アルテン島~封じられた島~
桜川 ゆうか
第1章 発見された島
東森の港町の夕刻は、たいてい静かだった。漁師たちは朝が早く、日が落ちると眠ってしまう者が少なくなかった。
そんな中、アミの父親は大声で怒鳴り立てる。酒に酔っているのではない。アミに対して怒鳴っているのだった。アミは内心、怯えていた。顔には出さないようにしていたが、手は震えていた。それにもかかわらず、アミは怒りに満ちていた。
「お父さんが、食事中にずっと文句ばかり言うからじゃない」
怒鳴る父親に、アミは言い返す。きっかけをつくったのは父親であって、自分ではない。文句の多い父親が、アミを苛立たせていた。
アミの父親は予測のつかない爆弾で、爆発すれば、アミを殴るまでは収まらなかった。要領よく立ち回ればいいのだが、アミは感情を抑えるのが、あまり得意なほうではない。言い争った挙句、殴られる羽目になるのが常だった。DVで訴えれば解決するという問題でもない。父親は家計の収入源ではあるのだから。
それに、アミは既に大学3年生になっていた。ここまで耐えてきたのだから、今さら何をする必要があるだろうか。就職を決めてさっさと出て行けば、それで済むと、アミは考えていた。
母親は黙りこんでいた。既に就職していた兄は、父親とうまくいっていた。父親が怒鳴るのはアミに対してだけで、アミはその度にストレスを感じていた。
ただ、アミはそんな自分をも嫌っていた。就職活動を始めてすぐに、アミはひどく落ち込んでしまった。攻撃的な自分を自覚しているために、自分の長所になかなか目を向けられず、何をアピールしていいのか、わからない。このままでは、いい仕事に就けない。アミは内心、あせってもいた。
テレビの番組がニュースに切り替わる。
「太平洋沖で今朝、アルテン島という島が発見されました。アルテン島が見つかったのは、小笠原諸島の南東で、過去の衛星写真に写った記録もなく、しかし新たに隆起した島でもないことが、現地での取材でわかっています。島の住人に話を聞く限り、島はこれまで封印されており、人目に触れなかったということですが、現在、詳しく……」
「いったい何の話をしているの?」
母親が問いかける。だれもアルテン島なんて聞いたことがない。
「なんか、封印されてた島が発見されたって言ってるけど。よくわかんない。そんな話、初めて聞いた」
ニュースによると、島は独立した国家として認定される予定だそうだが、だいぶ古くから封印されていたらしく、地域の言葉は現状で把握できている限り、日本語、オランダ語、古い漢の言葉が通じるだけで、英語は通じないという話だ。国際社会に馴染む用意ができていないため、日本が近いこともあって、一旦、日本の教育設備を移植する形になるという。
「そんなら併合しちゃえばいいのに」
兄はそう言ったけれど、どんな文化の地域か、見つかったばかりで、まだよくわかっていないのだろう。アルテン島という名称からも、公用語がそのまま日本語というわけでもなさそうだ。
そんなニュースはともかく、アミは自分の就活を考えないといけなかった。どうせなら、アルテンに行って教育でもやればいいのかもしれない。漁師になる気はないんだから、などと考えては、治安はどうなんだろうと疑問に思う。発見されたばかりの見知らぬ土地で、いくら日本語が通じたとしても、文化が日本に近いとは言いきれなかった。
そんなアミの疑問はすぐに解消されていく。翌日から、アルテン関係の報道が一気に増えたからだ。取材に行った日本人によれば、アルテンは湿度が高く、日本の沖縄以上に暑い気候だという話で、昔の日本の建物のように、風通しのいい建物が多く、藁やイグサなどの素材の敷物が多く見られ、服装も麻が中心だという。長い間、世界から孤立した状態だった島は、現地の人々の話では、時間的にも封印されていたという。その言葉を日本の取材班が鵜呑みにしたわけではないが、人々は取材班の服装にひどく驚いているとか、機材に肝をつぶした様子であり、世界の時間から断絶されていたのは事実らしいと報じていた。なんだか、気の毒な話じゃないか、とアミは肩をすくめる。古い日本の現金が出てきたとかで、日本政府がアルテンの通貨を実際の価値のレートで計算して交換し、ただどうしても、時代が古いせいであまりお金を持っていない人が多いので、しばらく支援するとか、アルテンの人が日本に自由に来て商売できるようにするといった計画も伝えられた。
