4

 おぞましいものを見た。

 呼吸を忘れた。嘔気がせり上がった。息の吐き方が分からなくなりかけて、しばらく口を塞いでいた。

 息を飲むほどに美しい人形は、好きなひとの死体で出来ていた。

「紫乃! 何処に行くつもりだ、……っ紫乃!!」

 まだ遅い。一刻も早く。身体が重いのが恨めしい。追い縋る鏡に、答えてやることも面倒だった。察しの悪いそれを邪魔とすら――目的地なんか決まっている。

 助けてくれる人のところ。

彩姉あやねえ! いない!?」

 対策部に着く頃には、鏡が肩を掴むことも、顔を覗き込んで諭すこともなくなった。研究室の扉を乱暴に叩く紫乃の胸で、小さな鎖の音を立てて揺れるだけ。

「……ごめん、緊急事態だから開けるよ!」

 勢いよくドアノブが回る。鍵はかかっていない――


「っ駄目! 来るな!!」

――ばちんと音がした。力一杯、叩き落とされた。


 握った金属の冷たさが、いまさらに手を凍らせたらしい。

 指先が震える。力が入らない。

「……あ、……や、ねえ、」

「来ないで!! 絶対に開けないで、今すぐ帰りなさい!!」

 一方的な拒絶だった。子を咎める母の声。粗相をした子を叱りつける癇癪。子の言い分に聞く耳を持たず、怒りの理由も説明しない。ただ押さえ付ける為だけの言葉。

 聞き覚えのある――前なら竦んでいたはずの、暴力。

「……大丈夫。分かった、ごめん」

 不思議なほどに落ち着いていた。

 強がる必要もなかった。冷静に、次の頼りを探す足が動く。部屋の前で待つ間に休めたお陰で、さっきよりも軽いくらいだ。

 鼻先にぶちまけられた鮮烈な嫌悪が、耳慣れた恐怖に勝ったからか。それとも、頼る宛がまだ残っている余裕だろうか。どちらだろう。どちらでもいい。

「じゃあね、彩姉」

 彼を救えないものに、用はないから。


――痩せ細った手を握りたかった。

 暗い場所に一人でいる彼を、今すぐに助けたかった。涙が勝手に溢れて止まらなかった。

 どうしてわたしはこんな所にいるんだろう。

 走って、走って。この遅くて物分りの悪い足が、このまま彼のところに続いてくれたらどれだけいいだろう。帰る場所をなくしてしまった子どもみたいに怯えていた彼に、「大丈夫だよ」って言えたなら。

 昔そうしてわたしに寄り添ってくれた、やさしいひとに、どうして同じことをしてあげられない。

 いつも救われてばかりで、まだ、何も返せていないのに。


「頼む、ちょっと待て。……確かに和泉は行方不明かも知れねぇ。そん時は探して保護する必要があるのも解る。でもそれがなんでいきなり監禁だっつう極論みてぇな話になる」

 冬部の姿は訓練棟の廊下にあった。

 悪目立ちする制服姿の女子高校生を眼の前に、大きな背を丸めて視線を合わせた。泣き腫らした彼女への純粋な困惑から、威嚇もかくやというほどに悪人面を険しくして、柱の影に身を縮めている。

