第2話 諏訪高島城南ノ丸の幽閉屋敷


 

 ――由姫ゆきどの。


 何日も降りつづく雨に、一向にやむ気配が見えぬ。


 厳重な矢来に囲まれた幽閉屋敷からはうかがうことも適わぬが、陰うつな空の色をそのまま映す広大な諏訪湖の水面にも、烈しい雨粒が間断なく叩きつけて、岸辺近くに身を寄せ合う水鳥どもの安逸を、さんざんに脅かしていることであろう。


 祖父であり養父でもある・吉良上野介義央きらこうずけのすけよしちかが好んだ猿楽の龕灯返がんどうがえしさながらに、夏という一幕の終焉を告げる長雨があがると、広大な湖面を取り囲む四囲の山並みから、どっとばかりに秋が駆け降りて来る。それがこの短い季節の倣いであることを、余所者のわたしもすでに承知している。


 秋といっても江戸辺りのそれとはまったく趣を異にすることは申すまでもない。

 明瞭質朴な当地の人情さながらに、かっと照りつける真夏の強日差しとは打って変わる薄い日差しのもと、紅葉狩りだ茸狩りだと楽しんでいられるのはほんの寸の間のことで、当地の秋はことごとくを凍りつかせる極寒の季節への前触れである。


 地元ではうみと呼んで親しまれ、同時に畏れられてもいる信濃随一の諏訪湖。その湖面にせり出しまるで浮いているように見えることから浮城の異名を取る高島城。なかでも最突端の南ノ丸では、二六時中、水の気配のなかで暮らさねばならぬ。


 昼間は薄気味のわるいくちなわの存在に脅かされ、夜は夜で、枕のすぐ下を波音が洗う。そして、湖水が全面結氷する極寒の時節には、文字どおり氷の館と化する。


 ――由姫どの。


 幼馴染みにして許嫁でもある由姫どの。

 わたしはこの冬を無事に越せるだろうか。


 実父の上杉綱憲、祖母で養母の富子、実母の阿要之方……昨夏から秋にかけてのわずかな期間に相次いだ3人の訃報以来、わたしはこの先を生きる力を失った。


 日ごとに痩せ衰え、足腰も弱まり、近ごろでは庭へ降りることすらままならぬ。


 赤穂浪士による吉良邸討入への対応の不備を理由に、配流の重罪を申し渡されたわたしに江戸からの同行を許された、たったふたりの従者――家老・左右田孫兵衛(70歳)と中小姓・新八郎(山吉盛侍やまよしもりひと 25歳)は口々に励ましてくれる。


「若殿、どうかお気を強くお持ちくださいませ。年老いた爺の目から見ますれば生々流転は世の倣い。いまはひたすら堪忍一辺倒が肝要と存じます。ときが過ぎ、やがてお仕置きの潮目が変わりますれば、晴れのご大赦もございましょうゆえ」


「ご家老の仰せのとおりでございます。われらが大いなる誇りとする名門・吉良家を再興され、無念の死を遂げた大殿に報いてさしあげられるのは、若さまおひとりなのですから、その日までは、なんとしても生き延びていただかねばなりませぬ」

 

 だが、わたしにはどうしてもそうは思えぬのだ。


 ――相手方の浅野家へのお赦しはあろうとも、わが家へのお赦しは、あるまい。


「いかなる恩人であろうと、おのれの弱点を握られている人間は煙たいもの。それが人情というものじゃ。そうじゃ、たとえいかに高貴なお方であられようともな」あるとき、亡き養父上が独語のごとく呟かれたお言葉を、わたしは忘れておらぬ。


 高家筆頭こうけひっとうとして、代々の公方さまのおそば近くにお仕えしてきたわが家は、将軍家を取り巻く事実をつぶさに知る立場にあった。いや、知り過ぎたのじゃ。


 ――いつなんどき秘密を漏らすやもしれぬ口は、永遠に封じ込めるに限る。


 それもまた、頂点に立たれるお方の、きわめて率直なお心というものであろう。


 

 ――由姫どの。


 わたしが幽閉されている南ノ丸は湖を埋め立てた湿地で、当初は薬草園だったと聞く。おそらく四季の花々が咲き乱れ、蝶や蜂が飛び交い、木立ちでは小鳥どもが囀り交わす美しい場所であったはず。代々諏訪藩を治めて来た諏訪家では、ご当地ならではの珍しい薬草を栽培し、極寒の地の住人の滋養や療養に供せられて来た。


 その様相が一変したのは約80年前、寛永3年(1626)春のことであった。


 ――松平上総介忠輝まつだいらかずさのすけただてるさま。


 いまを去る二昔前、ほかならぬこの屋敷で無念の最期を遂げられた方のお名前を、図らずも同じ境遇に陥っているわたしは格別な想いで唱えずにはいられぬが、便宜上、以後の語りには、忠輝さまをはじめ登場人物の敬称は省かせていただく。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る