行列の街

宵野暁未 Akimi Shouno

第1話 行列の街

 その日、僕はいつものように家を出て、いつもの駅で電車を降り、いつもの改札を通り抜けた。

 ところが、駅から出てみると、何か妙な気がする。どこがどうと言われても説明できないのだが、なんだか無性にムズムズというか、ワサワサというか……。


 しばらく歩いていくと、行列らしき集団が見えた。通りかかった者がどんどん加わり、行列は見る見る長くなっていく。

 僕は出勤途中だし、高卒の入社一年目だから遅刻なんて許されないし、訳の分からない行列なんかに並んでいる暇はない。そんな行列なんか、目もくれずに通り過ぎる……つもりだった。


 何者かが、僕の腕をつかんだ。

「こっち、こっち。さあ早く並んで」

「えっ、でも僕は……」

「まさか、並ばないつもりとか?」

「あ、いえ、そういうわけじゃないんですが……」

「それなら、さあ」

 その男はすごい怪力で僕を行列の中に引き入れた。


「ちょっと、割り込みする気?」

 中年の小母さんの抗議の声だ。当然だよね。スミマセン。僕も割込みはダメだと思ったんだけど。

「そうです。みんな前の方に行きたいのを我慢して、マナーを守って並んでいるんです」

 老紳士も顔をしかめて言った。

「そうだよ、小父ちゃん。学校で習わなかったの?」

 小学生にも言われてしまった。

「あ、すみません。後ろに行きますから」

 まだ若いつもりなのに、お兄ちゃんではなくて、なんで小父ちゃんなんだと少々腹を立てながらも、顔には善人そうな笑顔を作り、僕は列から出ようとした。

「何言ってるんですか。あなたはいいんですよ」

 僕を行列に引き込んだ男が言った。

「でも……」

「この人はいいんですよ。皆さん、この人を知らないんですか?」

 その男は、まわりの人達に言った。

「あ、あなただったんですか」

「し、失礼しました、あなたとは存じ上げず」

「小父ちゃんと一緒に並べるなんて、学校で自慢できるや」

 改めて僕の顔を見たとたん、彼らの声は非難から歓喜へと一転した。並んでいたほかの人達のまなざしも、軽蔑から羨望へと変わるのが見て取れた。一体どういうことなんだ?

 だけど、そこまで言われ、そんな目で見られれば、僕も悪い気はしない。

「そうですか? じゃあ、このままここにいることにしましょう」

「まあ、嬉しい」

「是非そうしてください」

 僕は温かく迎え入れられ、その行列の途中に並ぶことになった。


「けれど、こうして並ぶのも、アレですわね」

「まったくアレです」

「でも、仕方ないですわね。他でもないアレですものね」

「小父ちゃんも、やっぱりアレなの?」

 アレって何なんだ? それに、そもそも何の行列なんだ? そう思ったけれど、みんなが知ってるアレを知らないことがばれたら、ヤバいのではないか。まあ、話を合わせておこう。

「そ、そうなんだ。アレなんだよ」

「だと思ったんだ」

 小学生は、満面の笑みで言った。


 どうしよう、会社に遅刻するな……とも思ったけれど、もしかしたら、会社よりもずっと大事な行列かも知れないと思えてきた。きっとそうに違いない。その証拠に、行列に加わらずに通り過ぎる者なんか一人もいない。

