3

 北地区、ある公立高校の美術室で、蒟蒻こんにゃくのような悲鳴があがった。

「どしたの、次イベ告知出た?」

「え、や、へへ、あっあの、……ごめんトイレ!!」

 カンバスに向き合う部長の背を後目に、紫乃しのは「それ」の手首を掴む。部室を飛び出し、音高く締まった扉が反動で細く開く。

 レースのあしらわれた白い薄衣うすぎぬが、ちらと揺れた。


 北校舎三階、美術室最寄りの女子トイレに人影はない。紫乃がやっと手を離し、くるりと丸い金の瞳を見つめた。

 和泉とぴったり同じ高さの目線。すこしだけ見上げる。

「……あの。困りますあの……人そんな居なかったからよかったものの……」

 学舎まなびやで悪目立ちする純白のワンピース、するりとまとまる濡鴉の長髪。安岐あき相良さがらの形をした「それ」は、紫乃の困惑を瞬きひとつで受け容れる。

 和泉と全く同じ声を、硬質な低温で発した。

「貴方の要望とあらば応えましょう、我が主。ところで本題を失礼しますが」

「は? あるじ?」

「あの巫山戯ふざけた兄上殿、一体何処に御座おわします」

 和泉は、家庭の事情でしばらく欠席すると知らされている。

 複雑な家庭環境であることは知っていて、詮索は控えていた。でも、高校三年、受験生の冬が来るのに――ぽっかりとあいた空席は、もう「日常」に変わり始めている。

「……え、と。とりあえずその我が主ってやつ、やめてもらっていいですか」

「ありがとう。では、紫乃」

 存外にやわらいだ声音は、青い蕾が不意に匂わせたほころびだった。

 紫乃の頬がじわじわと火照る。当の本人は長い指を握って開き、ワンピースの裾を摘んで半回転ほど回ってみるなどしている。

「矢張り、貴方の近くは自由が利く。呼吸いきが楽だ。……和泉に話を聞いていたとはいえ、彼女を知らないから、なのか」

 紫乃の目にかかる前髪を、躊躇いがちな指先がよけた。

 身を屈め、鼻が触れそうな距離で目を合わせる。

「貴方は私を『目に映ったままに』見る。鏡を、鏡として映す。だからその目は、とても良い」

 受け流しもできない距離で、和泉と同じ顔が微笑む――逆上のぼせた紫乃が耐えかねて、その顔をぐいと押し退けた。


 昨年の冬。和泉の前から去って以来、鏡のばけものは初めて姿を見せた。

 自己紹介は手短に――「私は鏡の呪具です」と。

「和泉とは、孤児院に保管されていた所を拾われて以来の付き合いになります。ただ、彼が私、……鏡本体に映る『相良』を勝手に幻視し始めた辺りから、私という本性は、彼女の人格に侵食されていきました」

 鬼化変性の結晶物を加工した、呪力を秘める道具。人智の及ばない魔法を秘めた、誰かの奇跡の置き土産。真っ当に生きていれば、触れることすらない「怪異」だ。

 紫乃がしきりと恐れおののき、鏡は関せず話を進める。

「貴方は私を贋物と見抜いた。お陰で私は、自分が『何であるか』を、思い出せた」

「……あ、……なるほど、?」

 しきりと向けてくる礼節の理由に、紫乃はやっと見当がつく。

 鏡も鏡で「その節は大変ありがとうございました、主」と。念押しの冗談を挟んだ。

「彼は私に『双子の半身』という概念を埋め込んだ。あれ以来やっと、地雷女の毒気は抜けてきたのですが……未だ、共鳴はしているらしい。彼と、私は」

「、……感覚共有、とか。そういうみたいな?」

「そこまで高等な術ではありません。が、似たようなものではあるのでしょう――」

 血の通っているのか曖昧な足が、ふらりとかしいだ。

 咄嗟に受け止めた。鏡を抱き締める格好になる。

――文化部所属の女子高校生がゆうに支えられるほど、軽い。

「……手足が冷え切り血の気がしない。他人の吐瀉物ゲロを下水で煮詰めた嫌悪感が常時、劇物のごとく喉奥を焼く。頭がぐらぐら痛む……たいへんに、胸糞が悪い」

 低く、気怠さの滲む声。滑らかな肌から甘い香りがする。

 ひどく出来のよいアンドロイドを抱いている気分だった。実体を伴った幻想、他者の象った偶像。触れられる蜃気楼。出来が良すぎるゆえに、現実離れした感覚が拭い切れないもの。

