第2章 トランの船
翌朝、目が覚めると、見慣れない景色にアミは慌てて飛び起きた。寝ぼけた頭が正常に働き出してようやく、自分がどうしてその場所にいるのかを思い出す。夢なんかじゃなかった。そうわかっても、アミはちっとも明るい気持ちになれなかった。
水だけで顔を洗って、青いバンダナをタオル代わりに使う。バンダナはあっという間にびしょびしょに濡れた。部屋の洗面台の鏡をのぞき込み、アミは溜息をついた。もっとずっときれいな顔をしていたのに。ニキビだらけの顔も、ヴァーミアも憎らしかった。
「絶対、取り戻してやる」
小さくそう呟いて、アミは寝室を出る。タイトスカートとシャツを着たまま寝てしまったようで、身体が痛かった。せめてトランを見つけて服を整えてもらおう。アミがそう思ったとき、紙きれをひらひらとさせながら、バートが勢いよく走ってきた。
「おおっと! ごめん!」
バートはアミのすぐ近くの部屋にいたらしい。そのまま通りすぎて、昨夜アミがトランと会った方向へ走り去っていく。
「アパラチカ、海図を見つけた!」
「よかった! これでちゃんと、島に着ける」
どうやら海図も見つからないまま出発したらしいとわかり、アミは目を丸くする。
ゆっくりと出ていくと、アパラチカが気づいた。
「あら、おはよう。調子はどう?」
「おはようございます」
アミはあいさつしたものの、どう返事をしていいかわからなかった。気分は最悪と言ってもいい。
「まあ、まだショックよね。とりあえず、朝ご飯だけど、まだだったら、中央の船室に用意してあるわよ」
「あ、でも、わたし……」
パンを買ってあった。そう伝えようとすると、アパラチカが笑った。
「そうそう、パンとお菓子があったみたいだけど、それもこっちに持って来させてもらったわ。だって、ニキビにパンって、あまりよくないじゃない?」
アミは一瞬、魔法のせいだから意味ない、と言い返そうかと思った。ただ、魔法の原理など、アミは知らない。もしかしたら、そんな普通のニキビ対策も有効なのかもしれない。そう思い直すと、アミは素直に従った。
船室のホールには、円いテーブルとイスが並べてある。そのテーブルのいくつかには、料理が用意されていて、サラダやスープ、各種果物が盛られていて、果物の脇には、ちゃんと切ったり剥いたりできるように、ナイフが用意されていた。コンビニのパンを食べるより、確かにニキビ肌にはよさそうだった。
機嫌を直して、アミはお皿を取った。あまり見慣れない果物もあるようだ。南国のマンゴーやパパイアのような果物も、地元では見かけないザクロ、ドラゴンフルーツなんかもある。臭いがきついと困るのか、さすがにドリアンは見当たらない。それでも、もの珍しいラインナップに、アミは半ば興奮気味でフルーツをお皿に盛った。
「食べられるかな?」
うっかりしていたが、フルーツを食べると案外、おなかいっぱいになる。それでも、アミは好奇心に負けて、フルーツの皮を剥いていく。
ドラゴンフルーツの味なんて、まったく知らなかったが、食べてみると甘くないのだと気づく。なんだか期待していたのと違って、あまり食べたいとは思わなかった。
ザクロも思っていたほどおいしくはなかった。グミやジュースなんかではおいしいと思ったのに、なんだか粒で食べると、そんなにおいしいという印象でもない。
「普通の果物にすればよかったかな」
「あれ? それ、食べてるの?」
脇から声がして、トランが入ってくる。
「ドラゴンフルーツを食べるなら、他の果物と一緒にしたほうが、おいしいよ」
「あ……そうかもしれないですね」
「ほら、あそこにミキサーがあるの、気づかなかった? バナナとか混ぜちゃったら、おいしく飲めるよ。美容にもいいし」
トランが示すテーブルには、ミキサーが2台と調味料がいくらか置いてある。砂糖をかけるだけでも、食べやすくなりそうだった。
「ありがとうございます」
「ごめんね、熟してから採ればいいんだけど、日本で調達したら、甘くなかったんだ」
「そうなんですね」
アミは日本でドラゴンフルーツが手に入ると知らなかったので、少し意外な気がしていた。トランも食事をするところだったらしく、果物を混ぜてスムージーにしていた。スムージーとサラダとスープで朝食を済ませるようだった。
「もっと食べるのかと思いました」
「いや、朝は、ね……」
アミには少し意外だった。
あまり食べないとは言ったものの、トランはちらとパイナップルを見て、切ろうか、と呟いた。
トランが立ち上がろうとしたので、アミは慌てた。
「あ、わたしがやります!」
なにしろ、トランは片脚だ。ケンケンで動き回るトランは、どう見ても不自由なはずなのに、まったく気にしていない様子だ。
「いいんだよ。この脚は自分のせいなんだから」
そこまで話しておきながら、トランはなぜ、そうなったのかまでは、しゃべらなかった。ケンケンしているときに見た限り、左脚はぶらぶらとして、まるで骨さえないようだった。おそらく何かの魔法のせいだろう。アミはそう結論づける。
