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アミはびくりと震えた。振り返ると、1人の女性が立っていた。いつの間に来たのだろうか、足音ひとつ立てずに近づいてきたようだった。
「あ、いえ、その、わたしはただ……どこかで休めないかと……」
アミは小さな声で呟くようにしか答えられなかった。全身が恐怖で震えていた。
女性は人間にしては少し華奢な印象を与えた。ひらひらとした薄いグリーンの服を着ており、小柄で線が細く、背も低めだ。平均より身長の低いアミでも、低いと感じるくらい。だからといって子どもの顔でもない。
「泊まりたいの? それなら、この隣の部屋が空いてるわよ」
アミは驚いて顔を上げる。絶対に追い出されるか、何かとんでもない魔法をかけられると予測していたのに、完全に裏切られたからだ。とはいえ、まだ確証は持てなかった。寝かせておいて何かする、という可能性がゼロではなかった。
「泊まっても大丈夫なんですか?」
「泊まりたかったから来たんじゃないの? 泊まるのはいいとして、わたしたちを助けてくれないかしら?」
アミは警戒していた。
「内容を聞いてからでいいですか?」
「ええ、まあね。わたしはアパラチカ。人間が呼ぶところの妖精の仲間になるのかしら。とにかく、わたしには完全な記憶がないし、トランと何か契約してるらしくて、自由に動けないみたいなの。アパラチカっていうのは通称でね、わたしには何か本当の名前があるはずなんだけど、わからなくなっちゃって。それを見つけ出せれば、契約の件もなんとかなると思うんだけど」
アミはアパラチカをじっと見つめた。トランとの関係で困っているなら、この妖精だかなんだかは、トランの味方ではないのかもしれない。アパラチカは線が細くて、身体には無駄がない。どことなく透明感のある肌も、人間ではないと言われれば、確かにそうらしかった。
「どうやって見つけたらいいの?」
「昔、どこかの文献に記録を残した人がいて、それを見つけ出せばいいの。ただ、その文献がある場所もわからないし、当然、真名なんて隠しておくべきだから、簡単には見つからないところにあるはずなの」
アミはうつむいた。手伝って、もし見つかったら、自分にとって悪い影響はないのだろうか。慎重に判断しないといけないところだ。
「もし仮に、あなたの真名がわかったとして、あなたはわたしに何か魔法をかけたりはしないって言いきれますか?」
「さあ。たぶん大丈夫だと思うけど。別にトランもわたしも、それにバートも、悪い人じゃないと思ってるし」
アミは目を見開く。
「トランが悪くない?」
「え? ええ。トランは別に悪い人じゃないわ。ああ、でもヴァーミアのせいで、変な噂が流れてるかもしれないけど」
「あ……あの魔女……っ!?」
アミはつい大きな声を出してしまう。慌てて口元に手を当てたものの、トランが悪い人でないなら、そんなに慌てる必要はなかった。
「そういえば、あなた、呪われてるでしょう。もしかして、それもヴァーミアのせいなんじゃない?」
「そっ、そう、そうなの!!」
その場で泣き出したアミに、アパラチカは香りのするハンカチのような布をさし出す。
「これ、よかったら、どうぞ。呪いも解けると思うわ。わたしが真名を思い出したらね」
「ありがとう」
アミがハンカチを目元に持って行った途端、その香りがアミを満たしていた。それまで鮮明に見えていた景色が、アミには少しかすんで見える。
「さ、お部屋で休んで。夕食はもう召し上がって?」
ドアが開き、あれよあれよという間に、アミは船室の1つ、寝台やテーブル、洗面台やトイレのある部屋の中に押し込まれ、買ってきた食べものやペットボトルが、荷物置き場と思われる棚の上に出されていた。アミはどこかぼんやりしたまま飲みかけのペットボトルだけを取ると、そのままイスに座る。
不思議な香りのするハンカチはまだ手元にあった。穏やかな森林のような、すっと爽やかなハーブのような、それでいてどこか懐かしいような、包み込まれる香りだった。
船はゆっくりと港を出発する。アミはハンカチの香りでぼんやりしていた。
アミは突然、何かがおかしいと気づき、窓に駆け寄った。船は港を出て、沖へ向かって動き出している。
「アパラチカ?」
アミは内心、少し慌て始めていた。家に帰れないとわかってはいても、日本を離れる気はなかったからだ。船は単に隠れ家として利用するつもりだっただけで、どこかへ行こうと思って侵入したわけではなかった。船は海上を移動する。アミは、自分がバカだったと気づいたが、今さら気づいても遅すぎる。それに、他にいい選択肢があったのかと問われれば、ないと答えるしかなかった。それに、ここで今、下船していたとしても、そのあと行く当てなど、どこにもない。