教育者の募集は明らかに増えていた。一方で、アルテンの生活条件は悪く、水も井戸から汲んでいるような状況で、水道はなく、トイレも当然、水洗ではなく、行きたがる人も少なかった。もちろん、アミも含めて。現地でマスコミが人々と会話をしながら、言葉がより通じるように、新しい日本語や文化を広めていると伝えていた。
5月の連休明けごろになると、工事関係の人々も次々と募集された。これには乗り気の男たちも結構いたようで、都会から学生ボランティアまで参加していた。特に土木関係の学生なんかは、実習で向かうケースもあった。
そんなとき、国内ニュースではある問題が報じられていた。島の封印が解けたために、島を封じた魔法使いは自分だと名乗るトランという男が、船に乗って現れ、日本の各地に出没しているという話だった。トランはときに、自分の船以外の船を沈めてしまうという噂で、日本中の漁師たち、観光船を運航している人たちの間に衝撃が走った。
自衛隊が出動し、トランを追跡するという情報も出てきた。トランは自分が魔法使いだと主張していたが、当初は取材班も自衛隊も、魔法使いという自称は非現実的だと捉えて笑っていたのだ。
だが、トランは彼を捕らえようとする自衛隊の前で、船ごと水中に潜り、1分後には数十キロ先に現れるという芸当を見せたという。自衛隊もかなり困っているらしい。
そのうち、アルテンは実はまともに自治が成り立っていて、家庭教育の制度もあると言って、言語以外の教育を拒否しているという情報が流れ始めた。アルテンの人々の生活に密着するドキュメンタリーでは、日本語ではない、現地の<言葉>を話し、不思議な現象を起こしている人々の様子が報道されたため、日本人も次第に、本当に魔法なんだろうと認めざるを得なくなってしまっていた。
アミはアルテンで働くのを諦め、さっさと就職活動に戻った。スーツを着て、興味のある企業を探す。だいたい、アミの専攻は英文学だ。英語が通じないアルテンでは、確かに英語教師も募集しているが、なによりもまず、取材等を進めやすくするため、現代語の教育が必要だとして、日本語を教えに行く人々を募集し、簡単な日本語で書かれた新聞を発行する、などの話が報じられていた。
大学の課題もあり、夏休みはだいぶ勉強と企業研究に時間を費やしたが、秋ごろになると、アミはすっかりあせりきっていた。アミは就活用に脚色したプロフィールを書き、大学の就職指導課に見せて相談するも、ごまかしきれていない部分を指摘されてしまう。もう少しうまく書かないといけない。就活を始めた当初に感じた不安が強くなる。アミは、いつも元気をくれる恵に話しかけた。
大学の友人の1人、恵は、一緒にアルテンに行こうと誘ってきた。ただ、恵とアミの性格は違う。恵は割と冒険好きな性格で、これまでもアジア各国を訪問し、ひどいときはヨルダンまで行ってきたというつわものだ。
「治安が悪い地域に入りそうになって、やばかった。なんか武装した人たちに注意されちゃった」
中東の危険地域になんか、近寄るものじゃない、とアミは言ったが、恵の好奇心は抑えられなかった。インドに行って、新しい楽器を習い、楽しそうにその話をする恵を見ていると、アミは危なっかしいと思いつつも、自分ももう少し自由になれたらいいのにと、内心、羨ましく思っていた。
ただ、翌日には、少し恵の様子が変わっていた。
「ねえ、ヴァーミアの噂、聞いた?」
「何、それ?」
「なんかね、アルテンに住んでた魔女なんだけど、若い女の子が嫌いらしくて、会うとめっちゃ不細工にされちゃうの」
「知らない」
最近、アルテンの話は聞き飽きて、アミはニュースよりも就活に集中しようとしていたから、新しい情報をキャッチしていなかった。