「見たんです、この目で。だから」

「そりゃ親との仲は良くねぇのかもしんねぇけど……紫乃、お前の話もよく分からねえ。ゆっくり、順に話してくんねぇか」

「……それは、」

 鏡は呪具だ。無許可の所持は法で禁じられている。

 違法所持者――術者の取り締まりは対策部の領分。つまり眼の前の冬部に鏡を見せれば紫乃は罰される――その証拠物件を躊躇わず引っ張り出した。

 呪具であることは視て解るはずだ。飛躍する話に説得力を与えて余る更なる非常識。人の手に届く魔法を秘めたもの。

 呪具の危険性を理解している冬部なら、信じる他にない。

「これを使って調べました。和泉くんは中央にいます」

「――中央、?」

 冬部の顔色が変わる。彼女にとっての光明だった。

「近付けば、もっと正確な場所、分かります。道案内もします……お願いです。助けに行きたいんです。力を貸してくれませんか」

 いま、信じてもらえさえすればいい――


「君の人選は大正解。そいつは結局、情に流される人間だからね。……だけど君、自分が何言ってるか分かってる?」


 凛と通る声が、陰で内緒話をする二人を振り向かせた。

 冬部の声が零れる。

「……陽。来てたのか」「お前が呼んだみたいなもんだろ。あんな借金の取立てじみた留守電入れやがって」「、……ああ、そうだったな。悪い」紫乃の視線が二人の間を行き来する。突然現れた華やかな男に、見覚えがある気がした。

 棗がこれみよがしに呆れた顔をしてみせる。

「戦力に足る駒はいくつ? 北の鼠が一匹だけ。それが規格外の図体の熊鼠だったところで、単身の特攻で出来ることなんかたかが知れてる。――敵の数は? 位置は? 目的は? 情報はどれくらい揃ってる?」

「、――んなの、……」

「答えられないならお前、そいつに死ねって言ってんのと同じだけど」

 低音の圧に射すくめられる。整っているが故に冷徹さすら覚える碧眼が、おぼろげな記憶と重なる。

 あの時も確か――飲みかけのペットボトルを持っていた。

「わざわざ泣き落としで流せそうなお人好し選んで、君のエゴの為だけに死地に突っ込ませる、ね。随分おめでたい性分だな。愉快なのは男の趣味だけにしとけよクソアマ

――宵宮の時、和泉くんのこと徹底的に痛めつけてたクソ上官、

「……っ悪魔この野郎、!」

「あいつに恩とか感じてるなら、やめとけば」

 その声が、妙に静かだったから。

 全力で振りかぶった拳をするりと避けられた一瞬の戸惑いが、紫乃の出鼻を挫いた。

 それを良しとして、滑らかな言葉が続いていく。

「シスコンが君を助けたのは、それで自分に利益があったからだ。妹探しの協力を得られるから。初期の鬼化個体なら誰でもよかった。君みたいに直された鬼はうじゃうじゃ居る」

 下手に言葉を聞かなければ――目の前の不躾ぶしつけな男に、なりふり構わず敵意を振りかざせていたなら。彼女が凍り付くこともなかったかもしれない。

「……紫乃が、元は鬼で……和泉に?」

「詳細は割愛。だいたいお前の想像通りでいいよ。……あとは、」

 冬部の制止も一歩届かず、紫乃の身体はがくりと折れた。

 意識の無い身体を慌てて受け止め、文句を言おうと見上げた先で、棗は既に次の言葉を用意している。

「お前は泣かした責任取って、そのガキ家まで送っていけ。住所は指示してやるから」

「っな、泣かせたのは俺じゃ、――陽!」

「朔」

 ひどく落ち着いた声をしていた。

 ものを茶化さない時の、この幼馴染の意図を、冬部は知っている。

人喰ひとくいの時は、飲み込めたんじゃなかったの」

――真剣そのものの、警告。


「……てめぇがそこまで言うってことは、和泉は今、本気で危ねぇってことだな」

 腹は決まった。刀を取るべきは、今だ。


 棗の眼差しが鋭利に歪んだ。通りがかった風見を捕まえ、早口で吐き捨てる。

「丁度いい。僕と朔の得物えもの。今すぐ」

「は? いや棗サン、あれ本人じゃないと持ち出せな」

「誤魔化して持って来いっつってんだよさっさとしろ」

 大男の背は、紫乃を担いだまま遠ざかりつつある――棗が進行方向へと立ち塞がった。

 人相の悪い男の睨みを難なく受け止め、涼やかな目元は一切怯まない。

「少しは冷静になれ。一人で中央に乗り込んだところで何が出来る」

「動かねぇよりはマシだ。……行けば場所は割れんだろ。場所が分かりゃ数も見当はつく。行ってから作戦のひとつでも立てりゃいい」

「単騎で現実的な策がどれだけ残る。罠だの小細工だのったって限度があるし、お前にそれ仕掛けるだけの技能があったとは記憶してないけど」

「……いいから退けつってんだろ、」

 力ずくで押し退けようとする丸太じみた腕を、逆に掴んだ。引き寄せる。

「副隊長として進言する。冬部朔隊長。……この隊の存在理由及び追求すべき利益、目的、北支部の本懐に対し、貴殿の行動及び本命令はまったくの無関係だ。著しく逸脱していると言ってもよい」