ヴァーミアの魔法はあまりにも酷だった。成人として認められる年齢だったはずのアミは、今や中学生の顔で、身分証明書の顔の形もわからないほどひどく、ニキビだらけになってしまっている。子どもとして振舞い、保護を求める以外に方法がないが、そうすれば今度は、家族はどこだ、家は、と問われるに決まっていた。魔法に気づいてくれる人、あるいはアパラチカのような別の種族に見つかるのでなければ、アミは直ちに警察に保護される運命だっただろう。
おとなしく保護されても、家族のもとへ返されるのはご免だった。長年、父の暴力やいじめに耐え、ようやく就職して抜け出せると思っていた矢先に、中学生に逆戻りさせられたんだ。
アパラチカは現れなかった。アミはそっと船室から顔を出し、外の様子を確認する。通路に人はいなかった。どこからか、人の声が聞こえてくる。
アミは恐る恐る、声の聞こえるほうへと向かった。声は徐々に大きくなり、内容が聞き取れるようになってくる。
「本当にそんな呪いを?」
「そうなの。行く場所がなくて、自棄になって飛び込んできたとしか思えないわ」
アパラチカがアミの話をしていた。だけど、話している相手がだれなのか、まではわからなかった。アミは見られたくない気持ちと、見たい気持ちの間で葛藤した。自分は見てほしくないけれど、相手の存在は気になる。トランだろうか。だれか別の人だろうか。トランはどんな見た目なのか、実のところ、アミはまだよく知らなかった。
「とにかく、会ってみないと、何とも言えないね。相手はヴァーミアだろ? 僕にどうにかできるかどうかなんて、わからないさ」
その声といっしょに、奇妙な音が近づいてきた。トン、トン、と何かを突くような音と、地面に何かが擦れる音も聞こえてくる。次の瞬間、すぐ目の前のドアが開いた。アミは慌てて数歩下がった。出てきた若い男と目が合う。
茶髪の男は丸顔で色黒、アミよりいくらか年齢を重ねた20代らしく見えた。目ははっきりとした大きな目で、やはり茶色い。男の着ている服は、昔の和服を崩したような感じで、あまり洋服という言葉は似合わない服装だった。日本人、というのも少し違う。けれども、確かに日本語を知っていて、話していた。アミの脳裏に、ニュースで伝えられていたアルテン島の人々の特徴が浮かんでくる。独立した国家、日本語やオランダ語が通じる。
トランは左足が悪いのか、両腕に杖を持っていて、右足だけで立っていた。
右足には靴を履いている。その靴は、どうも木でできているようだったが、さほど歩きづらそうな靴でもなかった。足首のあたりに紐がついていて、爪先の覆われた部分とその紐で留める形になっていた。
「あなたがその問題の女性か」
アミは、はっとして顔を上げる。
「僕はトラン。あなたは?」
「アミです」
アミは内心、ショックを受けていた。魔法使いなんていうから、もっと派手な西洋風の人物なんだと勝手に空想していたが、目の前の人物は白人でもないし、服装は地味な色だ。着物の色はこげ茶のような色合いで、少しかすれた地味な色味になっている。
アパラチカも出てきた。背後にもう1人、少年がいて、ぽかんと口を開け、目をぱちぱちと瞬いてアミを見ている。アミは少し居心地悪く感じた。
「あら、出てきてたの?」
「はい」
アミはうなずく。少年は口を閉じ、斜めに視線を落とした。
「まあ、いいや。今日は遅いから、とりあえず好きにさせといてよ」
トランが言うと、アパラチカは笑った。
「あら、この船、既にアルテンに向かってるわよ、トラン」
「ああ、そうか。まあ、海の上で下船させるわけにもいかないな」
「わ、わたし、ここにいないほうがよかったですか?」
アミは心配になった。アパラチカはトランが悪い人ではないと言ったが、それはアパラチカの見解だ。世間一般の見解ではない。
「ああ、いや、大丈夫だよ。あなたのその姿じゃ、無力だってわかるし」
だから怖いんだ。アミはそう叫びたくなったが、トランの表情が穏やかで、しかもトランは片脚なので黙っていた。噂はともかく、悪い人には見えなかった。丸顔のせいか、若くて朗らかな、気のいい青年らしく見えていた。
アパラチカと一緒に出てきた少年は、やはり色黒で、黒い髪をしていた。日焼けした日本人、もしくはもともと浅黒いのかもしれない。少年は、長い髪を後ろで束ねている。
「自己紹介してないよね。僕はバート。アパラチカと一緒にこの船を動かしてるんだ」
少年は低い声でようやく名乗った。年齢的にはそろそろ高校生になるかというところか。アミはそう推測して、その少年が船の手伝いをしているという状況に疑問を抱く。もしかしたら、15歳くらいで、中学を出てすぐに船乗りの修行を始めたのかもしれない。それとも、アルテンの教育制度が違うから、アミが思うような学校の強制力がないとか。
アミは想像を巡らせながら、少年にあいさつした。
「ヴァーミアの呪いって、怖いね」
バートはそう呟いた。既に呪いの件を知っていたに違いない。
アミは惨めな気持ちになる。水浴びができると言われたが、着替える服がなかった。
「どこかで服を手に入れないと」
「トランがきれいにしてくれるよ」
