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ゆっくりと開けられた扉の内側には、何冊もの、紐綴じの本が重なっていた。
「もっと簡単だと思ったのに」
トランはいくらか、うんざりした顔をした。
「この中から探し出せってさ」
アミが1冊、手に取ろうとすると、アパラチカが前に出てきた。
「ちょっと待って!」
「どうしたの、アパラチカ?」
トランが尋ねると、アパラチカは落ち着かない顔をした。
「真名なのよ、トラン。だれに見られてもいいか、自分で決めたっていいじゃない?」
アパラチカの発言は、その場の空気を重たくした。
「ああ、そうだね」
それでも、トランは同意した。
「その重さは理解しないといけなかった。だけど、頼むから、1人でここから探し出すなんて、言わないでくれると、助かるんだけど」
「ええ、もちろん……ええ」
アパラチカはうなずいた。
「あなたに見られるのは、構わないの。ただ……」
アパラチカが見たのは、やはりアミだった。
「わかった。わたしが見なければ、いいんでしょう?」
アミはさっと後ろ向きになった。その場でふて寝してやろうかと思ったが、さすがにそれでは大人げないと考え直す。姿は中学生でも、アミは21歳だ。
「まあ、そうなるか……わかった。だけど、どっちにしても、この量だと、全部、ここで見終えるのは難しいよ。いったん、僕の家に戻ろう。それなら、一応、休む場所もある」
ここまで大変な思いをしてきたのに、またここでのけ者にされた。金庫を放置して中身だけをスーツケースに詰める間、アミは1人、考えを巡らせていた。
真名を見つけるための手伝いは、ほとんど済んだも同じだった。あとは、トランの家に戻り、3人が名前を見つけ出して、アミはただ、それを待つ。ヴァーミアとの戦いは、アパラチカが真名を見つけ出しさえすれば、有利だと言われている。そうしたら、ひどい顔を治して、日本に戻り、就職活動を再開する。
本当にそれでいいのだろうか。アミは、自分の心の中に、引っかかりを覚えていた。アパラチカとの関係があまりよくないまま、自分をいじめる実家の父親と再会する。せっかく仲良くなってきたのに、トランと離れて、明らかにみんなから遅れを取ってしまった就職活動をする。
いや。アミは否定する。後期の授業にまったく参加できていない。まだ帰れそうにない以上、学校で落第を食らう可能性が高かった。たとえ落第しなかったとしても、ゼミの成績は可になってしまうだろう。就活のプロフィールも未完成で、この時期について、どう言い訳をすればいいか、見当もつかない。落第すれば就活も1年遅れるし、そうなれば、余計に長い期間、家族と同じ場所で過ごす必要が出てくる。
アミは泣きそうになって、思考を中断する。ちょうどパッキングも終わったところだった。
「さあ、行くよ」
トランに促されて立ち上がる。
ココヤシ畑を抜けて、トランの家に向かう。村は一見すると穏やかだが、小さな島にしては、やけに賑やかだ。咲き乱れていた花の一部が、枯れ始めているとか、それだけの問題ではなかった。
人の移動だ。いつもは穏やかで人通りの少ない村を、あちらへ、こちらへと急ぐ人々の姿が見受けられる。村祭りでもあるなら、構わないのだが、どうも人々の表情は暗い。
「何かあったんですか?」
トランが年配の男性に声をかける。だが、男性は慌てふためき、怯えたような表情で、何も言わずに去ってしまう。
「変だな。何か様子がおかしい」
それでも家に向かうしかないトランは、先を急いだ。アミたちもついて行く。
トランの家に向かう道にさしかかったとき、カイルが現れた。
「トラン! 大変だ!」
「カイル! 何があったんだ? みんな、様子がおかしいけど」
「お前の家だよ。帰らないほうがいい。あそこは今、幽霊屋敷になってるんだ」
「は?」
トランは啞然とした顔をする。
「ああ、こんな言い方じゃ、伝わらないか。ヴァーミアが変な魔法をかけたらしいんだ。お前の家に入れないからって、家の前で死者の霊を呼び出して、大量に送り込んでるんだ」
「何だって!?」
「要するに、家に入れないようにしてるんだ。もう、ひどいもんだよ。見ないほうがいい。とても見られたものじゃないから」
トランががっくりと肩を落とすのを、バートが見てすぐに支えた。
「トランさん」
「ああ……」
トランの家には、まだ大量の薬品もあるし、アミたちに見せていない部屋もある。アミは思わず身震いしていた。もし自分の家に帰って、その部屋に入れないとわかったら。そこにあったすべて、自分の持ちもののすべても捨てないといけなくなってしまったら。
「だれか対処できる人がいればいいんだけど、どうしたらヴァーミアの魔法を解除できるか、だれにもわからなくて……」
カイルは申し訳なさそうに言った。