「それがね、このへんにも出没してるって話で、わたしたちも、いつ会ってもおかしくない状況なんだって。なんか怖くない?」
怖くない、と訊きながら笑う恵の神経はともかく、本当にそんな魔女がいるんだとしたら、就活にも支障が出そうだと、アミはとっさに思っていた。
「嫌だね、そういうの」
「うん」
とはいえ、現実感はなかった。ひとしきりの噂話を披露して、恵はアミの肩に手を置いた。
「夜は本当に、気をつけたほうがいいよ」
そう言いながら、島で就職する準備を進める恵は、そんなに神経質に就活をしていなかった。教員免許をきちんと取得し、採用試験に合格することのほうが、恵にとっては重要だったのだ。英語の先生になったとしても、恵なら長期休みに入る度に海外に出かけていそうだ。
アミは就職セミナーに参加した。夜のセミナーのあと、1人になるのが嫌で、近くにいた人と一緒に帰る。それでも、家の近くではどうしても1人になってしまう。
外はだいぶ涼しくなってきていた。夜道は暗く、人通りの少ない道を通るのは、アミも不安だった。ヴァーミアの噂もあるし、トランも悪い魔法使いだという噂が絶えなかった。
アミは港のすぐそばにある自宅に急いでいた。潮の匂いは普段と変わりなく、海面は船から漏れてくる光を反射して、ときどき、きらりと輝いた。一見、穏やかで平和そうだが、夜の人通りは、以前に比べて減ったように見えた。ヴァーミアの噂も十分、行き届いたのかもしれない。アミは急ぎ足で歩いた。肩にかけたバッグが、アミの歩調に合わせて揺れ、その重さを主張してくる。
街灯から離れたところで、アミはふいに何かにぶつかったと感じた。
「おやおや、不注意な娘っ子だねえ」
アミの背筋が凍りついた。
「ごめんなさい、気づかなくて」
相手の話し方は、まるで老婆だが、アミは相手のシルエットから、その身長が自分より高く、背筋が伸びていると気づいていた。
「あたしに謝ったからって、助かると思ってるのかい?」
「本当に、ごめんなさい」
アミは震えていた。声も震えていた。父親が暴力をふるうときのようだ。アミは自分の中に、恐怖と攻撃性が同時に存在すると感じた。全身はひどく震え、怖くて仕方ないにもかかわらず、どうして自分だけのせいにされるのかと理不尽さを感じていた。
それと同時に、顔に違和感を覚える。額や頬、顎までもが、ひどくつっぱっていた。ところどころに、それまで感じなかった痛みさえあった。アミは何が起きたのか、さっぱりわからなかった。
「どうしたんだい?」
声はひどく意地悪く笑う。直後、眩しい光を当てられ、アミは目が眩んだ。
「ほらほら、鏡だよ?」
アミがうっすらと目を開くと、ヴァーミアが最近よく着ていると噂されている、青紫色のローブを纏う、見た目の若い女が、鏡を目の前に掲げていた。そこに映るアミは、アミであってアミではなかった。スーツに身を包んだアミの顔は、全体がニキビだらけの中学生の顔になっていた。もはや成人した人間には見えない。完全に不細工な子どもにされていた。慌てて全身を見ると、少し太ったようにも見える。むっちりとした鏡の中のアミには、窮屈にさえ見える就活スーツは似合わなかった。
時刻は既に遅く、おなかも空いていた。アミはガタガタ震え、言葉も出てこないまま、ただひたすら、どうしよう、と考えていた。目の前にいるのは、明らかにヴァーミアだ。対抗できるはずがない。今の格好で家に帰れば、父のひどいいじめを受ける羽目になりそうだったし、母親は卒倒しそうだった。アミ自身が倒れてしまいたい気分だった。家には帰れない。かといって、ホテルに泊めてもらえるはずもない。なにしろ、どう見ても中学生にしか見えないんだから。
魔女は笑いながら、さっさと姿を消してしまう。アミはすぐには動けなかった。どこかへ逃げないと。だけど、落ち着かないと。アミは惨めな気持ちでバッグの中を探る。お金はいくらか手元にある。ハンカチ、ティッシュ、ペンやノートも持っているが、何か食べるものを買わないといけないし、夜、寝る場所も必要だ。
