第4話 高校3年の秋
ふと目を覚ますと、僕は保健室のベッドの上にいた。鼻血をずいぶん出して、貧血で寝ていたらしい。寝ている間、中学生の頃の夢を見ていた気がする。
結局佐藤さんと小田は卒業前には別れていたらしい。2人とも別の高校に行ったから、あれからずっと会っていない。思えばあれ以来、僕は女性がわからないなんて言って、意識的に女性と関わらないように過ごし続けていた。でもトラウマなんて大層なものではない。ただの照れ隠しかもしれない。
試しに身体を起こしてみると、意外にも普通に起きることができた。保健室の先生曰く、たぶん鼻は折れていないから、よっぽど心配なら病院に行くといいとのことだった。僕はなんとなく大丈夫な気がしたので、いつも通り授業に出て、図書室で本を借りて、家に帰ることにした。
唯一いつも通りじゃなかったのは、眼鏡が壊れたせいで周りが全然見えないことだ。いつもなら図書館でちょっと本を読んでから帰るのだが、今日は読みづらくて仕方がない。母にLINEで眼鏡が壊れたことを伝えたら、帰り道にいつもの眼鏡屋で新しいものを買ってこいとのことだった。
スマホのキャッシュレスアプリに母からお金が送金される。便利な時代になったものだ。
視界はぼやけているが、さすがに通い慣れた道、僕は電車の乗り換えをこなし、最寄駅に辿り着いた。
駅から徒歩5分、眼鏡屋の前に着き、僕は自動ドアの前に立つ。いらっしゃいませという女性の声が聞こえ、声の方を向く。視界がぼやけてよく見えないが、店員さんはあわてて何かをポケットにしまったように見えた。気のせいかもしれない。
「本日はどうされましたか?」
明るい口調で店員が尋ねる。あんまり見えてはいないが、見た目と声の感じからして、ほぼ同年代に見える。眼鏡屋にしては珍しく、高校生バイトだろうか。
「眼鏡が完全に壊れちゃったんで、新しく作りたいです」
僕は真っ二つになってレンズもヒビ割れている眼鏡だったものをバッグから取り出す。
「これは…完全に壊れてますね。ではまず視力を測るので、奥のスペースにお進みください。係のものが対応します」
僕は言われるがままに奥に進む。係のおじさん店員が明るく対応してくれた。お馴染みの視力検査をこなしたあとは、レンズの取り外しが可能な不格好な眼鏡をかける。おじさん店員がその場でレンズを何枚も重ねて組み合わせて、1番自分の目に合うレンズを探してくれる。
「あ、このレンズ見えやすいです」
「遠くの見え心地はいかがでしょうか。あちらの方もご覧になってみてください」
僕は店員さんに促されるまま、先程入ってきた入り口の方を見る。最初に接客してくれた店員さんが眼鏡の陳列を整えていた。
視界がぼやけていたときは気づかなかったが、あの店員さんはどこかで見たことがあるような顔をしていた。見えやすいとはいってもここからでは距離があるので、顔のパーツまでははっきりと見ることができない。遠目で見てもわかるのは、あの店員さんがたぶん美人さんだってことくらいだ。
レンズの度が決まったら不格好な眼鏡を外し、フレーム選びだ。フレーム選びは最初の店員さんが担当してくれることになった。
改めて店員さんに近づくと、ふと店員さんの風貌に違和感を抱く。どこかで見たことあるような雰囲気のせいかと思ったが、案外すぐに原因がわかった。
「店員さん、眼鏡してないんですね」
女性に免疫がついたなんてことは全くないが、視界がぼやけていると恥じらいの心までぼやけるのかもしれない。意外にもこの僕が、同世代の女性に自然と話しかけることができた。
「あはは、えーと、眼鏡をかけていない眼鏡屋さんがいても良いかな、なんて思うんですよね。やっぱり変でしょうか」
「いえいえ、全然良いと思いますよ。眼鏡をかけないことが特徴になるなんて、すごく面白いです」
喋りながら僕は自然と店員さんのネームプレートに視線を移す。なんて書いてあるか、目を凝らせばギリギリ読める。
えーと、名前は、、佐藤……
「ありがとうございます。ちなみにこんなフレームはいかがですか?お客様くらいの年代の男性に人気の形ですが」
フレームよりも、僕は店員さんの顔に目がいってしまった。佐藤なんて名前はよくある名前だ。でもこの佐藤さんはまさか、あの佐藤さんなんだろうか。僕はぼやけた視界で必死に目を凝らした。
「…ぷはっ」
突然店員さんが吹き出すので、僕はびっくりして目を見開く。
