2

 神さまに会ったことがある。

 つい先日のことだった。普段、過去の追憶と回顧で終わることの多い夢は、その日はどこか、造花のように冷えていた。

 自分という意識があり、夢という自覚がある。思い通りに動くことが出来る。

 ぼやけた輪郭の街角で、無人の景色を見つめる。奇妙な明晰夢のただ中にいた。

「こんにちは。夢で会うのは初めましてね、和泉くん」

 現れたそのひとは、不思議と表情が見えなかった。

 頭があり、胴と四肢が揃っているのに、顔だけは認識できない。昔に面識のあった誰かにも、今まで出会ったことがないほど美しいものにも見えた。

 それは女神を名乗った。

「幼い貴方の記憶を封じていたのは、わたしなの――」



 窓も、鏡も無かった。

 馴染みの生活リズムが時計代わりになったのは初めだけ。日の出も時刻も一切が分からない暮らしで、時間感覚はすぐに見失った。

 暗さに慣れれば不自由しない程度、部屋は常に薄暗い。

 かたかたと換気扇の回る音がする。けれど何処かは解らない。

「おはよう、和泉」

 四肢に繋がれた枷と鎖は、換気扇の所在を探せるほどの長さがなかった。

 何度目か数えてもいない朝は、薄暗い部屋の隅に置かれたベッドの上。

 変わり映えしない目覚ましの言葉は、変わり映えしない日課が始まるしるし。

「先祖返りだってこと、どうして隠してたの。もっと早く知っていれば……いや、私は一般人だけどね? ……これでも一応、中央対策本部の研究職だとね。耳に入ってしまうこともあるという話で」

 彼女は朝食をテーブルに置き、ワンプレートにまとめた昼食と夕食をそれぞれ冷蔵庫に仕舞って、三度の食事を指示する。食事内容は厳密に決められていて、自由に飲めるのは水だけ。

 一日の注意事項を伝えられながら、注射をされて、身体を拭かれる。

 大人しく、黙ってさえいれば、痛いことはされない――

「……っ、!」

 触れ方が変わる――鳥肌が立つ。

 拭く意図ではない。触れて、蹂躙じゅうりんする意図だった。拷問の始まりは肌で解る。触れられた瞬間に寒気が走る。

「初めて」をされた時から感じ取っていた。

 こそばゆい感覚が虫のように肌を這う。熱の痕が残る。刻印のように消えない。身体が勝手に跳ねて、逃げる。身を捩って暴れる。

 自分でも抑えがきかなかった。触れられた瞬間、反射で拒絶してしまう。

 逃げられやしない。手枷も鎖も緩まないと解っているのに。がちゃがちゃと耳障りな金属音ばかりを響かせる。

 抵抗する度、彼女の笑顔は深くなっているように見えた。

 訳がわからなかった。涙で目の前が歪む。声が出ないよう唇を噛む。

――きっと。さっきよりもっと、嬉しそうにしているんだろう。

『前世というのは、呪いだよ。生者が囚われるべきものじゃあない。……自分の記憶との齟齬そごに苦しんで、ずっと、無理をして笑っていたんだろう? 気づけなくてごめん。大丈夫。君にかかった呪いは、私が取り除いてあげる』

――触られたくない。逃げたい。嫌だ。情けない。恥ずかしい。泣きたくない。見たくないし聞きたくない。喜ばせるような反応なんか、ひとつも返したくないのに。

 喜ぶ意味がわからない。理解できない。

『君は、女の子であるべきだ』

「君はほんとうに可愛いね。和泉」

 本当に、気持ち悪い。



 俺が思い出したこと。相良と俺は、きちんと双子だったこと。

 同じ血を分けた。同じ日に生を受けて、両親の顔も知らないまま一揃えで捨てられた。ずいぶん山奥の施設、身寄りのない子どもが集められたそこに、俺達も混ざっていた。

 俺の隣にはずっと、俺と同じ顔をした女の子がいた。

 はじめ、誰の隣にもいると思っていた「自分のもう半分」は、ほかのどの子の隣にもいなかった。皆はひとりで、俺はふたり。

 ふたりでひとりが当たり前だった。

 何の疑問も抱かなかった。皆が皆であるみたいに、俺は「そういうもの」だったから。

 この子のことを――俺の半分を、相良を。絶対に離しちゃならないって。俺は、誰に教わらなくても知っていた。

 