アパラチカがそう言うと、トランは肩をすくめて、どこかへ杖を突きながら移動していたかと思うと、今度は何かを手にして、片腕で杖を2本持ち、ケンケンで戻ってくる。
「ほら、いくよ」
トランの手が動く。頭から冷たい霧状の液体をかけられ、アミは一瞬、身を引いてしまいそうになる。
「大丈夫よ」
アパラチカがそう言っても、ヴァーミアの件から、まださほど時間が経過していない。
「鏡を見せてください」
アミは求めた。
「船室にあるわよ」
アパラチカは教えてくれるものの、ちょっと突き放したような言い方をした。アミはぴくりと肩を動かす。
トランはまだ穏やかな表情だったが、アパラチカは少し厳しい顔をしていた。
「あの……」
アミは何か言おうとしたが、何を言っていいのかわからず、結局そのまま船室に戻った。鏡の中のアミは、依然として中学生のままだ。ただ、ニキビはわずかに改善していた。特におかしなところはなく、普段の今頃ならテカリが出る額もテカリはなく、化粧も落ちていた。
要するに、ちゃんと言ったとおり、寝られるようにきれいにしてくれたわけだ。
アミは戻ってトランを探す。トランはデッキのほうに設置されていた手すりのようなところに腰かけていた。
「あの、ありがとうございます」
「ん?」
トランは興味なさそうな顔でアミを見る。
「あ、あの、きれいにしてもらったので」
「必要な処置をしただけだよ」
アミはなんと返していいかわからず、そのまま部屋に引き下がろうと歩き出す。
潮の匂いが強く、風も普段アミが感じるよりもいくらか強かった。空に輝く数多くの星は、いつもならきれいだと眺めるだけだったかもしれないが、この夜は顔のニキビの数を思わせて、アミは顔をしかめた。アパラチカとの契約を果たせば、呪いはいずれ解ける。頭ではそう思っていても、もしこのミッションに失敗すれば、自分の命だってないかもしれないのだと思うと、恐ろしくて震えた。
「寒い?」
「いいえ……」
トランは一瞬、黙って目を伏せた。
「大丈夫、ここには魔女除けの魔法がかけてあるんだ」
トランはそう呟いた。トラン自身も、杖を突きながら歩いてきていた。アミはトランを振り返ったが、ヴァーミアだって魔法使いだ。そんな魔法、掻い潜って入ってくるかもしれない。アミはトランが気遣ったのだろうと思い、うなずいて船室に戻った。とりあえずトイレを済ませる。針葉樹の形の、消臭剤のポットが置いてあり、緑の強い香りが漂ってきていた。トイレは水洗ではなく、風で流すシステムらしい。猛烈な風の音がして、少し驚いた。
船室内には潮の匂いが入ってきていた。とはいえ、それはアミが眠る妨げにはならない。アミは生まれてこの方、ずっと海の傍で育ってきていたから、潮の匂いはむしろ、あって当たり前の、日常の匂いだった。
狭い部屋の自宅のベッドを思うと、どういうわけか、船室のベッドが心地よく感じられる。アミは思わず立ち上がると、何度も手で押して、その柔らかい感触を確かめてしまう。おそらく魔法のせいなのだが、外から見るより、室内が広く感じられていた。
「魔法使いって、いいよね」
アミ自身は、これまで魔法なんておとぎ話やファンタジーの世界でしか触れてこなかったから、本当に魔法なんて存在するとは思ってもみなかったのだ。こうして現に目の当たりにしてみると、ひどく羨ましく感じるのだった。
もしも魔法使いだったら、アミは家になんかじっとしていなかっただろう。父親との度重なる喧嘩、対立もあり、アミは徐々に家族と過ごす時間に嫌悪を感じるようになっていた。他の家族には何もしないのに、どういうわけか、アミだけが被害に遭うのだ。
「理解できないよ」
アミはティッシュの箱を探した。今にも泣きそうだったから、箱入りのティッシュがたくさん欲しかった。トイレットペーパーを思いつけばよかったのだが、アミは部屋の中を探していた。見つかったのは巻物になった紙と、バンダナのような布が何枚かだった。アミは自分のバッグを探り、わずかに残っていたティッシュを取り出して鼻をかむ。涙はシャツの袖でそのまま拭ってしまった。
普段の癖で携帯に手を伸ばすと、アミが家に帰らないからか、母親から電話がかかってきていた。まださほど離れていないためか、圏外にはなっていない。
「今のうちに連絡しないと」
アミは急いでアルバイト先に電話をして、事故に遭ったので暫く入院しますと伝えた。何があったのかと問われても、とにかく身体の何か所かを折ったと答えるだけだった。
続いてアミは、恵に電話をかけた。恵には、ただヴァーミアの被害にあったとだけ伝え、学校でうまく先生たちに休む理由を伝えてくれないかとだけ頼んだ。
問題は家族だ。黙って家を出たことにしてもよかった。普段の父親の態度への抗議として。ただ、母親は心配するだろうか。アミは迷いながら、そのまま眠ってしまっていた。
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