さよなら風たちの日々 第3章ー1 (連載5)

狩野晃翔《かのうこうしょう》

さよなら風たちの日々 第3章ー1


              【1】


 五月。萌える緑が陽の光を浴び、自己主張を強めようとする五月。

 風はおだやかに街を通り抜け、街路樹のプラタナスの葉を静かに揺らしている。それはまるで野や山を駆け抜ける風がそのまま街に下りてきたものなのに、しかし街は何ひとつ街を通り抜ける風と、野や山を駆け抜ける風が同じだということを気づこうとはしなかった。

 この風が同じだということが、どうして分からないのだろうか。それともわざと、気づかないふりをしているのだろうか。

 街が季節に取り残されることなど、あるわけがないのに。


              【2】


 そんな五月の昼休み。ぼくは信二と一緒に五階建て校舎の屋上に出て、ぼんやりと外の景色を眺めていた。

 そこには見渡す限りの団地、工場、倉庫、マンション、民家などが広がっている。

 さらにそれらを区分けするかのように伸びている幹線道路。そこにはバス、トラック、乗用車、営業車、オートバイなどが動脈か静脈の中の血液のように流れ続けている。

 遠くに目を移せば、雄大な富士山だ。ここからでは小さくしか見えない富士山は、今日も黙して、何も語らない。

 ごみごみしていたって、薄汚れていたって、ぼくはこの東京が大好きだった。


              【3】


「ヒロミのこと、どう思う」

 信二がぼくに訊ねた。

「どう思うって言われたって」とぼくは困ったように前置きしてから、

「そうだな。あいつ。少し暗いんじゃないかな。いつも思い詰めた顔をしてるように見えるもんな」と、答えた。

 信二が切実な顔をして、つぶやく。

「おれ、弱いんだよね。ああいうタイプ。・・・何か、守ってあげたいって気持ちになるんだよ」

 

 ぼくは黙っていた。

 ヒロミ。織原ヒロミ。今年の新入生の中で、一番か二番の可愛い子と話題になっている織原ヒロミ。いや、ぼくは個人的にはヒロミは今年の新入生で一番の可愛い子と思っているのだが、それは口に出さなかった。