 冬部が動かなくなる――足が止まった。

 棗が早々に手を離した。目前の男の歩みを止められた安堵からではない。

「……難しい言葉並べりゃ俺が黙るとでも思ってんだろ。馬鹿にすんのもいい加減にしろよ」

 棗を掴み、技も型も無く暴力的に「投げる」つもりだったのだろう、片腕の間合いから逃れるため。


 冬部が一旦紫乃を下ろし、その身体を廊下の隅に横たえた。枷の無くなった大男が、獲物に襲い掛かる間際の獣じみた圧を醸す。

「てめぇの言いたいことは一つだろ。――『和泉を見捨てろ』。それだけだ。違うかよ」

 中央本部には、和泉を欲しがる理由がある。その命を良いように利用し、自分達の利益の為だけに使い潰そうとしていた前例がある。

 権力も智略も専門外だ。情けないことに己ひとりの強みといえば単純な暴力それ一択で、支援も得られない単騎での限界はきっとたかが知れている――だとしても。

 勝ち目が幾ら薄かろうと。何もしないうちは、その微かな勝機すら掴めない。

 もう二度と、あの子どもの命を踏みにじらせてなるものかと。覚悟はとうに決めていた。

「……なら朔。お前にも分かる言葉で話してやるよ」

 ぱしゃん、と――水音。

 冬部の短髪、顔を伝って顎先から水がしたたる。棗がミネラルウォーターのペットボトルを向けていた。

 空になったボトルが落ち、床を転がる。

「頭冷やせっつってんだよ。わいてんのかクソゴリラ」

――そんなに殴られてえんなら、望み通りそうしてやる。


「サンキューすばる。たいちょの大太刀重いしでけーし運びづれぇのなんのって」

「いいよ、これくらい。で、……今度はあの人たち何して、」

 無茶振りを完遂した風見と巻き込まれた氷崎は、このフロアから人の気配が失せている理由をようやく悟った。

「……そこまでペラペラよく喋るっつう事はよ。お前さては紫乃より早く和泉の情報掴んでやがったんだろうが。あ? なんとか言ってみやがれ」

 薄茶けた血の汚れが廊下のそこかしこに滲んでいる。何故、訓練室でなく、訓練棟の廊下を凄惨に染め上げる必要があったのか――棗を馬乗りに押さえ付け、凄む冬部の剣幕を前にしては、そんな茶々すら入れられない。

「敵の狙いは何だ。和泉は何処にいる。お前が偉そうに講釈垂れた情報だ何だって、お前は全部知った上で無視決めこんでんじゃねぇのか」

 胸倉を揺さぶると同時に、乱れた金髪が顔を隠す。頬が腫れ、唇は切れて血が垂れる。

 脱力していた棗が――冬部に思い切り頭突きを食らわせた。大きな図体の拘束から逃れ、よろめく足で立ち上がる。

「僕には僕の考えがある。お前には関係ない」

 指示通り、武具を持ってきた二人に目配せした。「寄越せ」と一言、放り投げられた刀を受け取る。

 冬部が大きく咳き込み、棗を睨む。血の混じった呼気の間から、獣の唸りに似た低音が響く。

「……そうやっていつもいつもてめぇの頭で完結して何一つ説明しねぇ、手前勝手に人のこと除け者にしやがっていつまで経っても学習しねえな。一人で抱えこみゃ立派か。てめえの頭で考えた策が最善か? 調子乗ってんじゃねぇぞ何様だ」

 どうして「考え」とやらを明かさない。その独善が鼻につく。

 明かせない事情がある、という希望も持てなくはなかった。だからこそ「人喰事件」――中央本部の上位決定で「保護対象を見捨てることを強いられた」、部外秘の圧力が働いた案件を引き合いにしたのかと。

