


「、――頼みがあると、言ったら。……聞いてくれるか?」

 長い迷いを振り切った声が、安息を取り戻した紫乃を振り向かせる。


「ん? モノによりますけど」

「大したことじゃないんだ。……ただすこし、血を――」

 声は途切れた。我に返った雪平が、最後の理性で食い止めた。


 眉間に皺を寄せ、きつく目を瞑る。

 幾分か生気のない声が、草臥れて床に落ちた。

「……悪い、忘れてくれ。……どうかしてた」




 喫茶店を出た紫乃の鼻先を、吹き付ける風がさっと冷やした。

 身を縮める胸元で、服の下の古鏡が意味ありげに熱をもつ。紫乃が路地裏に隠れてから、相良を写した鏡の化け物が形を成した。

 寒空の下の白ワンピースは心許ない。紫乃が閃いたと言わんばかり、自身の鞄から学校指定のジャージの上衣を取出した。

「あれはきっと、弱っていますよ」

 身長が高いぶん、わずかに丈が足りない。前のファスナーを開けて誤魔化しながら、鏡は紫乃へと礼を述べる。

「あんな破壊力増し増しの流し目キメといて?」

「そこではなく」

 鏡が紫乃を指さす。

「貴方は獲物です」

「はあ」

「魅力を感じたのは誘引剤の力です。あの顔は擬似餌です」

「うん?」

「あれは死にそうなほど腹を空かせています。以上です」

「……?」

 要領を得ていない気配を察して再考した末、結論を短く告げる。

「貴方はゴキブリホイホイに引き寄せられていました」

「ねえ鏡くん他にマシな例え無かった?」

 何となく人目を避けた。鏡を呪具だと暴ける人間はまれだから、単に心持ちの問題だ。

 慣れない細道の景色を見回しながら、鏡が呆れ半分にぼやく。

「本能ゆえに無意識なのでしょうし、理性で自重なされたようなので咎める気はありません。が……そうでなければ武力介入も辞さない覚悟でしたよ」

「……えっ。鏡くん喧嘩できんの? この細っせー腕で?」

「概ね貴方の見立て通りかと。なのでまあ、言葉のあやです」

 腕をぺたぺた触られながら。締まらない絵面を気にもとめない鏡は、口元だけに薄く笑みを浮かべてみせた。

「例え慈善行為だとしても。力加減もできないほど余裕のない色魔に、みすみす貴方を渡しはしません。我が主」


「その、……主ってやつ、さあ」

「お好きでしょう」

「くっそ好き無理やめて」

「それは何より。さて、つきましてはお願いがひとつ」

 ひゅうと耳元で木枯らしが鳴って、鏡の長い黒髪が視界を覆う。


――肩を押された。

 表情の希薄な金の瞳が、警告を顕して冴える。

「逃げて。はやく」

 複数の足音が近づいてくる。


 上背の大きい男が複数、窮屈そうに路地へと押し入る。

 進路と退路の両側を塞がれた足取りは、惑い、止まった。

「見つけた」

 俯く少女の頬を掴み、無理矢理に人相を確かめる。

『――私が引き付けます。その間に、なるべく遠くへ』

『紫乃が本体を守ってくれさえいれば、私はどうとでも逃げられます』

 男の囲みの一歩外側。息を潜める紫乃からは、やり取りの細部までは聞き取れない。

 三人の不審者の隙間から、ワンピースの白さが見え隠れするばかり。返されたジャージに残る温もりに縋る。

 暴行か、誘拐か。それとも物取り、金銭目的。

 膝が震えている。がたがたと、壊れた玩具のようだった。現実逃避も楽観も成す余裕はない。思考さえ麻痺させる不安が、心だけでなく足までも竦ませる。

 恐怖から目を逸らすことが許されていない。

 御守りのように握り締めた古鏡は、逃走を急かして熱を帯びている。本体さえ無事なら逃げられると請け負った鏡の化物を、信じていないわけではなかった。

「一人も二人も変わらないと思うけど。この子も入れちゃおうぜ」

 ひときわ目立つ声が、はっきりと聞き取れた。

「別にいいじゃんか。仕事的にゃハズレだけど、めちゃめちゃ当たりっしょこの子」

「――、……余計なマネ――」

「あのチビッコ博士言ってたじゃん、違うなら帰せばいいしーしらみつぶしに連れてきてー、って。本命じゃないなら俺らに譲ってくれそうな気がしねえ?」

 少女の足の間に膝を割り込ませ、壁に押し付け逃げ場を奪う。手首をひとまとめに拘束して笑う。