「相良が望んだ……って、そんなはずない! なんで相良が、俺の記憶を消してほしいなんてこと!」

「……教えてあげたいけど、教えてあげられない。妹さんは、……」


 十年前。鬼化した施設の男の子が暴走した虐殺事件。

 鬼の腕が、相良のお腹を刺し貫くその間際、「俺」は蘇った。


――閃いた、鮮やかな「前世」の記憶。

 刻々と生気が抜けていく、魅入られそうなほどに綺麗な、相良じぶんの死体。

 真っ白な耳鳴りの音、甘い花と鉄の匂い。噛み締めた唇の血の味。頭の内側なかみを塗り潰す、白っぽく鈍い痺れ。出鱈目でぐちゃぐちゃな感覚が、一瞬で、自分の中身を掻き乱した。


 俺は。

 妹を――じぶんを、護らなきゃ。


 立派な理由なんて無かった。

 呼吸と同じくらい当たり前のこと。自分の生存のための防衛本能。

『大丈夫。今度こそ俺、相良のこと、守れるよ』

『だから、どうか――』

「妹さんが願ったのは、死の淵でのことだった。理由は彼女にしか分からない。……鬼を手に掛けた記憶を、貴方に残したくはないって」

――最期に見るなら、笑顔がよかったなあ、なんて。


 孤児を集めた施設で起こった、凄惨せいさんな事件の顛末てんまつ

 生き残ってしまったのは俺ひとりで、犯人を殺したのも俺だった。死も覚悟して刃物を突き立てたのに、結局のところ死に損なって。

 いちばん大切な人は救えずじまい。

 俺がずっと知りたかった真実は、それだけ。

「鬼を殺した記憶は、貴方の人生に影を落とす。妹さんの願いの動機は、それで充分だったんじゃないかしら」


 ごめんね。相良は俺の幸せを望んでくれたのに。

 でも俺は、覚えていたかったよ。どんなにつらい終わり方でも、相良と過ごした大事な記憶を忘れたくなかった。その道が行き着く先が、明るいものでなくたっていい。

 それは「俺」が選んだことだ。

 相良を守りたかったから、俺は彼を殺した。初めて命を奪った恐怖より、相良を傷つけたものを、もっと傷つけそうなものを排除できた安心の方が大きかった。

「……なのに、なんでいなくなるの……相良のばか、」

 俺の将来なんてものより――俺は、生きているあなたと一緒にいたかったよ。

 相良じゃなくて、俺が女神さまに逢えてたらよかった。そうすれば、相良を助けてくださいって言えたのに。相良もそれを、願ってくれたらよかったのに。

「……妹さんは、兄である貴方の幸せを一心に願っていた。貴方を孤独にしたかったわけでも、不安にさせたかったわけでもない。それだけは誤解なく伝えさせて。それが、妹さんの願いを聞き届けたわたしの義務」

 泣きじゃくる俺を、女神さまが抱き締める。

 陽だまりみたいに優しい声が耳に残る。

「妹さんは、過去を受け入れて前に進む貴方を応援してくれていると思う。あなたが望んだ夢を見つけて、憧れを叶えることを、一番に喜んでくれると思うわ。

 私も、貴方のことを見守ってる。死者の繋いだ縁だけど、私も貴方のこと、応援していたいと思ったから」

 細い絹糸の声が絡みついた。寄せては返すさざなみのように、暗示の言葉を植え付ける。

――俺の憧れを、叶える。


 北に残って、目指したいみんなの背を追いかけたい。誰かを守れるくらい強くなりたい。冬部さんみたいな、覚悟のある、格好いい大人になりたい。

 相良にいつでも胸を張れるお兄ちゃんを目指す――


「高校と北支部、連絡入れておいたよ。ちょうど三年生だし、春から中央の大学に通うのもいいと思うんだけど、どうだろう?」

 彼女の笑顔は、和泉からしばらくの呼吸を奪った。

「……え、」

「しばらく休んでるから、心配されてるかなと思って。でも、もう北に戻る必要はなくなったと思う」

 心臓が嫌な音を打つ。何を、どこまで奪われたのか。問い質したい気持ちと、はっきりさせたくない恐怖がせめぎ合う。

 学校を辞めさせられたのか。

 北支部は除隊だろうか。

 住んでいた部屋も、引き払われてしまっただろうか。

 北の居場所を全て奪われていたら、どこに戻ればいい?