 僕は、後ろをふり返ってみた。短い時間に、行列は更に遠くまで伸びていた。もう、僕が降りた駅なんかよりずっと遠くまで伸びているかも知れない。

 行列の先頭はどこなんだろう。僕は身を乗り出して、前方に目を凝らしてみた。

「何なさっているんですの?」

 中年の小母さんが聞いた。

「え、いや、ははは。前の方って、どうなっているのかなあ……なぁんてね」

 行列は、前方に果てしなく続いているように見え、先頭なんか全く見えなかった。

「えー、やだなぁ、小父ちゃんたら。あはは、あはは……」

 小学生にウケてしまった。

「ユーモアのセンスにあふれているねぇ」

 老紳士も目を細めて嬉しそうだ。

「おもしろい方ね、おほほ」

 中年の小母さんも、若奥さんのように楽し気に笑った。

「よく言われます、ははは」

 もう笑ってごまかすしかない。本当に、この行列の先頭って、どこなんだろう。


 並んでいるのは日本人だけではないらしく、韓国語や中国語らしき言葉も聞こえてきた。それだけではない。白人や黒人も並んでいて、英語やドイツ語、フランス語らしき言葉や、今までに僕が聞いたこともないような発音の言葉も聞こえてきた。これはもう、国籍や人種を越えた全人類の、それどころか、生物学的分類をも越えた全生物的な、生命の維持・存続に関わる行列なのかも知れなかった。

 犬や猫までもが並んでいた。飼い主に連れられて、というわけでもないようだ。ウサギとカメが仲良く並んでいるのも見えた。行列のどこかには、象やライオンも並んでいるのかも知れない。きっとそうだ。そうに違いない。


「しかし、この行列、まったく進みませんね」

 そう言ってしまってから、僕は「しまった!」と思った。まわりの目が一斉に疑惑の色を帯びたのだ。ああ、どうしよう。せっかく今まで上手く合わせてきたのに。もうおしまいだ。

 一瞬、まわりがしーんと静まり、それから…………爆笑が起こった。

「わっはっはっは。いや、おもしろい。実におもしろい。なんておもしろい人なんだ」

「ほんと、ほんと。あはははは」

「おほほほほほ。素敵な冗談ですわ。おほほほほほほ。あなたって、おほほほ、思っていたとおり、おほほほほ、本当におもしろい方ね。おほほほほ……あら嫌だ、笑いが止まらないわ。おほほほ。なんて楽しいのかしら。おほほほほ……」

 中年の小母さんは、箸が転げてもおかしい年頃の娘のように、笑い続ける。

「いや、どうも、どうも。楽しんでいただけて何よりです」

 冗談を言ったつもりではなかったのに……。だけどまあ、失言による危機は乗り越えられたらしい。良かった。それに、この行列が前には進まないものらしいってことも分かった。それが分かっただけでも収穫じゃないか。

 僕は、ほっと安堵した。


「ところで、素敵なカバンをお持ちですね」

 老紳士が言った。

「え、これですか?」

 僕は肩から掛けた書類カバンを見た。使い始めて一年もたっていないのに、もう型崩れして、黒かった色も茶色っぽくなり始めている。お世辞にも素敵なんて代物じゃない。

 営業マンてえのは身だしなみや持ち物で取引相手に与える印象も違ってくる。だから安物は持ち歩きたくないのだが、給料を考えると、そう高い物も買えない。とほほ。

「いやぁ、安物ですよ。お恥ずかしい」

「またまた御謙遜を。その色、その艶、その皺の寄り具合。微かに見えるあなたの手垢までもが、まるで勲章のようじゃありませんか」

 なんなんだ、その誉め言葉。にこにこしながら、実は僕をおちょくっているんじゃないのか? きっとそうだ。そうに違いない、とは思ったものの、むきになって否定するのも何だし、ここはいつものように笑ってごまかしておこう。

 僕は、苦笑いした。

「まあ、なんて爽やかな笑顔。 見ているだけで癒されるわ」

 え……。僕は顔が引きつりそうになり、そのまま固まってしまった。

 冗談とは思えないうっとりとした眼差し。その熟年の婦人は、よく見ると、ゾクッとするほど美人だった。どうして今まで気づかなかったんだ? 声や仕草も色っぽい。

 だ、だめです。そんな目で僕を見て……。爽やかに笑ったつもりなんてなかったのに、困った時にはいつも営業スマイルでごまかしていたから、いつの間にか僕の笑顔は高度に洗練されていたのか……!?


