3
北地区、ある公立高校の美術室で、
「どしたの、次イベ告知出た?」
「え、や、へへ、あっあの、……ごめんトイレ!!」
カンバスに向き合う部長の背を後目に、
レースのあしらわれた白い
北校舎三階、美術室最寄りの女子トイレに人影はない。紫乃がやっと手を離し、くるりと丸い金の瞳を見つめた。
和泉とぴったり同じ高さの目線。すこしだけ見上げる。
「……あの。困りますあの……人そんな居なかったからよかったものの……」
和泉と全く同じ声を、硬質な低温で発した。
「貴方の要望とあらば応えましょう、我が主。ところで本題を失礼しますが」
「は? あるじ?」
「あの
和泉は、家庭の事情でしばらく欠席すると知らされている。
複雑な家庭環境であることは知っていて、詮索は控えていた。でも、高校三年、受験生の冬が来るのに――ぽっかりとあいた空席は、もう「日常」に変わり始めている。
「……え、と。とりあえずその我が主ってやつ、やめてもらっていいですか」
「ありがとう。では、紫乃」
存外にやわらいだ声音は、青い蕾が不意に匂わせたほころびだった。
紫乃の頬がじわじわと火照る。当の本人は長い指を握って開き、ワンピースの裾を摘んで半回転ほど回ってみるなどしている。
「矢張り、貴方の近くは自由が利く。
紫乃の目にかかる前髪を、躊躇いがちな指先がよけた。
身を屈め、鼻が触れそうな距離で目を合わせる。
「貴方は私を『目に映ったままに』見る。鏡を、鏡として映す。だからその目は、とても良い」
受け流しもできない距離で、和泉と同じ顔が微笑む――
昨年の冬。和泉の前から去って以来、鏡のばけものは初めて姿を見せた。
自己紹介は手短に――「私は鏡の呪具です」と。
「和泉とは、孤児院に保管されていた所を拾われて以来の付き合いになります。ただ、彼が私、……鏡本体に映る『相良』を勝手に幻視し始めた辺りから、私という本性は、彼女の人格に侵食されていきました」
鬼化変性の結晶物を加工した、呪力を秘める道具。人智の及ばない魔法を秘めた、誰かの奇跡の置き土産。真っ当に生きていれば、触れることすらない「怪異」だ。
紫乃がしきりと恐れおののき、鏡は関せず話を進める。
「貴方は私を贋物と見抜いた。お陰で私は、自分が『何であるか』を、思い出せた」
「……あ、……なるほど、?」
しきりと向けてくる礼節の理由に、紫乃はやっと見当がつく。
鏡も鏡で「その節は大変ありがとうございました、主」と。念押しの冗談を挟んだ。
「彼は私に『双子の半身』という概念を埋め込んだ。あれ以来やっと、地雷女の毒気は抜けてきたのですが……未だ、共鳴はしているらしい。彼と、私は」
「、……感覚共有、とか。そういうみたいな?」
「そこまで高等な術ではありません。が、似たようなものではあるのでしょう――」
血の通っているのか曖昧な足が、ふらりと
咄嗟に受け止めた。鏡を抱き締める格好になる。
――文化部所属の女子高校生がゆうに支えられるほど、軽い。
「……手足が冷え切り血の気がしない。他人の
低く、気怠さの滲む声。滑らかな肌から甘い香りがする。
ひどく出来のよいアンドロイドを抱いている気分だった。実体を伴った幻想、他者の象った偶像。触れられる蜃気楼。出来が良すぎるゆえに、現実離れした感覚が拭い切れないもの。
「私は。……私の体調を良好に取り戻すため参りました。しかし、和泉がいないのでは手の打ちようがない」
「いや、和泉くんなら多分、実家で、……それでちょっと居心地悪くしてるんだとは思」
「……紫乃。はっきり申し上げましょう。前置きの冗長さは謝罪する」
礼を短に、鏡は身体を起こす。
「このままいけば彼は、良くて廃人。そうでなければもっとひどいことになる」
紫乃のうなじでチェーンの留め具を外し、鏡が自分の本体――大きめのペンダントを手に取った。写真を収める代わりに、古鏡が嵌め込まれた骨董品。
白い指先が蓋を開けて、中の無事を確認し再度閉める。
「……おおよそは、南かと。……紫乃、地図はありませんか。捜索範囲は狭めておきたい」
鏡の声に、紫乃は反応できなかった。
催促され初めて顔を上げる。カーディガンのポケットから端末を取り出した。
「地図アプリなら……鏡くん、使える?」
「……えっと、これは……この点が現在地ですか?」
直感的な操作を飲み込む鏡に、紫乃は一旦地図を預けた。その間、思案を再開する。
――和泉くんが実家にいるなら。廃人、どうのって……お家の、ご両親がやばいって話になる。
和泉から、家族の話を聞いたときのことを思い出していた。
養父母は優しい人だと聞いた。初対面の紫乃に本心を隠したわけでも、嘘をついたわけでもないことは、その後もたまに引き合いに出す思い出話からうかがえる。仮にその優しさが偽りだったなら、確かに深く傷つくに違いない。
和泉は彼らを愛していた。前世に向ける、若干偏執的な感情とは違うけれど。
「……? あれ、は――これだ。居た!」
養父母に敵意を向ける躊躇いは、紫乃自身の危機感の薄さで補強されている。ことが和泉の生命すら脅かしかねないものなら、何がなんでもそちらが優先ではあるけれど――
「紫乃、幸運だ。たった今、和泉の目の前に鏡がある――繋げます、」
手洗い場の壁に掛けられた鏡面が、水の様に波打った。紫乃と鏡の顔がぼやける。
薄暗い部屋の隅。ベッドの上で座り込んだ、生気のない身体。
「さ、みてご覧。これがいまの貴女だよ」
――なんだか、髪が長い。
肩幅はほっそりと、華奢で薄い。くっきり浮き出る鎖骨の上に、セミロングくらい伸びた黒髪が綺麗な糸みたいに揃っている。半開きの小さな唇は薄桃色で、ふっくらと軟らかそうだ。
鏡の向こうの知らないひとは、大きな瞳をさらに見開いて、じっと俺を見詰めていた。
なんだ、ろ。
これ、俺?
涙が溢れていた。
大粒の熱が、ぼろぼろと落ちる――「俺」というものがひび割れて、崩れて、ばらばらになったそばから零れていく。
血まみれのまま浅い呼吸を繰り返す俺に、鏡の中の彼女が手を伸ばす。
細い手は、俺と同一だった。
俺と彼女の境界が消えていく。
糸の切れる音がした。
俺は――「俺」なんか、どこにもいなかった。鏡に映っているのは、今ここにいるのは、
――違う。
違う。ちがう、違うんだ。言葉にはならない、なにが違うかも分からないけれど、かまわない。絶対に認めない。嫌だ。嫌だ――絶対に嫌だ!
だってあの子は、あの子だけは。相良は俺を知ってる。「俺」を救ってくれる。俺を兄さんと呼んでくれた! だから「俺」は、俺――
――あ、
相良はもう、いないんだ。
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