「私は。……私の体調を良好に取り戻すため参りました。しかし、和泉がいないのでは手の打ちようがない」

「いや、和泉くんなら多分、実家で、……それでちょっと居心地悪くしてるんだとは思」

「……紫乃。はっきり申し上げましょう。前置きの冗長さは謝罪する」

 礼を短に、鏡は身体を起こす。

「このままいけば彼は、良くて廃人。そうでなければもっとひどいことになる」

 紫乃のうなじでチェーンの留め具を外し、鏡が自分の本体――大きめのペンダントを手に取った。写真を収める代わりに、古鏡が嵌め込まれた骨董品。

 白い指先が蓋を開けて、中の無事を確認し再度閉める。

「……おおよそは、南かと。……紫乃、地図はありませんか。捜索範囲は狭めておきたい」

 鏡の声に、紫乃は反応できなかった。

 催促され初めて顔を上げる。カーディガンのポケットから端末を取り出した。

「地図アプリなら……鏡くん、使える?」

「……えっと、これは……この点が現在地ですか?」

 直感的な操作を飲み込む鏡に、紫乃は一旦地図を預けた。その間、思案を再開する。


――和泉くんが実家にいるなら。廃人、どうのって……お家の、ご両親がやばいって話になる。

 和泉から、家族の話を聞いたときのことを思い出していた。

 養父母は優しい人だと聞いた。初対面の紫乃に本心を隠したわけでも、嘘をついたわけでもないことは、その後もたまに引き合いに出す思い出話からうかがえる。仮にその優しさが偽りだったなら、確かに深く傷つくに違いない。

 和泉は彼らを愛していた。前世に向ける、若干偏執的な感情とは違うけれど。

「……? あれ、は――これだ。居た!」

 養父母に敵意を向ける躊躇いは、紫乃自身の危機感の薄さで補強されている。ことが和泉の生命すら脅かしかねないものなら、何がなんでもそちらが優先ではあるけれど――

「紫乃、幸運だ。たった今、和泉の目の前に鏡がある――繋げます、」

 手洗い場の壁に掛けられた鏡面が、水の様に波打った。紫乃と鏡の顔がぼやける。


 薄暗い部屋の隅。ベッドの上で座り込んだ、生気のない身体。



「さ、みてご覧。これがいまの貴女だよ」

――なんだか、髪が長い。

 肩幅はほっそりと、華奢で薄い。くっきり浮き出る鎖骨の上に、セミロングくらい伸びた黒髪が綺麗な糸みたいに揃っている。半開きの小さな唇は薄桃色で、ふっくらと軟らかそうだ。

 鏡の向こうの知らないひとは、大きな瞳をさらに見開いて、じっと俺を見詰めていた。


 なんだ、ろ。

 これ、俺?


 涙が溢れていた。

 大粒の熱が、ぼろぼろと落ちる――「俺」というものがひび割れて、崩れて、ばらばらになったそばから零れていく。

 血まみれのまま浅い呼吸を繰り返す俺に、鏡の中の彼女が手を伸ばす。

 細い手は、俺と同一だった。

 俺と彼女の境界が消えていく。


 糸の切れる音がした。

 俺は――「俺」なんか、どこにもいなかった。鏡に映っているのは、今ここにいるのは、


――違う。

 違う。ちがう、違うんだ。言葉にはならない、なにが違うかも分からないけれど、かまわない。絶対に認めない。嫌だ。嫌だ――絶対に嫌だ!

 だってあの子は、あの子だけは。相良は俺を知ってる。「俺」を救ってくれる。俺を兄さんと呼んでくれた! だから「俺」は、俺――



――あ、




 相良はもう、いないんだ。

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