「今はやりの‘お仕事男子’とか‘スーツ男子’とか言うのは、まさにあなたのような人のことなんでしょうなぁ」

 え? そんな言葉がはやってたの?

「おとなになったら、小父ちゃんみたいになりたいな。そして、そんなカバンを持つんだ」

 小学生が、憧れのまなざしで僕を見上げる。

「きっと君なら、僕なんかよりもずっと立派になれるよ」

 僕は、笑顔で心にも無いお世辞を言った。他の言葉が浮かばなかったんだから仕方ないじゃないか。

「小父ちゃんよりも立派になんて、そんなの考えられないよ。でも、小父ちゃんにそう言われると、すごっく嬉しい」

「そうかい? 君にそう言われると、小父ちゃんも嬉しいよ」

 いつの間にか、小父ちゃんと呼ばれることにも、自分をそう呼ぶことにも、僕は慣れていた。こうやって、人は色々なことに慣れていくんだね。

「ねえねえ、そのカバン、ちょっと持たせてくれないかな」

「あら、そんなことを言ってはダメよ。とても大事なものなのに」

「そうじゃよ。子供だからって、何でも許されるわけじゃない」

「だって、かっこいいんだもの」

 たしなめる熟年奥さんと老紳士。駄々をこねる小学生。

「別にいいですよ、持つくらい。本当に大したカバンじゃないですから」

 まさか中を見せろなんて言わないだろうな。内心ひやひやしながら、作り笑顔でカバンを子供の手に持たせると、子供はパッと瞳を輝かせた。

「わあ、すごいや」

 いやいや、ほんとに全然すごくないから。ただ、頼むから、中を見せてくれなんて言わないでくれよ。勝手に中を見たりもしないでくれよ。

「ねえ、ちょっとだけ中を見てもいい?」

 やっぱり、そうきたか! 困ったな。ここで断ったら……いや、僕にはそんな勇気はない。行列の人々は僕に期待しているのだ。それを裏切るなんて。だけど、カバンの中を見せるのも困る。今さら、そんな恥さらしなことができるはずがない。

「きっと、見たこともないようなすごい物が入っているんだろうなあ」

 小学生は、わくわくと僕を期待の目で見上げる。

「いやいや、大したものは入っていないんだよ。見てもきっとがっかりさせてしまうと思うんだよね」

「本当に謙虚なお方」

「さすが、人間が出来てる」

 熟年夫人と老紳士、僕の言葉を何でもプラスに受け取る。なんで?

 僕がカバンの中身を見せるのか見せないのか、周囲の視線が痛い。

 ええい、ままよ。もはや僕に選択の余地はないのだ。

「じゃあ、お見せしますが、きっとがっかりなさいますよ」

「ああ、なんだかドキドキしますわ」

 僕の方こそドキドキした。ああ、この後の展開がこわい。僕は彼女を落胆させる。小学生の子供に馬鹿にされる。行列の人々からさげすまれる。ああ、情けない。僕は、なぜ、こんな時のために備えておかなかったのだろう。せめて、彼女が喜ぶような物をカバンに入れておけばよかったのに。

 僕はカバンを開け、目をつぶって手を突っ込み、書類ではない何かをつかみ出した。

 ざわめきが起こった! ああ、やっぱり。僕は期待を裏切ってしまった……。

「ああ、なんて素晴らしいのかしら」

「まったくだ。言葉も出ないくらいだ」

「すごいなあ、いいなあ」

 そう言われて、僕は自分の手元を見た。僕の手がつかんでいたのは、見覚えがないどころか、見たこともない物だった。一体これは何なんだ? どうしてこんなものが僕のカバンに入っているんだ?