バートが入ってきた。
「トランさん、航海は順調です。問題なく行けば、3日後には島に着きますよ」
「ああ、わかった」
アミは、ふと疑問に思う。この人たちは島を封印した人たちだと言われている。島へ向かう目的は何だろうか。それに、この人たちはどこから来たのだろうか。
日本語を話しているので、日本人もしくは、かつて日本に従った国の人たちなのかもしれない。もしアルテンにそんな過去があるとしたら。あるいはこの人たちはアルテンの出身ではないのかもしれない。それなら、どこから来たのだろう。
「あの……ちょっと訊いてもいいですか?」
「どうしたの?」
「トランさん、アルテンの人ですか?」
「そうだけど」
トランは肯定した。
「アルテンを封印したっていう話は……」
「ああ、あれか」
トランは何でもないという顔で肩をすくめた。
「戦争になりそうだったからね。島を逃がしたかったんだ」
これはアミが納得できる回答ではない。魔法で勝てたんじゃないだろうか。
「ダメか。納得できないって顔してるね」
「できないですよ」
「本当は、ヴァーミアなんだ。あの魔女がアルテンで大暴れしてた。あまりにもひどくて、人々が苦しんでいたから、僕がもっと強力な魔法を学ぶ間、ちょっと島の時間を止めておきたかったんだ。だけど、僕もほら、まだ若いっていうか、未熟でさ。呪文を失敗して、間違って自分も巻き込んで封印しちゃったんだよ」
アミはトランをじっと見つめた。目の前にいるこの魔法使い、過去にそんなとんでもない失敗をしているんだ。信じて大丈夫なんだろうか。
「もうやらないって。だけど、このままじゃ、日本がヴァーミアの呪いの巻き添えになっちゃう。なんとか止めないといけないけど、僕の知識じゃ、まだどうしていいのか。とりあえず、一旦、アルテンに戻って、せめてアパラチカを元に戻さないと」
アミは忘れていた約束を思い出す。アパラチカの真名を見つけないといけない。
「万が一、先にヴァーミアに見つかったら、終わりだから」
もう1つ、アミには疑問があった。
「あの、ヴァーミアって若いんですか?」
「え、あの魔女が? とんでもない! あの人、もう150年近く生きてるんじゃないかなぁ。封印した期間を除いても、っていう意味だけど。僕ら、ずっと苦しめられてたんだ。昔はいい魔女だったらしいんだけど、最初の配偶者を失ってから、美貌のために悪い魔法に手を出して、それで今みたいになった、って聞いてるけど」
トランもよく知らないようだった。トランの発言が事実だとすると、ヴァーミアは魔法で若さを保っているだけで、実際には一般的な人間の寿命を超えた化けものおばあさんという話になる。
「ずいぶん若く見えたから、もっと若いんだと……」
「そう。他の人から美しさを奪い取って、若さを保つのが、あの人のやり方。だから、外見を中学生にされたのは呪いを解かないと治らないけど、ニキビ顔は美容ケアによっては、多少、改善できる」
「え?」
アミはそれを聞くなり、薬を買えばよかったと後悔した。海の上では、買いものはできない。とはいえ、何日か我慢すれば、島でも日本のお金が使えるとニュースで言っていたので、ニキビの薬も買えるかもしれない。
「トランさん、昨夜の魔法、できますか?」
「ああ、いいけど、ちょっと待って。今、手元にないから」
「あの、あとで少し分けていただけます?」
アミが問いかけると、トランは肩をすくめた。
「ああ、いや。それはやめておいたほうがいいと思う。魔法に慣れてるなら、構わないけど」
アミは首をかしげた。何がいけないのか、理解できなかったのだ。
「でも、ただの液体ですよね?」
「ただの液体? まあ、そうだね。だけど、その液体は扱いづらい容器に入っていて、それをそのままかけようとすると、霧というより、ポンプみたいに出てくるから、1か所だけかかって、ムラが出るよ」
「手に取ったらダメなんですか?」
「さあ。試したことないから何とも。でも、保証はいたしかねる」
一瞬混ざった妙な言葉遣いに、アミは顔をしかめた。そう言われてしまうと、それ以上、アミには反論できなかった。もっと簡単な話だと、勝手に思い込んでいたのだ。
「<言葉>を使わない魔法だから、気づかなかったのかな」
アミにとっては、自分でできるかどうかのほうが重要で、魔法の種類はどうでもよかった。美容ケアが重要なのであれば、家にある化粧品も手元に欲しかった。
「その顔を早く治したければ、パンなんてやめて、僕が出す食事を食べて、リラックスして、ちゃんと休むんだ。あんまり悲観しちゃいけないよ」
「ご飯は日持ちしないので」
「お米なら、大丈夫さ。ご飯は炊けるんだから」
トランが日本人みたいに思えて、アミは不思議な気分になる。
「アルテンって日本みたいな島ですか?」
「いや、ちょっと違うね。日本の文化はだいぶ入ってきていたけど、やっぱりアルテンはアルテンだよ。なんというか、もう少し南国らしい島だね」
「沖縄みたいな感じですか?」