 だがその中で、和泉の命に保証があるかは解らない。

「確かにてめぇは頭が切れる。要領がいい、大抵のことは人並み以上にやりやがる。考え無しに突っ込むよりマトモな策があるのかもな。けど俺だって、和泉を助ける気のねぇ野郎にはいそうですかって従うほど馬鹿じゃねぇぞ」

「……あんないつでも捻り潰せるクソ一匹見殺しにしたいが為だけにこんな殴り合いまでして必死になってんの? 僕。その妄想自体ちゃんちゃら可笑しいとか思わないわけ」

「俺だっててめぇが『死ぬほど和泉が嫌いだから』だけで無視決めこんでやがったとは思いたかねぇよ、そこまでガキじゃねぇだろ。でも、てめぇの和泉の嫌いようは異常だ。私情挟んでねぇとは信じ切れねぇ」

 気に入らない人間があわよくば死なないか期待しつつ傍観――するくらいならやる。

 ある男が言っていた。棗の矜恃には価値があると。例え原動力が意地や天邪鬼、虚言の類だったとしても、その屈折して真直ぐな信念が導く結果は、きっと明るいものだろうと。

「いくらてめぇの出来がよかろうと、矜持が立派だろうとな。大事な仲間ひとり守れねぇようなモンに意味は無ぇよ」

――誰かが潰れるような結末が「明るいもの」か? ふざけるな。

「てめぇは和泉が嫌いなんだろ。安心しろ、協力してくれなんて頼むつもりは更々ねぇよ」

 それきり棗に背を向けた。振り返るような未練も無い。

 風見から大太刀を受け取る。一瞬だけ、抵抗された気配があった。

「……なぁ、たいちょ。どこ行く気、」

「悪ぃな。大太刀これ、ありがとな」

 巻込むつもりはなかった。和泉を助けたいのは自分のエゴだ。

 眠ったままの紫乃の傍にしゃがみこんだ。血で汚れた作業着つなぎのまま背負うのも躊躇われ、大太刀を背中に、紫乃を両腕で抱えようとする――

「……そうだね。確かに僕は、……相手の好き嫌いで態度も違えば扱いも変わる。大概ろくでもない人間性引きずったまま大人になった糞野郎だ」


「、――――――!?」


 冬部が驚愕に固まった。思わずその――自身の性格に難があると初めて認めた気がする幼馴染を、見た。

 長い金髪で表情が見えない。刀を腰に帯び、急いた歩調で詰寄る。しゃがんだままの冬部の目前に立ち塞がり、大いに見下ろす。

「その通り。僕がここまで食い下がる理屈も同じだ。分かってんなら話は早い――そんなに聞きたいなら教えてやるからよく聞けよ、」

 乱れた前髪が揺れた。その下の表情が、見える。

 胸倉を掴んで引っ張りあげられる。冬部が見間違いかと疑った表情は、見間違えようもない距離でなおそこに在った。

「いいか。僕は絶対に、お前を死にには行かせない」

 どうしてか、一瞬。泣きそうな顔だと思った。

 冬部は知っている。この腐れ縁の男は、悪趣味な罵倒の茶々を入れずとも、信条のためにきちんとした言葉も尽くせる人間だ。

 今まで幾度となく見てきたものと変わらない。そのはずであるのに。

「行って死ぬのが決まってようと、目の前に泣いてるガキが居れば命捨ててでも助けに行く。お前はそれでいいんだろ。お前はそういうお人好しだよ。……だったら僕が構う。お前がそれで良かろうと、僕は絶対に納得しない」

 胸倉を突き放された。咄嗟の思考が回らず、強かに尻餅をついた。鈍い痛みに眉をひそめる。

「朔、現状から目を逸らすな。無謀を認めろ。特攻なんざ何の意味も無い。馬鹿な鼠が一匹、勝手におっぬだけだ。……他人守って自滅したがるイカれた綺麗事が正しいってか? 笑わせんな。そんなもん恥ずかしげもなく喧伝するお人好しが正義だ善だって持て囃されるくらいなら、僕は喜んでそのふざけた正義をお前ごと叩き潰してやる」

