第5話:ブラックマンデー、晋平の早期退職
企業の中には円高の影響を回避するため生産拠点を労働力の安い東アジアに移したり貿易摩擦を回避するために現地生産を進めた。外国で生産した工業製品の逆輸入やOEM生産「相手先ブランドによる供給」が増加。これにより国内では製造業が衰弱化する産業の空洞化した。
エネルギー・原材料に代わり製品輸入が増大。 特に、アジアNIESからの安価な製品輸入の増大により日本の貿易構造は変化した。ところが急激な円高圧力が強すぎ今度は、ドル安を招いてしまい。G5のメンバーにイタリアとカナダを加えたG7が「そろそろこの急なドル安に歯止めをかけましょう!」とした。
これが1987年2月のルーブル合意。ところがこのルーブル合意を持ってしてもドル安トレンドは止まらない。悪い事は重なり1987年10月にはニューヨーク株式市場で「ブラックマンデー」が起きてドルは、さらに一段安。1987年末には、ついに1ドル120円まで円高・ドル安が進行。
プラザ合意からたった2年ちょっとの間にドルの価値は文字どおり半減した。あまりにも急激すぎる円高に見舞われた日本は、輸出産業に深刻な大打撃。ルーブル合意でも止まらなかったドル安をなんとかするべく、G7は1987年12月22日に「これ以上のドル下落は好ましくありません!」と緊急声明。
クリスマス合意、もしくはクリスマス声明とも呼ばれるこれで、猛威を振るったドル安トレンドはなんとか一服。止まらない円高・ドル安に苦しみまくっていた日本にとっても、実にありがたいクリスマスプレゼントとなった。日銀は金融緩和政策に踏みきり公定歩合を下げ1987年には過去最低の2.5%とした。
こうして為替相場が安定し、低金利政策「日銀は公定歩合を7回に引き下げ」により生じた余剰資金が株式や土地投機へと向かい内需主導型の空前のバブル「1986から91年」が発生。1987年から景気は再び上向きに転じ平成景気となったが日本の不況が続くことになる。
この頃、ワリコーなどと呼ばれる高利回りの割引金融債券が、発売され銀行員は、その販売に高いノルマを課せられていた。宮入晋平は、1988年、体調不良を訴え、近くの大きな病院の内科を受診すると、すとれすによるものだとわかり心療内科に回された。
心療内科では、心身症であり、弱い精神安定剤「マイナー・トランキラーザー」を処方された。しかし、これは対照療法に過ぎず、もし原因が、銀行の営業業務だとしたら長期休職、完全に治療するなら、職業を変えるしかありませんねと言われた。
しかし、その後、体調が悪く、営業活動中に嘔吐、下痢、軟便とメニエール症状まで出て倒れてしまった。1ヶ月、休職したが、銀行の営業職に戻る気になれず、1988年年末のボーナスをもらい38歳の若さで退職せざるを得なくなった。
退職時の預金は500万円しかなく退職金の300万円で、合計800万円だった。仕方なく高尾駅近くの古い都営住宅の3DKを月に3万円で借りて住む事にした。そして、1989年4月から近くの公民館で中学生を対象とした進学塾を始めた。
1人の月謝3千円で火曜、木曜、土曜、日曜の週4回で5人ずつ20人を集めて開始した。1989年12月18日朝、証券会社の担当者から1974年11月に購入した三菱商事株の気配値が2000と高く、成り行き売りと言われ、全株成り行き株を指示。
すぐ売れ、今まで1.1分割を5回して約1.55倍に株数が増え1552株となり、税引き後利益が2900万円となった。これを聞き、宮入晋平は、体調不良で早期退職したばかりで、ひと安心した。その後、口コミで、学習塾の生徒さんが増え9月には40人になった。
これで月12万円と、何とか暮らしていけると考えた。そして1990年となった。その後も進学塾を継続していた。その後、1991年、最初の高校受験で、6人が立川高校、8人が八王子高校、5人が国立高校、7人が府中高校と、5人が国立八王子高専など名門校に合格。
その結果、翌年の生徒が増えて60人となり月謝も4千円に値上げした。宮入の長男の智和も国立高校に合格し通学し始めた。その後、都立アパートから民間の公団の3LDKで家賃8万円のマンションに1991年4月から移り住んだ。
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