 男の手が膝下から這い登り、するすると、少女の中心を目指す。長いワンピースの裾がたくし上げられ、真っ白な腿が露わになる。柔い肌に骨張った手が食い付く。

 不快を隠さない表情に、男はいっそう笑みを深めた。

「女の子一人でこんな所うろついたらどんな目に遭うか、学校で教わんなかった? かわいそうに」

「こんなとこでおっ始めんな。帰ってから幾らでも好きにやれ」

「味見くらい許せって」

 脚を嬲る手が離れ、顎を持ち上げる。顔を背けたがる抵抗も楽しんだ上で、男の膂力にものを言わせて強制する。

 嫌悪に歪む金の瞳が、不意に見開かれた。

 男が何事かと振り向いた――鼻先。


 振りかぶられたスクールバッグと、パニック寸前に青ざめている女子高生。

 ぱんぱんに参考書が詰まった立方体の鈍器が、男の顔面にめり込んだ。


「手ぇ離せ馬鹿野郎ども!!」

 男は倒れ、鼻血を流したまま動かない。

 突然の凶行に、その場の誰も言葉がない。肩を大きく上下させ、焦点の合わない目を恐怖に揺らしながら。視線を一身に集めた小さな身体は、感情に突き動かされ咆哮する。

「その女の子はなぁ、和泉君が、世界で一番大事にしてるひとだ!! ……っチンピラなんかが寄ってたかって、汚い手で触ってんじゃねぇ!! ぶっころすぞ!!」

 青い顔も、振り乱した髪も、口上の勇ましさには釣り合わず頼りない。それでも彼女はそこに居た。逃げ出したい足を踏み締め、怒るべき対象を睨めつけて。


 臆病な少女が振り絞った威嚇を、残る二人が恐れたかといえば――そんなことは全く、無く。


 彼らは沈黙のまま、少女の顔をじろじろと観察していた。「なあ、」「だよな」小声の内輪話がまとまる。

「あんた、名前は?」

「? 榛名紫乃……です、けど」

「ば、……っ!?」

 鏡が取り乱し、二人は顔を見合わせ頷く。

 彼らの選択に迷いはなかった。鏡が片方の男に飛びつくが、制止には軽すぎる。難なく振りほどかれ、見向きもされない。

「っ馬鹿は貴方だ! 彼らの狙いは、初めから――!!」

 まだ理解の追い付かない紫乃に、男の手が伸びた。


 見目ばかりの細腕は、囮にこそなれ奪還は厳しい。

 紫乃を二人がかりで抑え込む――片方が、ちらと鏡を見た。猶予は無かった。

 紫乃が落としていた古鏡(本体)を拾う。

 これを彼らに渡せない以上、逃げる手段は、ただ走ることだけ。


 息はすぐに上がった。足が思うように動かない。運動負荷など設計の外にあるのかと疑った。無い胃の中身を吐き戻しそうだ。

 季節に似合わぬ薄着、苦しげな呼吸を鳴らす少女に、奇異の視線が注がれる。声を掛けようとするものもいた。ただ、鏡には聞こえなかった。

「それ、で。……探知出来たのが、唯一、貴方の居場所だけだったんだ……和泉、」

 病室の扉を開け、把手を頼む手が震えていた。自分自身すら支えていられず座り込む。

 不自然に整わない、異常な呼吸音に気付いたのは氷崎だった。冬部に先んじて椅子を立ち、鏡の身体を病室へ収めて扉を閉める。

「……初めまして、なんて気もしねぇな。相良の嬢ちゃんよ」

 ぶつ切りの説明は、端的に要領を得ていた。事件現場の位置からして、狭間通りのごろつきが絡んだ事態だという予想も。

 冬部が少女に目線を合わせた。鏡はやっと、呼吸の仕方を思い出してきたらしい。冷や汗で張り付いた黒髪が、瞳を隠して影を落とす。

「ありがとな。報せてくれて助かった。……嬢ちゃんの話は、今すぐ北支部に持ち帰る。あとは任せてくれ」

 頷いた気がした。それで充分だ。

 氷崎にあとを頼んで上着を掴む。着る暇も惜しい。端末から当直の電話番号を呼び出してから、通話禁止に思い至る。おそらく、走った方が速い――

「……俺も、行けます。連れてってください」

 入院着にカーディガンを羽織った病人が、ベッドから降りていた。


 声が虚ろだった。病室の外へ向いた足は震えて、顔色も芳しくない。

 よろけてぶつかってきた和泉の身体を、分厚い掌が病室へ押し戻す。

「何言ってんだ馬鹿、大丈夫なわけあるか! いいから待ってろ!」

「だって俺は、助けたいから北にいるんです。……行かなきゃ、いけないんです。そうじゃないと……だから、」