「……もういい、わかったから」
トランはそう言うと、進行方向を変えた。
「どこに行くんですか?」
「船だよ。家以外に、拠点になるのは、あそこしかない」
「トラン! もう既に家を建てる計画は進んでるんだ。村の中心部に新しい場所を用意してある。村の政府がこれは災害だからって言って、資金を出してくれてるから」
「ああ」
トランはまだ完全に立ち直った様子はない。それでも。
「政府にお礼を言っておかないとな」
そう呟いて、トランは再び歩き出す。
「建築の計画が進んだからって、すぐに家が建つわけじゃない。しばらく時間がかかるだろうさ。それに、大事なのは家そのものより、あそこにあった薬品なのに……」
粉末揚素は、スーツケースを持ち上げたせいで、かなり残りが減っていた。トランが補充したいのは、当たり前だった。
「粉末揚素なしで、ヴァーミアと対峙しないといけないか。これがどういう意味かわかる? 僕は弱点となるもう片方の脚を、相手にさらして戦わなくちゃいけないんだ。そこを押さえられたら、僕は逃げられなくて、相手のなすがままになるんだ」
「買えないんですか?」
アミはダメ元で訊いてみる。
「言ったはずだよ? アルテン桃色蝶からしか採れないんだ。あの蝶は生きる期間が短くて、実際に採取できるのは、3月だけ。それ以外の時期には、店にも置いてないんだよ」
それは、まだ何か月も先まで待たなければならないという意味だった。
「ヴァーミアが僕の家まで迫れたんだ。いつ捕まっても、おかしくない。それなのに、アパラチカときたら、名前をアミに知られたくないって言うんだ。じゃあ、その分、どうしたって、調べるのに時間がかかるじゃないか。その間、粉末揚素はほとんど使えなくて、僕はヴァーミアの力には勝てないから、僕たちは逃げ回らないといけないんだ。船に乗って、日本に逃げちゃおうか。でも、逃げたって、追ってくるし、そうしたら魔法が使えない日本人に迷惑かけちゃうし」
アパラチカはうつむいていた。アミはどうにかして、アパラチカの心を開かないといけないと感じた。トランを助けるために、ヴァーミアに勝つために、今、アミにできるのは、それだけだ。
皮肉なシンクロ。アミは苦笑する。実家でも人間関係で問題があって、状況がどうであれ、そこから逃げ出したのに、また同じ問題に追いかけられている。
とはいえ、どうすればアパラチカの心を開けるのか。それが問題だった。ヴァーミアの呪いが指摘したとおり嫉妬だとすれば、それは人間の感情の中でも、かなり扱いづらい感情に属すると、アミは思っていた。たとえマリーナの件を引っ張り出したとしても、アミへの感情が和らぐ可能性は、極めて低い。
バートは半ばふらふらと歩くトランを支えながら、どうにか船まで誘導する。
奇妙な形のその船は、特に何の被害も受けていないように見えた。
「船はなくても生活できたんだ。家があれば。魔女は家のほうが、被害が大きくなるって、わかってて、やったんだろうな」
明らかに、トランは精神的にダメージを受けていた。船室の1つを指さし、バートに案内させると、そのまま引き籠もってしまった。
広い食堂にスーツケースを運び込み、バートとアパラチカが調べ始める。アミは、自分も船室に引き籠もる。アパラチカが許可しない限り、一緒に作業するわけにはいかなかった。
船室に入って荷物を置いてから、横になろうとして、問題に気づく。トランの家に、ゆったりしたアルテン服を置きっぱなしにしてしまった。仕方なく、アミは蒲団の中で下着だけになり、横になる。
ベッドに倒れ込むと、アミはあっという間に眠ってしまう。疲れが溜まっていたのだ。どんなにゆっくり休んでも、やはりベッドできちんと休まないと、抜けない疲れや痛みがあった。柔らかい蒲団の心地よさは、今のアミには感動的なほどありがたかった。
アミが目覚めたのは、既に夜になってからだった。アミはそっと服を着直し、船室を出て様子を窺う。
バートとアパラチカは、本に向き合ってはおらず、薬棚の前で、何やら探し回っている様子だった。落ち込んで寝てしまったトランも、今はそこに加わっていた。
「いや、それは役に立たないよ……」
トランの声が聞こえてくる。
アミは、自分だけ参加できないので、置いてあった紅茶のボトルを取って飲み始める。集中しているらしい3人に、気楽に声はかけられなかった。仕方なく、アミは紅茶のボトルを持ったまま、自分の借りている部屋に戻る。歪んだ形の天井を見つめながら、まだ残っていた携帯食料をかじった。
そろそろ食べ飽きてしまった、乾燥した食感に、アミは顔をしかめる。一応、村に戻ってきているのだから、明日になれば買い出しはできる。ただ、アミは村人たちの暗い表情を見たいとは思わなかった。
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