「それも違うな」
「どんな場所ですか?」
「百聞は一見にしかず」
そんな言葉が伝わるほど、日本と関わっていたのだろうか。歴史から消えてしまったのは、どういうわけだろう。アミが不思議に思っていると、アパラチカがやって来た。
「まだこんなところにいたのね」
「あ、はい」
就活もできない、学校にも行かれない、バイトもできない、家にも帰れない。この状態で、アミに何ができると言うのだろうか。今、アミの目的はただ1つ。アパラチカの真名を見つけて、呪いを解かなければならない。他に何をすべきだというのだろうか。
アパラチカは何か言いたそうにアミを見る。
「まあ、いいじゃないか。こんなにひどい目に遭ったんだ。まだショック状態で、頭が回らないだろうし」
「そうね」
トランの言い草もひどいものだとアミは思ったが、自分が何かできていないらしいという話の趣旨にも、なんとなく気づいてしまっていた。
「あの、何かあるなら、言ってもらえたほうがいいんですけど」
「気にしなくていいよ」
トランは純粋な笑顔で否定する。バートが脇から、関係なさそうな質問を投げかけた。
「あなたは<言葉>を扱えるの?」
アミは首をかしげた。言葉は話せるが、アルテンの人たちの<言葉>は違った意味で用いられているようにニュースで伝えられていたからだ。
「バート、日本人はアルテン人とは違うんだよ」
「僕は日本人をよく知りませんから」
「そうだね、キミはまだ新人だからね」
「日本語で日本人を知らないって言われるの、すごく変な感じ」
アミが呟くと、バートは笑い出した。
「日本語は僕たちにとっては、生活言葉なんだ。アルテンの<言葉>は特別だから。魔力が籠っているから、普通は魔法を扱うときと、名前に使うだけなんだよ。間違ってアルテンの<言葉>で話してしまうと、訂正が効かなくてね」
なかなか厄介な話だと、アミは思った。アルテン語を学べば、魔法が使えるんだろうか。
「わたしもアルテンの<言葉>を学べない?」
バートは首を横に振る。
「本が必要だよ。声に出したら、その時点で効果が発動するから、勉強するにも、環境を整えないといけないんだ」
忌々しい、とアミは立ち上がると、そのまま部屋へ向かおうとした。
「ちょっと、食器くらい片づけなさいよ」
アパラチカの声が追いかけてくる。アミはその場で立ち止まり、周囲を見回した。一応、食器を洗えそうな流し場はある。流し場というか、正確には水が入ったバケツサイズのタンクがいくつかあって、へこんだところで洗えそうだ、という程度のイメージだ。
アミは黙って食器を取ると、そのへこんだ流し場のような場所へ持って行く。
「アパラチカ、洗い方を教えないと、わからないよ」
トランがなだめるような声で言う。ばかにされてる。アミは苛立って適当に近くにあった入れものを次々と手に取り、そこに書いてある文字を確認する。漂泊粉、油用、中和水、朝食用。
「何なのよ、これは!」
アミはそう叫ぶと、お皿に「朝食用」というふざけた名称のボトルの中身をふりかけ、適当に手で全体に広げ、手前のタンクの水で流す。
「今、何使った?」
バートがのぞき込もうとするのを無視して、アミはお皿を脇の籠に入れようとした。だが、何かが違ったらしい。流したはずの水が白く濁り、真っ白になって流れる。
「ああ、もう!」
バートが脇からお皿を取り上げる。
「朝食用か。それ、ヨーグルトとかつくるのに使うんだ」
「そんなの、知らないし!」
変な魔法の薬なんて、置いておかないでほしい。アミはお皿をバートに任せたまま、部屋を去ろうとする。
「ねえ、仕事を覚えようって気はないの?」
アパラチカがバートのほうを顎で示す。
「いい、この船に乗ってるのはわたしたちだけなの。この船はわたしとバートで動かしてる。だから、あなたも乗るなら、少し協力するのが筋じゃないかしら?」
アミは無視して部屋に向かった。どうしてこんなにつらい目に遭わないといけないのか、アミには理解できなかった。
「わたしだって、別に乗りたくてこんな船、乗ってるわけじゃないわよ!」
惨めな気分でベッドに倒れ込む。さっさと就職して、1人で暮らしたかった。だれにも口出しされない場所で、何の干渉も受けずに、好きにやれたらどんなにいいだろうかと思うのだった。
なんとなくスマホを手に取ったが、通信は圏外になっていた。電池だけ食っても仕方ないので、アミはスマホの電源を切った。もう日本の岸からだいぶ離れていた。バッグは持っているから、日本の証明書なら、手元にある。アルテンには入れるはずだ。そうしたら、アパラチカの真名を探して、島を歩き回る。
アパラチカのために仕事をする代わりに、自分も呪いを解いてもらう話になっていたはずなのに。アパラチカを嫌いになりかけていると、アミは感じていた。それでも、このまま中学生の姿でいるわけにはいかないのだ。
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