「あは、ごめんなさい。眉間のシワ、凄くて、思わず。笑ってしまってごめんなさい」
店員さんは恥ずかしそうに申し訳なさそうにしながら、口に手をあてている。
あまりに目を凝らしすぎて笑われるなんて結構恥ずかしいが、僕は意外とそこまで気にしていなかった。
それよりも気になるのは佐藤さんだ。でも3年も経っていれば人の顔も変わるし、この佐藤さんがあの佐藤さんなのか、今の僕の視力ではどうしたって判断がつかないだろう。それなら開きなおって、知らない佐藤さんとしてお話をしてみよう。今の僕ならできる気がする。
「すみません、僕本当に目が悪いんですよ。視力0.1ですもん。ちなみにですけど、もしかして店員さんもさっきから目を凝らしてません?」
「あ、気づいちゃいましたか?でも私は視力0.5はあるんで、ちょっと目を凝らすだけで見えますよ」
「あはは、眼鏡かければいいじゃないですか、眼鏡屋さんなんだから」
「個性を出す為に頑張っている変な眼鏡屋さんです、よろしくお願いします、あはは」
変な会話だが、こんなに女性と自然に話せたのは初めてかもしれない。その後も自然に会話をしつつ、僕はフレームを選び終わり、無事に眼鏡を買うことができた。明日にはもう完成し、受け取ることができるらしい。
もし明日もあの店員さんがいれば、眼鏡をかけて店員さんの顔を見ることができる。帰って卒業アルバムを見て、もう一度佐藤さんの顔を瞼に焼き付けておくとしよう。そうしたらきっと、佐藤さんがあの佐藤さんなのか、ちゃんと答えが出るはずだ。
僕は家に帰って久しぶりに卒業アルバムを開く。佐藤さんの顔は、当たり前だが覚えているそのまんまの佐藤さんだった。不思議とそんなに懐かしさは感じない。やはり佐藤さんの顔を忘れたりはしていないようだ。しかし唯一すっかり忘れていたのは、左目の下のほくろだ。このほくろを見れば、明日ちゃんと答え合わせができるだろう。
考えてみれば、佐藤さんの行った高校は僕の通う高校と違って、バイトが可能な校則だったはずだ。やはり可能性は十分にある。
僕は不思議な気持ちでベッドに入る。僕は今日の佐藤さんが、あの佐藤さんであってほしいのだろうか。もしあの佐藤さんだったら、もう小田とは付き合ってないんだし、連絡先でも渡してみようか。今もフリーかはわからないが、いきなり彼氏に肩を掴まれて咎められることはないはずだ。でも僕にそんなことができるのか、そんなことをしたいのか。
僕は僕の気持ちがわからなかった。
昨日はなかなか眠れなかったが、今日は土曜日なので寝不足でも大丈夫。僕は開店に合わせて眼鏡屋に向かった。いらっしゃいませと聞こえてきた声は、昨日と同じ声だった。見えているようで見えていない、ぼやけた佐藤さんの顔。あなたはあの佐藤さんなのか、いよいよ答えがでる。僕は椅子に座って、佐藤さんから新品の眼鏡を受け取った。
眼鏡をかけた瞬間、世の中の全てのもののピントがピタッと整えられる。全てがクリアだ。佐藤さんの顔がはっきりと見える。
目の前にいる佐藤さんは、クリアな世界でも可愛らしい顔立ちをしている。綺麗な黒髪を後ろで1つに束ねており、やはり年齢も同い年くらいに見える。
しかし、左目の下にほくろはなかった。
よくよく見ると、目や鼻の特徴もあの佐藤さんとは異なっていた。この佐藤さんは、僕の知らない佐藤さんだ。
だったら当然、連絡先なんて渡せるはずがない。
僕は佐藤さんにしっかりと礼を伝えて、足早に眼鏡屋を出た。
歩きながら自分の気持ちを分析してみると、意外と安心している自分がいた。あの佐藤さんを好きだったのなんて、もう3年も前の話だ。あのときのことが、初めて自分の中で過去になった気がする。
はっきりと見える世界に安心しつつも、逆にぼやけた世界のおかげで、僕だって女性と自然な雰囲気で喋ることができると気づけた。見えなくなることで新たな自分が見えるなんて面白い。これは今回の出来事による大きな収穫だ。奥手な自分を卒業する良いきっかけになったかもしれない。
あのときの逃げるように教室を出た僕の足取りとは違う、今の僕の足取りは力強い。
次の月曜日、クラスの本好きな女子に話しかけてみようかな。鬼の読書談義を久しぶりに解禁しよう。
その子の名前はたしか……
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