第2話 芥川の鬼、風吹けば桶屋が儲かる
「
「ダメです。絶賛失恋中の
橘さんは感情の起伏が無いような声で言う。もちろん力を緩める様子は無い。
「何で失恋のことまで……でもなんか逆に嬉しいかも」
「……気持ち悪いです。はいここまで。」
その瞬間、腕を離されて俺は自由になった。
と思ったのは束の間、橘さんの懐中電灯が照らす先に二つの人影がぬぅっと現れた。そうだ、輩が三人組だったことを失念していた。
「俺はただ失恋をしただけなのに。流れ流れて河川敷、
「お前、心の声が全部漏れてんぞ。気持ち悪い」
「まぁまぁ
どうやら目の前の妖怪達は読心術を使えるらしい。罵倒が聞こえて来たが、すぐに何かする気は無いようなので、勇気を振り絞って立ち上がる。
「えぇと、コホン。あなた方は何者ですか?怪しい宗教で無いと良いのですけど」
平静を装って問いかけると、ワイシャツ男が爽やかに答えてくれた。
「ハハハ、流石に自己紹介しないとね。僕は
「で、この人は
そう言って部員名簿を押し付けてきた。
三人の名前の下に手書きで「ぼた餅」と書いてある。
「まぁはい……ぼた餅?」
思わず呟くと金髪が馴れ馴れしく絡んできた。
「
「……いいや!それは不本意だ!つーかあだ名って、勝手に俺を怪しい集団の一員にしないでくれ!」
その瞬間、横に居た橘さんに再び腕をがっちりと掴まれてしまった。
絶対に逃がさないという強い意志を感じる。
「まぁまぁ体験入部だけでもどうかな?ちょうど望遠鏡を設置した所なんだ」
桶屋先輩が体を反らして示す先には、大きな望遠鏡と大きな例のケースがあった。
横に居る橘さんに
「なぁ、本当に天文観測するのか?儀式とかじゃないよな?」
と耳打ちすると、黙秘します、と返って来た。いやいや怪しすぎる。
「いいから来いぼた餅!」
金髪に肩を掴まれて、望遠鏡の前まで運ばれてしまった。
「ほ、本当に見るんですか!?危なく無いですよね?」
「いいから大丈夫だ!アタシを信用しろって!」
そう言って金髪は人の域を超えた勢いで背中を叩いてきた。正直、金髪がこの中で一番信用ならない。
ゴクリ。恐怖と戸惑いを飲み込んで、接眼レンズを覗き込む。
……なんだこれは!!
たくさんの星が密集して輝いている。明るい光は数えられない程多い。それに何気なく見上げる夜空とは確実に違う。こんなのは初めてだ。
レンズから眼を離して、望遠鏡で見えていた星を肉眼で眺めたけれどモヤっぽくてチカチカする。
望遠鏡があるだけで星空の見え方がこんなにも変わるのか。
「な、なんですかこれは!?」
思わず振り向いて聞くと、金髪が腕を組んで自慢げに言った。
「プレセぺ星団。かに座の中にあったかな。たくさん星があるだろ」
「す、凄いですね。正直想像以上でした」
「まだ倍率が低い方なので、レンズ交換すればもっと大きく見えますよ。ですから入部してください」
腕を掴んだままの橘さんはしきりに俺を入部させようとしてくる。
「どうだい棚柄君、我らが天文観測サークルに入部する気になったかな?」
桶屋先輩が望遠鏡から伸びた棒を回しながら聞いてきた。きっと方向か角度の調整をしているのだろう。
「もっと普通のサークルなら入ったかもしれませんけど……何故こんな勧誘したんですか?危ない宗教かと思いましたよ」
すると桶屋先輩は苦笑いしながら頭を掻いて、
「ハハハ、いやいやごめんね驚かせてしまって。橘がどうしても君を勧誘したいというから、少々強引な手段に及んでしまった。」と言う。
元凶はお前か!と、橘さんの方を睨んだけれど、彼女は両手で口を隠して目を合わせてくれない。あくまでも黙秘を貫くらしい。