「自在耳をお持ちだなんて、やはり凄い人だ」

「かっこいいなあ」

「憧れますわ」

 自在耳? 聞いたこともない。

「わたくし、一度でいいから使ってみたいと思っていましたのよ」

 へえ、そんなに凄い物なのか。だけど、僕には使い方も分からない。

「宜しければ、使ってみますか」

 彼女が使うのを見れば、使い方が分かるに違いない。それに、頬を紅潮させて少女のように喜んでいる彼女を見ると、僕も嬉しくなる。

「まあ! いいんですの?」

 ああ、彼女の僕を見る瞳! 眩しく輝く星のようだ。

「勿論ですとも」

「おお、なんと気前のいい、なんと心の広い人なんだろう」

「すっげえなあ」

「さあ、どうぞ」

 僕は、彼女の目の前に、自在耳なる物を差し出した。

 そうなんだよ。僕は気前が良くて心が広くて、今や彼女の憧れの存在。身震いしそうだ。

「でも、そんな、いけませんわ」

 熟年美人は首を振った。

「僕は全然かまいませんよ」

 僕は、ありったけの笑顔のつもりで微笑んだ。

「ああ、使ってみたい」

「遠慮なんていりませから」

「ああ、どうしようかしら」

 なんてセクシーな声なんだ。もっと聞かせてくれ。

 だけど、どうしてそこまで迷うんだろう。自在耳って、使うのを迷うような物なのか?

「奥さん、お気持ちはお察ししますが、お止めになったほうが」

 老紳士が言った。くそぅ、なぜ止めるんだ。

「ええ、分かっていますわ。本当に使ってみる勇気はありませんのよ。せっかくの御厚意を、申し訳ありませんわ。でも、お気持ちは、本当に嬉しいんですのよ」

 奥さんは、本当に済まなさそうに、上目遣い僕を見た。

「そ、そうですか。いや、無理にお勧めして、僕のほうこそ申し訳ありません」

 ああ、僕は心底後悔した。なぜ無理に勧めたりしたんだろう。彼女を困らせてしまうなんて、僕はなんて駄目な奴なんだ。自在耳の使い方なんて、どうでもいいことじゃないか。

「あなたが謝ることなんてありませんのよ。どうぞお気を悪くなさらないで」

 ああ、なんて優しい心遣いだろう! 彼女が許してくれるなら、僕は天にも昇れる。

「許してくださるんですか」

「あなたは素晴らしい方ですわ」

 ああ、素敵な微笑み。素晴らしいのは、奥さん、あなたです! 僕は、思わずそう叫びそうになった。

「ねえねえ、自在耳の使い心地って、どんな感じ?」

 小学生が、目を輝かせて聞いてきた。もちろん、彼女の瞳の輝きには及ばないが、無邪気そうで可愛いとも言える。

「ああ、なかなかのもんだよ」

 どんな風になかなかなのかと聞かれたら困ると思いながら、僕は答えた。どうか、あんまり突っ込んだ質問はしてくれるなよ。

「やっぱりそうなんだ。ねえ、どんな風に?」

 やっぱり聞いてきたか。困ったなあ。……そうだ、いいこと思いついたぞ。

「あまりの不思議さに、口では表せないくらいだよ」

 どうだ、参ったか。我ながら、グッドな答え方だ。

「ほえぇー」

 小学生は感嘆の声を上げた。

「ねえねえ、それじゃあ、自在耳を持っているなら、もしかして、自在眼鏡も持っているの?」

「ええっと、どうだったかなぁ」

「持っていないのぉ」

 小学生は、今にも泣きそうな顔になった。

「いや、持っているんだけど、今日は持ってきていないかも知れなくて……」

「そんな、嘘だよ!」

 とうとうばれたか。そう、嘘なんだよ。でも、悪気は無かったんだよ。お前があんまり期待した目で見るから悪いんじゃないか。

「あんな凄い物を、家に置いてくるなんて、考えられないよ」

 小学生が泣きわめいた。え? 嘘って、そういうこと?