「ただ、北支部はなあ。……隊長である冬部の許可が要る。彼の捺印がされない限り、辞めるのは難しい」

――冬部さんなら、気付いてくれるかもしれない。

 瞳に星が灯るのを、従姉は察知している。

 掃除の手を止め、和泉が拘束されたベッドに近づく。逃げる身体との距離を詰め、絵本でも読み聞かせる柔らかな声で逃げ場を断つ。

「各支部も中央も相互不可侵みたいなものだからね。領域内は各支部の管轄下、他所の支部は文字どおり『余所者』。……北は中央ここには手出しできない。助けを期待するのは、和泉が悲しくなるだけじゃないかと思うんだけれど」

 ベッドのスプリングが軋む。鎖の音が響いた。

 背けた顔を両手で包まれる。

「彼だって、組織の人間だ。それは分かっている?」

「……冬部さんなら、助けに来てくれる」

「ふうん、随分信頼されているみたいだね。……嫌いだなあ、そういうの」

 笑みが威圧を含んで歪む。和泉の呼吸が詰まった。

 部屋の暗がりが迫ってくる錯覚がする。


「二年前、人喰い事件。冬部は君を生贄にする作戦を呑んだじゃないか」


 一瞬だけ息を忘れた。

 口を、開く――だって。それは。

「……そんな男の隊に自ら志願したと聞いたから、私はとても驚いたんだ。自分を一度見限った人間に、どうしてまた、命を預けようという気になれる?」

「違う! ……っ冬部さんは、俺を助ける方法を探してくれてた!」

 すくみそうになる。彼女の機嫌が目に見えて悪くなるのがわかった。

 それでも、引きつれた喉から声を絞り出した。譲りたくなかった。

「冬部さんは優しいんです。嘘をついたままのずるい子どもが助けを求めた手を、不誠実をされてるって解っていても、迷わずに取ってくれた。命がけで戦ってくれた。……ぎりぎりまで、俺の命を救える方法がないか考えてくれた。だから俺は、!」


「それで?」


――たった一声で萎縮する自分は、ひどく弱弱しいものになってしまったと思った。


 大事な人を侮辱されて引き下がったことが、信じられなかった。

 自分がそんな人間になってしまったと認めたくなかった。数え切れない恩のある相手に不義理しか返せないのかと、焦りと自己嫌悪で頭が埋め尽くされる。

「それでその男は、見事、お伽噺の王子のごとく。君というお姫様を救えたのかい?」

『もう少し、考えてみてもいいんじゃねえのか?』

 正隊員になりたいという希望に、渋い顔をしていた。

 学生隊員のまま辞める意思があると聞けば、頷くかもわからない。

 涙が出そうな想像ばかりに傾く。目の奥が熱くなる。鏡が無いから分からないだけで、ここにいる間、ずっと泣き腫らした顔でいてばかりな気がした。

「でも、一理あるか。冬部が金で雇った狭間通りの破落戸ごろつきで、人喰鬼が退けられたのは事実……それ以上余計なことさえしてくれていなければ、私だって素直に感謝だけ出来ていたのだけど。……だからね、和泉」

 透明な染みが落ちるシーツから、目を合わせ「させられる」。

 彼女しか、見えなくなる。

「『俺』、じゃない。……『私』でしょ?」

 一瞬、何を言われたか分からなかった。


「え、なに、……お、れ」

「違う」

 声色が失せる。恐怖で背が凍る。

 少しして――嘘のように柔くほころんだ声が、またひとつ、枷を増やす。

「わ・た・し。だろ? ……さ、言ってごらん。駄目だよ和泉。その一人称は『間違い』だ。次は許してあげない」

 和泉の唇が震える。

 息苦しそうに何度か開く口は、おかで息絶える寸前の魚に似ていた。

「……わ、たし、」

「うん、お利口さん」


 不安になることが増えていた。

 気分の浮き沈みが激しくなった。突然意味も無く大声をあげたくなる。ベッドや壁をめちゃくちゃに殴りだして、手が痛くなってもやめられない。何の予兆もなく涙が溢れて止まらなくなる。食事を何も受け付けなくなる時期がある。

 突発的に、死を選ぼうと考える。舌を噛みきれないか試したし、手枷の鎖を首に巻いたら死ねるのか考えた。身体に痣を作ったせいでひどく怒られて、それからは、恐怖で動けなくなったまま。

 想像する時間が増えた。北にはもうどこにも、自分の居場所は無い。冬部もとっくに、自分を辞めさせる書類に捺印してしまっただろう。学校には戻れない。きっと部屋も引き払われている。

