第6話 魂喰み
──息が出来ない。
光は大きく口を開けて、少しでも多く息を吸い込もうとする。
足をばたつかせても、父に何のダメージも与えられない。
指で力の限り引っ掻いても、腕を掴み返しても、光の首を絞める父の手を、払うことなど出来なかった。
弟たちは気を失っている。もしかしたら、頭を怪我したかもしれない。
「クソガキの心配か?」
父は光に問いかける。光は涙の滲む目で父を睨んだ。
「すぐ死んじまうよ。あんな弱っちい奴ら。良かったなぁ。お前もすぐ死ねるぞ。心配なんていらねぇだろ」
光は父を睨みつけた。とにかく睨みつけた。
自分に出来る抵抗はそれしかない。
もがくのも息をするのもやめて、自分が死ぬまで父を睨もうと決意した。
父はそんな光に青筋を立てる。
「てめぇ、親父を睨んでんじゃねぇぞ!」
光は何も考えず、ただひたすらに自分が死ぬまで父を睨みつけた。
視界が霞んできた。
……ふと、父の側頭部が誰かに蹴られた。
首が折れる勢いで蹴り飛ばされ、父は壁に叩きつけられる。
光は肺いっぱいに空気を吸った。
上手く吸えずに咳き込んで、苦しかった首を押さえる。
「下がれ。人間の出る幕なぞない」
光の身体が浮き上がる。
すぐ後ろに投げ飛ばされたかと思うと、「おぉっと」と驚いた声がして、玉梓が光を受け止める。
「え、玉梓……さん!?」
「あいすみません。うちの神様が」
玉梓は困ったように笑って、タマバミを見つめる。だが、何となく嬉しそうにも見えた。
「さあさあ、ご覧あれ。これより先は、神の領域。悪しきを喰らいて、善きを導く。悪人退治専門の、神のお成りである」
玉梓の言葉の後に、タマバミはニヤリと笑う。
左耳のピアスにちょいちょい、と指で揺らし、喉から低い唸り声を出す。
その瞬間、タマバミは姿を変えた。
白い着物は真っ黒に、艶のある赤い下駄はブーツのように。
ピアスがどろりと溶けだして、狼の鼻先のような面に変わり、頭には立派な角が生える。
ガタガタと震える父を睨み下ろす、真っ赤な
「ひっ、ヒィィ!」
父は情けない悲鳴を上げて、逃げようとした。けれど、タマバミが父の前に立ち、父には部屋の隅にしか逃げ場がない。
……どうやって逃れられるだろうか。
「汝、
「な、なんで俺の名前知ってんだよ! 化け物が!」
「己の働きもなく、酒を浴び、日常から子供に暴力を振るう、怠惰な愚か者。そして
「だ、だからなんだって言うんだよ! 自分のガキなんだ! 何したって、お前に文句言えるわけねぇだろうが!」
父の言い訳に、玉梓はため息をついた。
「知らないのですね」と、呆れたように肩をすくめる。
「『悪事、身にかえる』……悪事を働けば、相応の行いが返ってくるのですよ。嗚呼、可哀想に」
「玉梓、思っておらぬことを」
「おっと、気をつけましょう。さあさあ、光さんはこちらへ。危ないですからね」
「な、何をするんですか?」
光は状況が読み込めないでいた。
玉梓は「ああ、それは」とタマバミの方を見る。
光もつられてそちらを向いた。
タマバミは怯える父に向かって大きく口を開けた。
狼の面がぐあっ! と開く。
悲鳴を上げる父の胸から、青い火の玉が抜け出して、ふわりふわりと宙を漂う。
そして、タマバミはそれを、ひと飲みにしてしまった!
光は悲鳴を上げそうになるが、ぱっと口を手で塞ぐ。
玉梓は「驚きでしょう」と薄らと笑う。
父は壁から落ちるように倒れて動かなくなる。
タマバミは、もぐもぐと火の玉を味わうと、変化を解いた。
変化を解いたタマバミは、袖から一本のロウソクを出した。
それに優しく息を吹きかけると、ロウソクに火が灯る。
「玉梓」
「はいはい。社に置いておいてもらえますかな? 後は私が管理致します」
「うむ」
タマバミはロウソクを持ったまま、ふらりと居間を出る。
その時、光と目を合わせると、光に噛み付く振りをした。
光は「ひっ!」と小さく悲鳴を上げる。
タマバミは満足そうに家を出ていった。
ロウソクは面白いことに、振っても下に向けても火が消えない。
「さぁて、もうじき悲鳴を聞いた方々が駆けつけるでしょう。私も、お
「あ、待って!」
光は玉梓の服の袖を掴む。聞きたいことは山ほどあった。
「あの、タマバミ様は、父に何をしたんですか」
「えぇと、ご覧になったとおり、魂を食べたかと」
「魂!? 食べたって、父は死んだの!? タマバミ様って何の神様なの!?」
「……ああ、そういえばそうでしたな。ふむ、なるほど。そうですねえ」
玉梓は少し悩むと、ニコッと笑う。
「『人魂を喰らいて神力を高めたもう』──短くも、これが人を殺す呪詛であり、タマバミ様への
魂を喰らう神、ゆえに
あの方は信仰より生まれ、信仰に捨てられた
玉梓の答えを聞くと、光は袖から手を離す。
恐怖を抑え込むように、光は腕をさすった。
玉梓は何かを察すると、光の耳にそっと囁く。
「ご安心を。タマバミ様のあれ、ただの邪気祓いです。あの方は、善とも悪ともなれぬ方ゆえ。どちらの神力もございまして」
光の不安を拭うと、玉梓は「ゆっくりお休みを」と、タマバミの後を追う。
光は家の外で、ぼぅっと、立ちすくんでいた。遅れて人の騒ぐ声が聞こえてきた。
「救急隊です! 悲鳴が聞こえたとの事で来たんですが!」
「おい待て! この子、首にアザがあるぞ!」
「本当だ! 警察を呼んだ方が良いかもしれない。君、名前は言えるかな?」
光の周りは驚くほど早く事を片付けていく。
光は救急隊に毛布をかけられ、弟たちはストレッチャーに乗せられる。
これが、タマバミの力なのかと、光は大粒の涙を流す瞳で周りを見ていた。
あの背中はもう消えた。
……もう、傷は増えない。
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