 冬部の鼻先に、刀の切先が突き付けられていた。

 それを辿って見上げた先。金髪の間から見え隠れする眼差し。

「僕に勝ってから行け。この刀を折って進め。……僕の感情なんか邪魔なだけなんだろ。さっさとゴミみてぇに踏みにじって助けに行けよ」

 嫌だ、行くなと、懸命に叫ぶ声がする。冬部の性根を理解しながら、それでも無理を押し通そうと追い縋る。

 確かにそれは私情だろう。いま重要なことは和泉の安否だ。北で立ち止まっていられる猶予などなく、一刻も早く中央へ向かうべきだった。けれど。

 この声を無視することも、違う気がした。

「……ほら。どうした? さっきまでの威勢はどこ行った。まさか刀も抜かず凌ぎ切ろうとか思ってないよね」

 一撃、二撃――鞘で弾き、距離をとる。紫乃の安全をまず確保して、大太刀に目を落とした。

 棗とするべきは、多分、こんな乱闘ではなかった。だから刀を抜きたくない。喧嘩を買えばそれこそ収拾がつかなくなる――視界が暗くなる。

 咄嗟に顔を上げた。

「その程度で躊躇するから――お前は甘いんだろ。朔」

――遅かった、


 風見が担架を探しに居なくなった。しかしながら、北支部の医務室で処置できる負傷かどうかは微妙なところだ。

 一通り冬部を診終え、現状は安静でよしと判断した氷崎は、同程度の怪我人に水を向ける。

「さっきその人に言ってたこと、棗さんの本音ですか? それとも」

「あ? 出任せに決まってんだろ。まさか君まで騙された?」

 嘲笑う表情は、すっかり普段の調子を取り戻している。

「善性馬鹿のお人好しがどういう言い方してやれば動揺するかくらい解ってるっての。伊達に付き合い長くないから」

「……そうですか。まあ、別に何でもいいですけど」

「それよか氷崎。闇医者だろ、とどめ刺せそうなもん何か持ってない」

「医者じゃなくて薬師です」

「薬物でもいいけど」

「その人の薬毒耐性知ってますよね。手持ちのでは無理です」

 提げていた私物の鞄から、包帯を取って棗に放る。自分の手当は自分でやってくれ、という意思表示だった。

「附属病院に引き渡したらいいと思いますよ。あそこのスタッフ基本、隊員に対して容赦ないので。その人確か脱走の前科ありますから、なおさら」

「急患多いから気い立ってんだろ。患者に当たるなっつの……でもまあ、その案は採用。ベッドに縛り付けといて貰えるよう、あることない事吹き込まないとね」

「治しても治してもすぐ新しい怪我作って戻ってくる職種なんて、苛立たないほうが無理な話だと思いますけど」

「そういう仕事だろ。『市民を怪我人にさせないこと』が存在意義で、『市民の代わりに負傷しなきゃならない』立場。……つーか、医者は治すのが仕事でしょ。何でこっちが文句言われなきゃならないわけ」

「……ああ、はいはい。そうですね。分かりましたよ」

 棗が自身の傷を手際良く処置していく。氷崎はそれを傍観したまま、

「お兄さん、危ないんですか?」

 包帯を巻く手が止まる。

 黒縁眼鏡の奥の瞳を透かして、ただの世間話のように吐かれた言葉を観察している。さほど迷うことはない。

「君なら別にいいか。ただ聞いてるだけなんだろうし」

「そうですね。聞いたところでどうもしません」

「……朔の阿呆だの榛名の妹の騒ぎっぷりは、まあまあ妥当なとこなんじゃない」

 冬部の危惧は、中央――対策部中央本部が「初期の鬼を直す装置としての」和泉を手に入れようと動き出した可能性に対する懸念だ。

 今の状況は違った。犯人は個人で、目的は和泉の監禁および独占。当然ながら中央本部にも監禁の事実を隠している。

 幸いだった。これが中央本部との協力体制であったなら、救出はほぼ絶望的だ。

 中央や各地域は互いに干渉しない。中央管轄地区内への侵攻はただでさえ困難で、その敵地で本部の頭数を相手取るのは無謀が過ぎる。

「あれは危険物だからね。庇護までしてやる理屈はないけど、監視が要る。保護と監視は紙一重で、……まあ、だから、ほっとかないんじゃない? 真実、僕達の出る幕じゃあないってだけのこと」