 身体測定のとき、肺活量測定器のマウスピースから空気を漏らした新入生。

 その音をまわりにいた全員に別な音だと勘違いさせ、大爆笑させた張本人。

 目を潤ませ、下唇を突き出して、それでも絶対泣くまいとして、ぼくから視線を外そうとしなかったヒロミ。

 やがてその視線から大粒の涙があふれてきても、それでも決して負けまいとして、ずうっとぼくを凝視していたヒロミ。

 ぼくは信二がヒロミの話をしている最中、あのときのヒロミの涙を思った。

 ぼくは言った。

「今どき、いないよ。あんなことで泣くやつ」

「あれは無形文化財だね。でなかったら、生きてる化石、シーラカンスだよ」

 そんな冗談に、なぜか信二は笑おうとはしなかった。しかしヒロミがシーラカンスという冗談はやがて、実は冗談ではなかったことにぼくは気づくことになる。

 そしてぼくはずいぶん経ってから、彼女がどうしてそんな些細なことで泣いたのか、その理由も知ることになるのだ。


              【4】


「結構モテるらしいんだ。あいつ」

「ほら、あいつ、今年の新入生の中で一番か二番のいい女だろ」

「だあからいろんなやつがあいつに、付き合ってくれって言ってるらしい」

「でも、みんな相手されなくて、振られちまうって話だ」

「あいつ、ほかに誰か、好きな男がいるかもしれないな」

 信二はそこまで言って、ため息をつき、ぼくを見た。

「それを訊いたやつがいるんだ」

 さらに言って、信二は黙った。彼はぼくの言葉を待っているのだ。

 風がおだやかに、ぼくたちを通り過ぎていく。信二の細い目はすっかり哀願調になり、ぼくを見ている。

 ぼくはそんな信二が哀れになり、さとすように言った。

「か弱そうに見える女って、意外とガードが固いんだよ。逆にしっかりした考えを持ってるやつが多いんだ」

 そうかなあ、という表情を浮かべ、信二は視線を宙に泳がせた。

 学生服のボタンが、少し苦しそうだ。

そういえば、とぼくは思った。以前仲間うちでふざけっこをしていて、誰かが信二を後ろから羽交い絞めにしたことがある。すると信二の学生ボタンがひとつ、まるでロケットのように飛んでいって、みんなで大笑いしたことがある。 

 

              【5】


 そんな信二を見ながらぼくは、ふと織原ヒロミを思った。

 あの体育館の出来事以来、ぼくとヒロミはときどき、校舎の廊下でばったり出会うことがあった。するとヒロミは決まって立ち止まり、はにかむような笑顔を見せて、

そうしてペコリとおじぎしてから、目を伏せるようにして、駆けていってしまうのだ。 

 まだ、あの日のことに、こだわっているのだろうか。あの痛手から、立ち直れないでいるのだろうか。気にすることなんかないのに。思いわずらうことなんか、これっぽっちもないのに。

 駆けていくヒロミの後ろ姿を見つめながら、ぼくはいつもそんな思いにとらわれていた。


               【6】


「おい、見ろよ。あれ、ヒロミじゃないのか」

 信二があごをしゃくった先を見ると、ちょうどヒロミが屋上に上がってきたところだった。手には文庫本らしきものをたずさえている。

 天気がいいから、屋上で読書でもするのだろうか。

 ぼくはヒロミの姿を目で追った。

「まさか、あの本を顔に載せて、昼寝するんじゃないだろうな」

「ばか言え。文庫本だぞ」と、ぼくたちが話しているのにもかかわらず、それに気づかないヒロミはまっすぐベンチまで歩いて行き、そこで腰を下ろした。

 そうしてぱらぱらとページをめくったあと、彼女はちょうど本の真ん中あたりで指をとめ、そのままの姿勢で動かなくなった。

 本の世界に入り込んでしまったのだ。

「何の本、読んでるんだろう、あいつ」と信二がぼくに問いかける。

「さあな。あいつのことだから、ハイネとかリルケの詩集じゃないのか」

「いや、野菊の墓かもしれない」

 信二がまぜっかえすと、ぼくたちは声を殺して笑いあった。

「おい、ちょっと見てきてくれよ」

「え。オレが」

 ぼくが驚いて訊き返すと、信二は両手を合わせ、ぼくに拝むような真似をした。

ぼくはしょうがないなあ、という顔をしてヒロミのいるベンチまで歩いた。

 すると屋上にいた数人の下級生がぼくに気づき、挨拶をする。 

 ぼくは彼らに小さくうなずき、そのままヒロミの方に歩いた。

 ヒロミは膝の上に本を載せている。その顔は長い髪に隠されて、見えない。だから彼女はぼくがそばに来ても、気づかないのだ。


              【7】


 何度かためらったあと、ぼくは声をかけた。

「何の本、読んでるの」

 その声に反応し、ヒロミが顔を上げた。そしてその声がぼくだと気づくとヒロミは驚いて立ち上がり、いたずらを見つけられた子供のような顔を見せ、おそるおそるその本の表紙を見せた。

 それはリルケの詩集でもハイネの詩集でもなく、ましてや野菊の墓でもなかった。

 その小説は彼女のイメージには似合いそうもないハードボイルド小説だった。

 表紙には『長い別れ レイモンド・チャンドラー』と記されている。


 ぼくは空を見上げた。空には薄く白い雲が、姿を変えながらゆっくり東に流されている。

 そういえばここ何週間も、雨が降ってないなと、ぼくは思った。

 ぼくの高校生活も、こんな天気だけだったら良かったのに。





                         《この項 続きます》


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