「あ、いや、僕はちょっと忘れっぽいところがあってね」

「ぼうや、困らせてはいけないわ」

「そうだよ。大事な物だから、そうそう人には見せたくないんだよ。自在耳を見せてもらえただけでも、じゅうぶん有り難く思わなくてはね」

 ああ、このままでは僕の評判が下がる。口ばっかりの、しみったれた奴だと思われる。ああ、その自在眼鏡とかいう代物、僕のカバンに入っていないだろうか。いや、もしかしたら入っているかも知れないぞ。見たこともない自在耳だって入っていたんだから。

 僕は、もう一度カバンに手を突っ込んでみた。あっ、何かに手が当たったぞ。僕は、それをつかみ出した。

「わあ、すごい。やっぱり小父ちゃんてすごいや」

「ほお、それが自在眼鏡ですか。実物を見るのは初めてですよ」

「わたくしもですわ」

 僕もなんだけどね。

「でも、そんなにすごい物を持ってるなら、小父ちゃん、どうして並んでいるの?」

 えっ、自在耳や自在眼鏡を持っていると、行列に並ぶ必要はないってことなの? 僕は、また、危機に陥ってしまったようだった。ああ、誰か助けてくれ。

 あれっ、待てよ。

 僕は、ふと気が付いた。持っているはずもない自在耳とか自在眼鏡とか、そんな物が都合良くカバンから出てくるなんて、どう考えてもおかしいじゃないか。だいたい、この行列自体が馬鹿げている。僕が列に割り込んでも皆がそれを歓迎する、なんてぇのもあり得ない話しだ。つまり、これは夢に違いない。

 そうだ、夢なんだ。夢だということは、僕の都合いいように展開するに決まっている。なんだ、そうなんだ。慌てることなんて無かったんだ。それに、万が一都合の悪い方に展開しても、目を覚ませばいいだけのことなんだから。そうだよ。なぜもっと早く気が付かなかったんだろう。


「どうかなさいましたの?」

 美人の奥さんが、心配そうに僕を見ていた。

 夢ということは、彼女も夢の中だけの存在なのか。そう思うと、ちょっと残念な気もする。だが、考えようによっては、彼女は本当に僕だけのものということだ。もっと僕を見つめてくれ。ああ、この夢から覚めたくない。


「子供の言うことなんか、気になさる必要はありませんわ。並ぶ必要が無いのに並ぶなんて、本当に誠実で優しい方ですのね」

 彼女は、うっとりと僕を見つめた。

 ほうら、やっぱり夢なんだ。でも、夢でもかまわないぞ。ああ、彼女のゆれる眼差し。もうこの行列が何の行列かなんてどうでもいい。

「奥さん!」

 僕は、彼女の手を取ろうとした……んだけれど……

「おやっ。列の前のほうで、喧嘩が起きたようですよ」

 老紳士が言った。

 確かに、争うような騒ぎが聞こえてくる。

「まあ、嫌だわ、喧嘩なんて」

「大人のくせに子供みたいだね」

 僕は喧嘩なんかどうでも良かったんだが、もう、彼女の手を取るわけにもいかなくなった。それに、どのみち手は塞がっていたんだ。自在耳と自在眼鏡を持っていたからね。


「ねえねえ、自在耳と自在眼鏡で様子を探ってみたら?」

「そんなことをして、いいのかな」

「いいに決まっているよ。小父ちゃんの自在耳と自在眼鏡なんだもの」

 どうやって使うのかは分からなかったが、とにかく、自在耳を左耳に当て、自在眼鏡を右目に当ててみた。すると、それらは、まるで磁石のように僕の耳と目に吸い付き、離れなくなった。