 中央が和泉を欲しがっているのは事実だ。北からは、中央地区内への手出しが難しいことも同様に。だからこそ、和泉が中央にいること自体がリスクになる。

 救出は早いほうがいい。既に、その為に動いている人間がいることを、棗は知っていた。

 フロアに複数の人の気配が近付いてくる。物騒な物音がしなくなったのを聞いて、訓練室を使う隊員達が戻ってきたに違いなかった。

 気配と反対に棗が歩き出す。氷崎の横を通りすがる。深手の傷だけ応急処置を終えてはいるが、満身創痍であることは明らかだ。

「その怪我で行くつもりですか」

「何処がだよ、擦り傷だろ。……文句あんの?」

「特に何も。どうぞ?」

 笑って道を譲る。棗の表情が微かに引きつったが、返答はない。


 不意に棗が立ち止まった。

「、――そういえば。ずっと聞きたかったんだけど」

 氷崎が怪訝に顔を上げる。

 軽く半身を引いて振り向いた棗が、氷崎をじっと見ていた。

「君、ずっとあいつのこと『お兄さん』て呼ぶよね。なんで?」



 慣れた手で端末を持ち替える。

 コールは二回。いつも几帳面に同じ間合いで、機械の女が応答する。棗が口角を上げた。

「――ああ、羽住。僕だけど」

『いい加減名乗れ愚か者』

「くどいね。君、間違えないだろ」

『……それで、何だ。此方も多忙だ、手短に頼みたい』

 薄明るい暮れの気配は街を包み、帰宅途中の学生や背広姿が目につく。

 北支部を離れ、街の曖昧な喧騒に分けいる。疎らな人影が各々に歩く道の中、目に触れる負傷を包帯と衣服で隠して、何食わぬ顔でその内に紛れる。ひと所に目的地を定めて歩き出す。

「計画の完成度相応に協力してやるから、救出作戦の概要を話せ。三分」

『……理解し難いな。作戦への招集を真っ先に拒否したのは、貴様だったと記憶しているが?』

「気が変わった。中央に縁のある僕がいた方が便利だろ。泣いて喜んで頭を垂れるのが正解だと思うけど?」

『その最適人選及び計画の中核たる人間が早々に作戦を降りた事により、現状、大幅な軌道修正を余儀なくされている。これを主因としたここ数日の過重労働に対し一体何を以て補填とするつもりか問い質しても構わんな』

「生命までなら賭けてやるよ」

 無機質な応答が途切れる。微かに、息を呑む音がした。

「状況によっては、今夜。即日決行でカタをつけてやってもいい。まだ不満があるなら交渉も受け付けますよ、指揮官殿?」

『……承知の上だろうが念を押す。貴様の役割は、救出の実行部隊ではない。何を勇んでいるのか知らないが、そこまでの献身は些か目に余る』

「鎮静化させたゴリラがまた暴れ始めるまでに済ませなきゃならないからね。始動が早いほど、僕に都合がいいだけだけど。何て言った? 献身? 過労で判断力落ちてんじゃないの?」

 空から夕陽の明かりが薄れていく。鮮やかな茜色は温度をなくして灰がかった薄青へ移ろい、遠く向こうから深い藍が迫ってきている。

「確かに僕は、あのシスコンに死んでもらった方が嬉しい。協力は不本意。――だけど、」

 澄みきった黒の気配が、凪いだ夜の訪れを予感させる。

 街が夜に潜っていく。疎らな街灯に、弱く明かりが揺れはじめた。

「対価があいつだって言うんなら、割に合わないにも程がある。それだけ」

 今夜はきっと、星が見える。

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