第6話 高家筆頭・吉良家へ輿入り


 

 

 それから5か月後の万治元年12月21日。


 三国一と謳われる美貌に恵まれた三姫は、御輿渡役、御貝桶渡役、輿迎、輿送、足軽、若党ら数十名の行列を連らね、4人姉妹のなかでも破格の5,000石の化粧料(持参金)を携えて、鍛冶橋の吉良邸へ輿入りした。


 暮れも押し迫っての慌ただしい婚礼には、援姫の事件が大きく影響していた。


 ――将軍の縁戚筋である保科家との関係が稀薄になったことは認めざるを得ないが、その分を末娘の縁組みで補い、ご公儀とのつながりを少しでも堅固にしたい。


 そうした思惑が上杉家の人びと、ことに2代藩主・定勝亡きあと、実質的な領内の仕置きを行っていた未亡人・生善院のなかに働いたことは想像に難くなかった。


 贅を尽くした姫駕籠が出立しようとしたとき、サラサラと粉雪が舞い始めた。


「まあ、きれい!」


 生まれてこの方、江戸から一歩も出たことがない三姫には、まだ一度も足を踏み入れたことがない米沢の領民たちが贈ってくれた祝賀の花吹雪のように思われた。


 高家こうけ旗本(4,200石)として、大名と同格の格式を持つ吉良邸で待ち受けている花婿は、老中の支配下で千代田城(江戸城)内の諸式礼法全般を司る高家筆頭・吉良若狭守義冬の嫡男であり、匂うような男前で知られる吉良上野介義央(18歳)。まさに似合いの好一対の誕生である。


 舅・義冬。姑・志保。御書院の番士を務める叔父・弥清みつきよ。それに、いずれもまだ元服前の民部、長十郎、隼人、作十郎、七丸の5人の弟たち。それが、吉良家では富子と呼ばれることになった三姫の新しい家族だった。


 そのうえ、老乳母・村岡、傅役もりやく・浅間五郎兵衛信忠ら上杉がつけてくれた22人の家臣、さらには吉良家の家老から女中に至るまで、およそ100人近い家臣を、まだ20歳にも達せぬ上野介・富子夫婦が養っていかねばならない。


 ――大名なら1万石は下らないのに、その半分以下の俸禄でこの大人数を……。


 苦労知らずの三姫にも、家刀自としての家計のやりくりの苦難は想像がついた。


 富子の見たところ、大大名でありながら、衣食住の全般において質実剛健を旨とする上杉家に対し、高家筆頭という煌びやかな職種柄、加えて衣装道楽の妻・志保に甘い義冬の放任もあり、吉良家ではすべてにおいて驚くほどの派手好みだった。


 この家では、日々、身上以上のお金が、まるで底の抜けた柄杓のように出て行くことを、富子は嫁してほどなく知ることになった。

 

 翌2年、合力(家禄とは別に本人に下賜される俸禄)として米1,000俵を賜った夫・義央は、高家見習いとして出仕し、ほどなく、将軍の名代として日光東照宮の門跡に遣わされた。


 夫が留守のあいだ、富子は舅・義冬から吉良家の由来についての教授を受けた。


 義冬によれば、承久の乱の戦功で三河守護となった足利義氏(北条政子は伯母)を祖とする吉良家は、戦国の動乱で断絶したものの、徳川家の祖・松平氏との姻戚関係から再興を果たしたという。


 従兄・徳川家康と吉良氏中興の祖・義定の関係を、富子はとくに面白く聞いた。


 義定の子(義冬の父)・義弥よしみつは、高家の制度が創設された慶長13年に高家衆に就いた生粋の生え抜きで、仲間内で頭角をあらわし、少将まで進んだという。


 重々しく偉業を物語る義冬の誇らしげな口調の裏には、先代に勝るとも劣らない自身への自負があからさまに見える。果たして富子は、義冬自身が著したという「謝礼細工之部」「躾之部」「髪置之部」「献立之部」「小袖之部」「百人一首抄解」など250か条にわたる『吉良流伝書』を、長々と教授されることになった。


 この年9月、上杉家の兄・綱勝が、姻戚筋に当たる大納言四辻公理だいなごんよつじきみさとの娘で、偶然にも自分と名前が同じ富子を継室に迎えた。


 最愛の妻・援姫の急逝から1年余りが経過し、一刻も早くと世継ぎを望む周囲の勧奨もあり、独身を通すことはむずかしかったのだろうと、富子は傷ましい思いで兄の胸中を推察した。

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