29.ヒーレンヴィルナの人口精霊です
「あなた、ちょっとこれを持っていてちょうだい」
レシアさんがマツリカの標本箱を手渡してきました。
そして、フワフワと漂う藤色に光る物体に手を伸ばしています。
「レっ……、レシアさん、これ、精霊……、ですよね? ヒーレンヴィルナの人工精霊? いったい、それは……」
ハル君が、戸惑いながらレシアさんに尋ねています。
「そうね、ヒーレンヴィルナ、クサフジの別名よ。いや精霊名と言った方が正しいかしら? 私が図書館で調べた精霊研究の本に載っていたのと同じ形なのよ。そして、その本には、ヒーレンヴィルナと記載されていたわ。クサフジの花として咲いているときは下向きだけど、精霊になると向きが逆さになるみたいね。ラッパの口が上向きになっているのが分かるかしら?」
本当ですね。目の前に浮かぶ精霊は、北方の海に漂うクリオネのように花弁を上向きにして、中空を泳いでいるようです。
「ツマトリソウのような花より、房になって咲くフジ科の植物の方が精霊になりやすいそうよ。そして、この形の精霊は、ヒーレンヴィルナと言う総称で呼ばれているらしいわ」
そうなのですね! このラッパ型の花の精霊が、ヒーレンヴィルナなのですね!
あれ? でも……、
「レシアさん! 人工って、どういうことですか?」
私は、レシアさんの呟きが、人工精霊だったことが気になりました。
「そうね。本来は……」
そこまで言うと、レシアさんは目の前に浮かぶ、ヒーレンヴィルナの人工精霊を猫の手で摘まみ上げて、詳細な観察を始めていました。
「依り代があるのよ。クサフジの花が精霊としてヒーレンヴィルナになったのであれば、本来はクサフジの花そのものが依り代になるわ。でも、これは……、良く見てちょうだい。ほら、依り代の花がなくて、幻導力の塊そのものよ。不思議ね。これに
レシアさんは、クネクネとのた打ち回る精霊の背中側を見たりしています。
藤色に光る精霊は、一見美しいのですが、そのクネクネと動く様は動物的で、どこかナメクジやヒルを連想させます。
そう思ってしまうと、私は
「では、依り代がないことが、人工物の証明になると?」
ハル君が問いかけています。
「なんとも言えないわね。ただ自然発生では、こういう精霊にはならないはずよ」
「であれば、やはり、これは、オートムが作り出した人工精霊の可能性が高いか……」
「そうなるわね」
レシアさんが答えると、不意に左手の廊下の奥の方を見つめました。
「リカちゃん、今、あの奥で、何か光らなかった?」
えっ? そうですか? 私は、レシアさんの肩越しに廊下の奥を見ましたが、光っているものと言えば、一階と同様に、廊下の中央に埋め込まれている幻導力灯だけです。
うーん、特に何もないような……、もう少し目を凝らして見た方が良いですかね?
でも、やはり、何も光ってはいないようですよ。唯一光っているものと言えば、目の端に入り込む……、
「レシアさん、その精霊が眩しくて、廊下の奥が見えませんよ」
「あら、それは、ごめんなさい。でも、もう大丈夫よ。私の見間違えだったみたい」
うん? そうなのですか?
と思っていると、レシアさんの猫の手に摘まみ上げられていた精霊が、徐々に霞んでいきました。そして、あれよあれよと薄くなり、最後は蒸発するように消えてしまいました。
「やはり、触れたら消えてしまうのかしら?」
レシアさんが、今はただの空間となってしまった、自身の猫の手の指先を、首を傾げて眺めています。
「しかし、不思議な存在だねぇ、やはり、オートムかソリン主任を捕まえて、聞いてみるのが早そうだ。さっきの窓の明かり、そして、この精霊がここにいるってことは、この掲示板の裏、二〇一研究室が怪しいと思わないかい?」
ハル君が、掲示板の案内を確認すると、そのまま壁沿いに歩きだし右へ曲がってしまいました。
幻子力研究所の二階の研究室は、全部で十室あるようです。掲示板の真裏が、二〇一号室、その奥に二〇二号室があり、その他の部屋は、階段を背に左手に続く廊下を挟んで、左右に二室ずつあり、手前から、二〇三、二〇四、廊下を挟んで、二〇五と続いて行くようです。そして、一番奥の二一〇号室がソリンさんの研究室のようです。では、この掲示板の真裏、二〇一研究室は、どなたの研究室なのでしょうか? 実は掲示板の案内には何も書いてありませんでした。空白です。階段を上り一番近い、この利便性の良い部屋は、使用者がいないことになっているのです。
なので、私とレシアさんは、慌ててハル君の後を追って廊下を曲がりました。
すると、既にハル君は、部屋の扉をノックしているところでした。
扉の足元の隙間から明かりが漏れていることから、この部屋に誰かいることは間違いないようですが、ハル君が何度ノックをしても、返事がありません。
何かあったのでしょうか? もしくは、居留守でしょうか? いや、大学の研究室で居留守ってことは、普通に考えてないですよね? あっ、でも、普通ではないのでした。ちょっと不安になりますね。私は無意識に、マツリカの標本箱をぎゅっと抱きしめていました。
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