「小父ちゃん、何か聞こえる? 喧嘩してるのって、どんな人?」

「ええと……」

 僕は返事につまった。

 今まで見えていた景色と何も変わらず、聞こえてくる音も変化なし。くそう、使い方が分かればなあ。……それとも、やっぱりマヤカシなのかなあ。


 左手を自在耳に当てがい、右手を自在眼鏡に当てがって、とにかく触れる部分を触り、動かせる部分を動かしてみる。

 耳がキンキンし、目がクラクラしたが、そのうちに、喧嘩らしき声が左耳から聞こえ、右目にその男の姿が見えてきた。片方の男は知らない奴だったが、もう一人は、なんと、会社の課長だった。警官らしき男達が、二人を取り押さえている。

「ねえってば」

 小学生が、僕の体をゆすって催促した。

「ああ、そうだったね。今ちょうど、男が二人、警官に取り押さえられたよ」

「怪我とか、してるの? 血が出たりとか」

「目の上が、あざになって腫れているようだね」

「警察の人、何か言ってるの?」

「五百人後ろの刑だと言っているよ。そんなに後ろは嫌だーって、また暴れている。すごい形相だよ」

 それがどういう刑なのかは知らないが、察するに、行列の順番を五百人後ろに移されるってことなんだろう。それが、そんなに必死に暴れるほど嫌な刑だってことは、この行列、先着何名様とか決まっているんだろうか。何をくれるのかなあ。


「当然の刑ですわ」

「いやいや、五百人なんて甘い。千人か五千人でもいいくらいじゃないかね?」

「わたくし、百人後ろの刑だって嫌ですわ」

「ボクだってそうだよ」

 後ろになるのが、そんなに嫌なのか。この行列、本当に一体何の行列なんだろう。『五百人後ろの刑』があるなら、『五百人前の褒賞』とかもあるのかなぁ。


 そうこうするうちに、喧嘩をしていた二人が、警官らしき男達に引きずられるようにして近付いてきた。僕は目をそらせようとしたが、それよりも早く、課長のほうが僕に気付いたようだった。

矢上やうえ君、矢上君じゃないか。君も並んでいたのか」

 課長は、敵地で戦友に出会ったかのように瞳を輝かせた。矢上やうえ? それが僕の名前なんだろうか。今の今まで自分の名前が何かなんて考えもしなかった。矢上という名前は聞き覚えがあるような気もするが、初めて聞くような気もする。分からない。そう言えば、課長の名前は何だっけ?

 課長は、なおも、すがるような視線で僕に訴えた。

「矢上君、君なら分かるはずだ。この行列、おかしいじゃないか。どうして君は、当然のようにそこに並んでいられるんだ」

 どうしてと問われても困る。成りゆきでこうなってしまった。でも、今さら行列から抜ける勇気なんて、僕にはない。

 そうなんですよ、課長。どうぞ僕を笑ってください。これが、社内一の爽やか好青年と言われる僕の、爽やかゆえの欠点なんです。周囲の期待は裏切れない。僕は、自分の爽やかさに負けたんです。笑ってください。笑ってください、課長。あれっ、社内一の爽やか好青年? 僕ってそうだったっけ?

矢上やうえ君、残念だよ。君に期待していたのに。君なら、君ならば、この行列の救世主になれると思ったのに」

 そ、そんなに期待されていたなんて……。すみません、課長。僕は、課長の期待には応えられないんです。救世主にもなれません。僕は凡人なんです。呆れるほど平凡な情けない奴なんです。こんな僕を、どうか、どうか、許して下さい!


 僕が目を伏せ、肩を震わせていると、課長の絶叫が聞こえた。

「助けてくれえー! 後ろにしないでくれえぇー!」

 僕は、耳を押さえ目をぎゅっと閉じた……つもりだったが、自在耳と自在眼鏡を左耳と右目に当てたままだったので、目をつぶることも耳を閉ざすこともできなかった。

 カチッ。

 間違って何かのスイッチに触れてしまったらしかった。

 ビョギューーーン!

 僕の目は、突然、神の視点となった。全てが見えた。


 何が見えたかって?

 いや、それは聞かないほうがいいと思うよ。悪いことは言わない。黙って行列に並んでいれば、とにかく今はしあわせでいられるんだからね。


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