第3話 幽閉の大先輩・松平忠輝





 天正20年(1592)1月4日、初代将軍・徳川家康の6男として江戸城で誕生した松平忠輝は、なぜか生まれついて実の父・家康に疎まれる運命にあった。


 その理由は、生母の茶阿局の身分が低かった(鋳物師いもじ出身)がゆえとも、忠輝の容貌が魁偉だったがゆえとも、または逆に、織田信長の命で斬殺させた長男の信康に酷似した端整な顔立ちだったがゆえとも言われるが、本当のところはわからぬ。


 とにかく6歳になるまで父との面会も適わず、下野国栃木城に捨て置かれた。

 同母弟で早くから取り立てられた(このあたりも理屈に合わぬ)松千代の早逝で武蔵国深谷1万石を与えられたのは、慶長4年(1599)、8歳のときだった。


 以後、風向きが変わったのか他の異母兄弟たちと分け隔てなく遇されたようで、3年後には下総国佐倉5万石に加増移封され、元服して上総介を名乗っている。


 さらに翌8年には信濃国川中島12万石に加増移封され、その当時、家康の信頼を一手に集めていた大久保長安を附家老とする待城(松代城)主の座に就いた。


 2年後の同10年、父・家康の命で忠輝は大坂の豊臣秀頼に面談に行っている。

 翌11年、全幅の信頼を寄せる附家老・大久保長安の仲介により、陸奥一帯を支配する大大名、伊達政宗の長女・五六八姫いろはひめと結婚。4年後の同15年には越後高田藩30万石を加封され、川中島14万石と合わせ、45万石の拝領に至った。


 夫婦は福島城に住んだが、同19年政宗の音頭取りで新築なった高田城へ移る。

 同年に起きた大坂冬の陣において、忠輝はなぜか家康から留守居を命じられる。

 翌年夏の陣では打って変わって大和口の総督を命じられた忠輝は兵を率いて出陣したが、戦後、次の理由により実父の家康から勘当を申し渡されることになった。

 

 ――大坂への途上、2代将軍・秀忠の重臣・長坂血鑓九郎ながさかちやりくろうの弟を殺した。

 ――肝心の戦場に大幅に遅参したため敵の首級しゅきゅうをひとつも挙げられなかった。

 ――戦後、越後高田への帰国時、家康の許可を得ず間道かんどう信濃路しなのみちを通った。

 

 大坂の陣終結から1年後の元和2年(1616)4月、自らの臨終を悟った家康は、4人の息子たちを枕元に呼んだ。


 早逝した長男・信康、5男・信吉、7男・松千代、8男・仙千代、さらには先年相次いで不審死を遂げた次兄・結城秀康および4兄・松平忠吉を除くと、家康の血を引く現存の男子は、3男・秀忠、6男・忠輝、9男・義直、10男・頼宜、11男・頼房の5人だったが、勘当中の忠輝のみ、ただひとり面会を許されなかった。


 ただし、だれも知らぬところで、きわめて重大な出来事が生じていた。


 家康の病床に最後まで付き添っていた忠輝の生母・茶阿局を通じて、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、3人の天下人に愛用されてきた因縁の篠笛「野可勢のかぜの笛」が、城下で待機する忠輝のもとにひそかに届けられたのである。


 その事実も理由も伏せたまま、同年4月17日に家康が没する(享年74)と、それから3か月も経たない7月6日、家康の生前から2代将軍の座にあった秀忠は異母弟の忠輝にとつぜんの改易を命じ、即座に伊勢国・朝熊あさまに流した。


 ときに忠輝25歳、五六八姫23歳。相思相愛の夫婦の永遠の別れとなった。

 2年後の元和4年(1618)3月5日、秀忠は忠輝を飛騨国高山へ移した。


 ――伊勢へ参らば朝熊を駆けよ 朝熊駆けねば片参り。


 古くから民衆の尊崇を集めてきた山岳信仰の聖域を早々に追い立てた背景には、謀叛はもとより、大衆の同情を集める危険がある切腹すら御法度、生かさず殺さずの生殺し状態に苛立ちを募らせた忠輝が、かつての配下の隠れキリシタンと組んで不穏な動きに及ぼうとしたためではないか、巷ではもっぱらうわさされたらしい。


 寛永3年(1626)4月24日、35歳の忠輝に再び配流替えが命じられた。

 3度目の流刑地は、標高が高い湖畔沿いで冬には極寒となる信濃国諏訪だった。



       *



 ――由姫どの。


 改易以来、つき従ってくれている44人の家臣団と共に移り住んだ忠輝さまは、天和3年(1683)7月3日、92歳の天明を全うされるまでの60年近い歳月を、まさにいまわたしが幽閉されている、この高島城南ノ丸で過ごされたのだ。


 その絶望、孤独の深さを想うと、わたしは身体の震えを抑えられなくなる。

 わたしも忠輝さまと同じ身の上をたどるのではないか。いや、この痩せ衰えた身体がそんなにもつはずがない。それに幽閉暮らしの生き地獄に堪えるくらいなら、いっそ早く懐かしい方々のもとへ逝ってしまいたい。思いは千地に乱れるのだ。


 ――由姫どの。


 カリカリと鼠に胸をかじられるような、払暁のさびしさといったらどうだろう。


 なにかに追われるように暮れ急ぐ、黄昏どきの寂寥ならわたしにも覚えがある。

「春千代(義周の幼名)どのはご聡明なだけあって、人一倍、勘の鋭いお子でしたからね。ことに冬の逢魔がときなんぞは、屋敷の暗がりに妖怪や幽霊など魑魅魍魎どもが潜んでいるとて怯えて大泣きするので、宥めるのにたいそう苦労したものですよ」祖母でもある養母の富子から、笑い話として何度となく聞かされてもいた。


 だが、その不吉な逢魔がときより、蓼科山から太陽が昇る前の森閑たる寂寞の方が病んだ心身には何層倍も応えることを、わたしは諏訪に流されて初めて知った。


 苦悶の疲れに助けられて眠りにつく夜にはまだ救いがある。

 だが、またしても新たな苦痛が始まる朝には絶望しかない。


 思い返せば、いまから2年半余り前の浅春、粗末な木綿の囚人着物を着せられ、罪人駕籠に乗せられたときは、まだぼんやりと希望を抱いていたような気がする。


 ――なにかの間違いだ。やがて真相が判明すればご公儀のお赦しも出るだろう。


 夜盗に押し込まれた側が罰せられるなどあるはずがないと、本気で思っていた。

 だが、頼りの江戸からはなんのお沙汰もないまま、いたずらに時ばかり重ねた。


 ――公方さまはもはや、わたしのことなどお忘れになってしまったのでは?


 ひとたび頭をもたげた黒い疑念は、日を追って嵩を増してゆくばかりだ。

 

 ――由姫どの。


 初々しく、やわらかく、愛らしく、恥じらいに富んだ薔薇の蕾のような唇。あの愛らしい膨らみに、せめてもう一度だけ、この手で触れることができたなら……。

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