「少々というか、ほぼ拉致ですけどね……」
「ごちゃごちゃうるせぇんだよ、ぼた餅!入るのか?入るのか?」
おい金髪それはもはや、一者択一だ。せめて選択の余地をくれ。
「ま、待って下さい!今決めなきゃいけませんか?入るにしても、もっと色々知りたいんですけど」
「いや今でなくてもいいよ。週末に食事会をするからその時に決めてくれればね」
桶屋先輩は穏やかな口調で言った。
「分かりました、考えておきます。それで今日はまだ観測を?」
俺が言いきる前に、やけに上機嫌な金髪が再び絡んできた。
「当たり前だろうが!ほら来いぼた餅!」
「い、行きますから、ぼた餅だけは止めてくれ!」
ニヤニヤする金髪に促されて、俺は
そこにはやはり、俺の知らなかった美しい世界が広がっていたのだった。
§§§
結局解散したのは、既に辺りが仄明るくなった午前4時半頃だった。意外にも金髪が一番星空に興味があるようで、散々付き合わされてしまった。桶屋先輩は調整に徹して、金髪や俺の反応を見てはクスクスと笑っていた。橘さんと言えば、赤いライトで先輩の手元を照らしたり、
俺は知らぬ間に、危ないサークルに馴染んでしまったらしい。
「で、なんで橘さんが俺と二人で歩いているわけ!?」
「黙秘していいですか?」
「いいえ、あなたは既に10回近く黙秘しています。だからこの質問には答えてくれ」
「そうですか」
「はい」
微妙な沈黙が漂う。後方から来た新聞配達の原付が、明らかに法定速度を無視した速さで走り抜けていく。
赤く伸びていくテールランプを呆然と眺めていると、橘さんがにわかに言葉を発した。
「ええと、帰る方向が一緒だからです」
「それだけか?」
「それだけです。それとも、手酷く振られて傷心気味のダメガネ君の身を心配して、と言ったら喜びますか?」
橘さんは真顔でこんなことを言うから冗談なのか分からない。
「いやまぁ嬉しいけどさ……って、なんで俺が振られたことを知っているわけ!?」
「信頼できる特殊なルートから仕入れました。ちなみに違法です危ないです」
「……いいから正直に答えてくれ」
「ムぅ……」
橘さんは不愉快そうな顔をした。そして口を開く。
「入学時から全部、背後で見ていました。あの日も、引きつった顔でテニスをしてから、無様に振られる所まで」
「入学した時から、って最早ホラーだよ!てか背後ってどういうことだ?」
「ええと、言葉の
橘さんが言う事には自然と納得がいった。大学に入学して早一か月、同じ学部学科で席も近いという彼女を、見たという記憶が俺には無かったのだ。
「え?じゃあ何でそんな恰好しているんだ?」
ボソッと口走った言葉を聞き逃してはくれないらしい。
橘さんは急に立ち止まり、こう言ったのだ。
「この恰好の方が棚柄君の記憶に残り易いと思ったからです」
それはどういう意味だ、と言いかけて俺は咄嗟に口を噤む。
日の出と共に眩い光が視界を照らし始めたのだ。
そして雲間から差す陽光が、橘さんの姿を一層鮮やかにしていく。
彼女は黒いスカートの
耳が
ああ、ショートカットが似合う綺麗な人だ……そんな面倒な感想が浮かんで来る。
厄介な人に目をつけられてしまったものだ。
見惚れていると、橘さんは控え目に口角を上げ、何か企んでいるように言った。
「丁度良い時間です、また会いましょうね。あとサークルには入って下さい。絶対ですよ」
「ああ、前向きに検討するよ」
この珍妙なサークルならば、思い描いた大学生活を諦めなくても良いのではないか、と考え始めていた。
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