 この場所からは、北にも、警察にも、声なんて届かない。

 異変は全て誤魔化されてしまっている。誰にも気付いてもらえない。助けも来ない。

 どれも泣きそうになる空想ばかりで、気分は日増しに塞いでいった。どこにも行けないと思った。そうとしか思えなかった。

 逃げようと考えることなんて、とっくにやめた。


「君は、……ほんとうに、綺麗だね。和泉」

――この人、どんなひとだったっけ。

 顔が見えなくなった。女神さまの出てきた夢に似ていた。顔の部分だけが塗りつぶされたみたいに認識できない。

 夢の中と違うのは、記憶の中のその人も同じように、もう何だったかわからなくなってしまったこと。

「おばさんの家と縁があったのは、君を守る為だったんだろうな。だからね、いくら嫌がられても、和泉を美しく保つのは私の義務なんだ。……ああ、そっか。くすぐったがりだものね……っふふ、ごめん。反応が可愛くて、わざとそうなってたかも」

 何も聞きたくなかった。

 かけられる言葉を理解するのはやめた。本当は耳にも入れたくない。

 触れられるのが苦痛だった。触れられたくないところまで、自分でも触れたことのないところまで撫で回されるから。

 嫌でも漏れる声に、満足げな顔をする。その度、自分の声が大嫌いになりそうだった。

 か細くて、弱くて、震えている――女の子みたいな、声。

 そのうち、声が掠れて出づらくなった。少しだけ気が楽になったけど、日課は変わらなかった。声にならない声が出て、涙が溢れる向こうに、輪郭の歪んだ笑顔を幻視する。

 唇を噛む癖ができてからは、綺麗なハンカチを噛まされるようになった。


 食事を残すことが増えた。点滴を繋がれた。

 注射の本数が増えた。知っているものの回数と、知らない注射が一回、それぞれ。

「新しい注射? 栄養剤だよ。君が食事を摂ってくれなくなったから」

「……うそ」

「……あれ、鋭いね? ああ、……そういえばそうか。和泉は、嘘には敏感だものね」

 順に注射を打ちながら、あの人の声が弾む。

「ずいぶん昔だけど、覚えてるよ。夏祭りの夜、怪しい大人に拐かされそうになっていた私を、和泉が真っ先に見つけてくれた……町内会の大人だって言い張る不審者に『嘘はやめてください』って、助けてくれた。

 それほど親しくなかった私のために、和泉は、 大人に立ち向かってくれた。

 ……誰にでも分け隔てなく優しくて、気丈で、汚い嘘や偽りなんか一切通じない。穢れひとつない純白が、誰より似合う女の子。……そんなの。天使みたいだって思ったよ」

 ひらひらと、目の前を手のひらが動いた。

「ぼんやりしてるね、可愛い。さっきのもうわごとなのかな……それでも嘘はわかるんだ。不思議だな」


 やっと形を持ち始めていたものを、あの人はやさしくすくいあげた。

 ひとつずつ丹念に、丁寧に触れ――なじってなぶって甚振いたぶってけがしてしいたげて。

 優しい指先の限りで、ぷちり、ぷちりと、ひとつ余さず「俺」を潰す。俺が思っていたよりもずっと、しゃぼん玉の虹色の薄膜よりずっと、ずっと――脆かった。儚かった。

「俺」と呼べそうなものだって、まだほとんど、無いのに。


 どうして、あんなに愛おしげな声を吐きながら、そんなことが出来るんだろう。

 わけのわからない感情それの中味を、俺は、理解できない。


 許容できない感情があることを、初めて知った。

 受け入れるには、俺が壊れるしかない。


 つまりそれは、奏者としての欠陥だ。

 母さんのような歌姫にはとても届かない。数多の感情を美味しそうに飲み干して、全てを御しては悪戯っぽく笑ってみせる――あの魔法には――敵わない。

 数えきれないほどの人に寄り添って、その手を引きずりこむ。魅了して誘う。連れていく。一夜の舞台にせもの記憶ほんものに刻み込む、残酷な極彩色の魔法。

 解っていたことだった。俺ひとりじゃ、不完全だ。

「……さがら、……」

 俺の半身。俺の一対。世界で一番だいすきなひと。

 相良だけが俺を救ってくれた。「私」じゃなくて「俺」を、本当の心の形を理解してくれた。側にいて、生きてていいんだって肯定してくれた。

 相良さえいてくれるなら満ち足りてる。俺は俺でいられる。生きていける。


 あいたい。

 だいすき。

――ごめんね。



 たすけて。

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