第3話 中学3年の夏

「安田!」


「え?」


 顔面にバスケットボールがぶつかる。鼻が熱を帯びて、じんわりと痛む。鼻の無事を確かめようと右手で触ってみると、少しだけ指先に鼻血がついた。


「大丈夫か安田?」


 少数精鋭グループがすぐに集結して心配してくれた。


「眼鏡無事でよかったな」

「でも鼻血出てるじゃん。先生、安田鼻血出ました」


「おお、鼻血か。このクラスの保健委員はー、佐藤か。佐藤、安田を保健室へ連れて行ってやれ」


 まさかの展開になった。佐藤さんは僕にティッシュを差し出しながら心配そうに覗き込んでくる。佐藤さんと目が合うも、僕は咄嗟に目を逸らす。恥ずかしいけれど、急いで鼻にテイッシュを詰める。


「大丈夫?行こう」


「うん、ごめん、ありがとう、ございます」


 初めて佐藤さんと喋った。心臓の鼓動が急に早くなる。おかしい、こんなのは初めてだ、鼻血が出たせいだろうか。

 無言のまま、2人は保健室に向かう。


 佐藤さんと話してみたいことは色々考えていたが、いざ話せる状況になると、何も頭に浮かんでこなかった。鬼の読書談義はどこにいってしまったのか。色々と話すイメージをしていたといっても、鼻にティッシュを突っ込みながら話すことは想定していなかった。脳内は少々パニックに陥る。


 結局特に会話がないまま、2人は保健室に着く。佐藤さんが扉を開けてくれると、中で保健室の先生が暇そうにしていた。

 保健室の先生曰く、骨も折れてなさそうだし、しばらく安静にすれば大丈夫とのことだ。保健委員の仕事は、あとはそれを体育の先生に伝えるだけ。2人の時間はあっという間に終わりを迎えた。


 保健室の出口に向かう佐藤さんは、扉に手をかけたところでふと振り返る。


「そういえば安田くん、今日の昼休み本読んでたでしょ。あの本面白いよ。それじゃ、お大事に」


「あ、、うん、、ありがとう」


 あまりに突然の出来事だったから、せっかく話しかけてくれたのにまともな返事ができなかった。お礼を言うのが精一杯だった。


 そんな自分に一瞬凹んだが、すぐに僕の気分は高揚する。僕の読んでいた本を、佐藤さんは見ていた。僕と同じように、佐藤さんも僕の読む本に興味を持っていたのかもしれない。


 その日の放課後、僕は急いで家に帰り、面白いと言われた本の続きを一気に読む。夜遅くまでかかってしまったが、確かにこの本は面白かった。


 この本は、僕が普段読まないタイプの本だった。中学の卒業式で初恋の相手に告白をするも玉砕してしまった主人公が、大学生になってから初恋相手と偶然再会し、改めて恋に落ちる。いわゆる王道ラブストーリーだ。

 

 佐藤さんが読んだ本だと知ったからだろうか、なおさら面白く感じてしまう。僕は感想を頭にまとめながら、佐藤さんに話しかけるシミュレーションを何度も繰り返した。


 明日の昼休み、佐藤さんに話しかけよう。佐藤さんと今度こそ、鬼の読書談義をするんだ。




 昼休みのはじまりを告げるチャイムが鳴る。僕の心臓は激しく鼓動していた。ただクラスメートに話しかけるだけ、本の話をするだけ。自分にそう言い聞かせてみるが、鼓動は収まらない。何故こんなに緊張してしまうのだろう。僕は昨日読み終わったばかりの本をギュッと握りしめる。


 うじうじしてたら佐藤さんが席を立ってしまうかもしれない。僕は意を決して立ち上がり、佐藤さんの席に向かった。


「さ、佐藤さん。昨日はありがとう。本、読んだんだ、面白かったよ」


 ちょっと噛んでしまったが、話しかけることができた。人生初、僕は女子に話しかけた。


「安田くん、もう読み終わったんだ。やっぱり面白かったでしょ。最後のオチが意外じゃなかった?」


 佐藤さんは自然と話を振ってくれた。僕の気持ちが一気に高揚する。


「うん、うん、予想外だった。まさか主人公が──」


「おい安田、俺の彼女に何の用だよ」


「え?」


 高揚していた気持ちが一瞬で覚める。いつのまにかバスケ部の小田が僕の肩を掴んでいる。俺の、彼女…?


「ちょっと小田、別にいいでしょ。本の話をしてるだけじゃん」


「また本かよ、本ならスラムダンク読めよ。俺10回は読んだぞ」


「スラムダンクは今はいいから。ごめんね、安田くん」


「いや、いや、大丈夫大丈夫。トイレ行きたいから、僕もう行くね、じゃ」


 逃げるように教室を出た。佐藤さんが小田と付き合っている、信じられない。こんなの初めて知った。そんな噂があっただろうか。2人のタイプが違い過ぎる、性格が合うわけがない。どうしてこの2人が…


 それからというもの、僕はずっと抜け殻のようだった。午後の授業のため、働かない頭でクラスのみんなについていく。午後の体育はグラウンドでサッカーの予定だったが、急な雨で予定変更。体育館でバスケになった。そういえば昨日も雨でバスケになったんだっけ。昨日はそのあとすぐ晴れていたけど。


 バスケの試合中も、僕はずっと佐藤さんのことを考えていた。


 もしまた鼻血を出せば、きっと佐藤さんと2人きりになれる。小田なしで、ちゃんと話ができる。パスを呼んで、わざとボールにぶつかろうか…


 そんなことを考えていたら、突然本当にパスがとんできた。


 わざとだったのか、本当にとれなかったのか、どちらか定かではないが、バスケットボールはまたも僕の顔面を捉えた。


「おいおい2日連続か、大丈夫か安田」


 体育の教師が僕に駆け寄って声をかける。僕は右手を鼻にあててみるが、指先はいつも通りの肌色をしていた。


「おい桜木ー、安田の顔面に当てても点は入らねーぞ」


 小田がそう叫ぶと、クラスのみんながどっと笑った。桜木が僕に謝りにくる。


 桜木の謝罪の声はほとんど耳に入らなかった。今日は昨日より軽症だから、ステージの上で休憩していろと体育の先生から言われる。


 ステージの上で体育座りをしながら僕は俯く。


 もし本当に鼻血が出ていたら、僕は佐藤さんにどんな話をするつもりだったんだろう。


『どうして君が小田なんだ。お調子者でバスケ部のエースの小田と、もの静かで読書好きな君、まるで違うじゃないか。でも僕と君なら、絶対に性格が合う。お互いに好きな本の話をしようよ、僕らの本の趣味はかなり合ってると思うよ。小田より、僕と一緒のほうが絶対楽しい。僕と付き合おう、佐藤さん』


 言えるはずがない。絶対に言えるはずがない。僕にそんな度胸はない。鼻血が出なくてよかった。


 自分が勢いで想像した台詞をもう一度思い返したとき、今更になって僕は気づく。


 僕は初恋をしていた。


 そして今日、あっさりと終わった。



 ふと前を見ると、小田が得意げに格好をつけたドリブルを繰り返して、シュートを決めてみせていた。佐藤さんが笑顔で拍手をしている。その笑顔は、僕が初めて見る佐藤さんの笑顔だった。


 僕は俯いてそっと呟く。


「バスケットボールなんて嫌いだ」


 本当に嫌いなのは小田だけど、それはただの逆恨みだ。小田は佐藤さんを笑顔にしている。


 バスケットボールなら、僕の鼻に2回もぶつかってきたんだ。嫌いになったとしても、逆恨みじゃないだろう?

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