 継句の代わりと言わんばかり、みるみるうちに涙が込み上げる。泣いている子供に強くも出られず、焦りと戸惑いで言葉を詰まらせ――

「冬部さん、聞かなくていいです」

 氷崎が入院着の襟首を引いた。


「行ってください。気にしないで」

「……悪い、頼む」

「そっちこそ、お任せします」

 閉じた扉に追い縋るより、氷崎が動く方が早い。

 手際よく病人をベッドに放り込んで布団を被せ、手近な窓を施錠する。厚いカーテンをひといきに引いた。

 扉を背にして逃げ場を塞いだところで、和泉がやっと布団から顔を出す。

 暗転のうちに薄暗くなった病室で、氷崎が笑顔を貼り付けてみせる。

「お兄さんのいいところはさ、無茶ができないところだよ。治りきるまで一歩も動けなくなるところ。……完治の前に動いて駄目にして、……下手に直りが早いせいで、自己診断で出て行く迷惑な人。いるでしょ? 身近に」

「……う、……確かに冬部さんは……心配だからやめて欲しいと思いますけど」

「誰かの為なんて、思わないことだよ。自分がどうにもなってないまま他人のことに首突っ込むなんて、相手にとっても負担でしかない。意地悪な言い方するけど、現場の動きにも差し支える」

 和泉には反論が見つからない。冷静な声が積み上げる理屈は、どれも的を得ていた。

 けれど今は、相手の落ち着きを直視するほど気持ちが逸る。

「それなら俺が一人で、」

「北支部はすぐに動ける。そこにいるそっくりさんに情報提供して貰えたら、もっと早いかもしれない。お兄さんの助力はなんにもいらないよ。自己満足でしかない」

 足でまとい、不要、自己満足。言葉を躊躇わない説得は、耳に痛いものばかりだ。

 笑顔が薄れ、地が見え隠れする――眉根を寄せた無表情。

 普段なら表に出さない棘だった。余分な言葉や表情は、氷崎の抑制が緩んでいる証拠。

「それをやり続けて、おかしくなった馬鹿を知ってる」

 和泉にもそれを「読む」余裕が無いことだけが、ささやかな幸運だろう。

「自己暗示なんか何の役にも立たない。そんなもの、薬と混同しないでくれないかな。外に出るのも怖い人が、どうやって助けになんか行けるの」


 外へ爪先を向けただけで、微かに竦んだ。

 氷崎の指摘はその通りだった。よく分かっている。誇らしい兄になりたいと言っておいて。人を助けられる、強い人間を目指すと嘯きながら、人一倍に怖がりで臆病な自分。

 格好がつくのは目標だけだ。その強くありたいという意志すら、一度は手放した。いまは残っているかも曖昧で、確かに有ると分かるのは、弱くて情けない自分だけ。

 胸に苦いものが滲む、――


 知っている。覚えがある。

 生まれた時から傍にあった痛み。いちばん始まりにあった気持ち。

「……ここで動けなかったら、俺は絶対、後悔する」

――無力さに歯噛みするのはもう嫌だと。その叫びに突き動かされてきた。


「……ここから出るために、力を貸してくれない?」

 協力を求めた先は一人しかない。病室の隅で座り込んだままの、愛しい妹を映した鏡。

「私は、『貴方の望む幻』だ。だから、難しいでしょう」

「……?」

「貴方の望みとは異なるそれを、『私』は受け付けない」

 声まで凍り付きそうな、あの冬の日が重なる。

 和泉に差し出された手のひらと、吸い込まれそうな瞳の色。吐息が白んだ気がした。

「私はもう一度、貴方に提示しよう。……夢への逃避を」

 和泉は未だ、恐怖に支配されている。さる日の選択をやり直して、夢想の手を取れたならと。少なからず望んでいる。

 誰にも傷付けられない場所。通じ合えない他者などいらない。

 二人だけが生きていける、静かで穏やかな世界。

「……あなたの姿が、俺の望みを映すのなら」

 鏡の虚像は、和泉の本心を包みなく晒した。どこまでも格好のつかない自分を直視させられ、一周回って笑いすら込み上げる。

 構わない。むしろ安堵した。彼女の性質が、心から喜ばしい。

「お願いします。どうか、俺に――勇気をください」

 それならきっと、この我儘は叶うのだ。

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