ニキビは魔法のせいだ。薬なんか塗って、意味があるとも思えなかった。アミは近くのコンビニに入るのもためらってしまうが、選んでいる余裕はなかった。スーツは似合わないので、上着を脱いで左腕にかけた。少し肌寒いが、どうせコンビニの店員に指摘されるはずもないだろう。自分だと気づいてほしくないと願いながら、アミは籠を手にする。日持ちのするパンやお菓子を中心に、食べものをいくらか、それに飲みもののボトルを何本か、マスクも籠につっ込んで会計に出す。顔を隠す方法が必要だった。
「温めますか?」
「いいえ」
何も温めないまま、普段のコンビニカードで支払いを済ませる。クレジットじゃなくてよかった。まだいくらか残高はありそうだ。アミはできるだけ急いで、逃げるようにコンビニを出ると、行く当てもなく港のあたりをぶらぶらした。
買ったペットボトルが重く、ビニール袋が指に食い込んで痛い。右肩には、バッグの重みもある。あまり長くは歩けなかった。適当な場所に座り、おにぎりを食べる。まだショックが抜けず、ほとんど味を感じない。詰め込むように食事を済ませて、マスクで顔を覆った。もちろん、マスクで覆える部分だけしか隠れないが。太い黒縁の眼鏡でもあれば、もう少し隠れるのかもしれない。とはいえ、アミはそんな眼鏡を持っていなかった。海辺で育ったせいか、視力は眼鏡をかけるほど弱くない。
タイトスカートがちょっときつく感じていたが、着替える術はない。どこかで服を調達してもよかったけれど、なにしろこの顔だ。あまり他人に見られたくなかった。コンビニだけで精いっぱいで、改めて別の店に入って、買いものをする勇気もなかった。
警察の姿が見えないうちは、その場に留まってもいられる。だが、中学生にしか見えないアミは、見つかれば補導されてしまうだろう。一般の人だって、通報しないとも限らない。
港には何艘か船が浮かんでいる。その中の1つに隠れれば、どうにか夜をやり過ごせるかもしれない。だが、運悪く、そのうちの一艘がトランの船だと気づくのに、そう時間はかからなかった。一度はテレビ画面にも映った、明らかにほかにはないデザインの船だ。
トランは他の船を沈めてしまうかもしれない。唯一の逃げ道は、トランその人の船に乗り込むという、あまりにも大胆な作戦だった。ただ、相手は悪い魔法使いだと言われている。中で見つかれば、どんな目に遭っても不思議ではない。慎重に、見つからないように動かないといけない。問題は、どうすれば見つからずに侵入し、寝る場所を確保できるかだ。いったい何人の乗組員がいるのかも、わからない。いつでも後退できるように、後方を常に確認する以外、方法はなさそうだった。
一瞬、帰ったほうがマシなのでは、と思う。ただ、今のアミはまったく別人にさえ見える。だれだと問われるかもしれないし、家族に会うのも、それはそれで怖かった。
アミは震えながらも、騒ぎ立てる心臓を無視してトランの船に向かう。どうせこんな顔にされてしまったのだ。就活もできないし、学校やアルバイトにも行かれない。
沖へ出る漁船より少し小さいサイズのその船からは、煙突からもくもくと煙が上がっている。煙が出ているのだから、トランは中にいそうだった。
アミはちらちらと背後を振り返りながら、その奇妙なデザインの船に乗り込む。明らかに普通のデザインではない。船室全体がカーブした丸みのあるデザインで、暗くて外装の色はあまりよく見えないが、中心は猫の背中のように、カーブした形をしている。窓のいくつかから、光が漏れている。窓の形は、まるで紙の上にポタリと垂らしたインクの染みだ。四方八方にはじけたその窓の形は、どう考えても普通の趣味じゃない。
橋を渡り、通路をしっかりと確認して、船室のほうへ向かった。ドアの1つにそっと耳を押し当ててみる。その奥からは、何も聞こえない。ドアを開けてみようと、ノブに手をかけたそのとき、背後から声がかかった。
「あなた、何してるの?」
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