8話:バレンタインデー(前編)

 二月十四日。

 今日はバレンタインデーなのだが、うちの会社ではバレンタインデーにチョコレートを渡すことは禁止をされているらしい。この時期になると毎年浮ついて仕事に集中出来なくなる人が多くなるため、社長が代替わりした数年前に禁止令が出たと、長年この会社に勤める伊藤さんという女性が教えてくれた。


「まぁ、あたしからしたらありがたいけどねぇ。毎年毎年自費で払ってたし、みんなが渡してるのに自分だけ渡さないのも気まずくて言い出せない子が多かったからさぁ」


「あー……正直めんどくさいですよね。バレンタインデーって」


 そう苦笑いしながら答えると、賑やかだった休憩室が一瞬にして静まり返る。なんだか、男性社員達から物凄い殺気を感じる。


「……鈴木。知ってるか?バレンタインデーはな、必ずしも誰もがチョコを貰えるわけじゃないんだ」


「そうだぞ鈴木!お前はモテるから分からないだろうけどな!」


 先輩の男性社員達の圧が凄い。

 学生時代も同じような説教を友人からされた。なんだか懐かしさを感じてしまうと同時に、うんざりしてしまう。


「確かにチョコレートはたくさん貰ってましたけど「自慢か!?」まぁまぁ。落ち着いてくださいよ。僕の従兄弟がすっごいモテる人で。僕は仲介役だったってだけですよ。大半は従兄弟宛てです」


 向けられていた殺気が一瞬にして哀れみに変わる。


「鈴木お前……」


「そりゃめんどくさいって言いたくなるよなぁ!」


 一斉に手のひらを返し始める先輩達。別に僕はモテたいと思わない。むしろ、人から必要以上に恋愛感情を向けられたくない。なんて言ったら彼らは嫌味だと思うんだろうなと苦笑いしてしまう。

 従兄弟への仲介役だったのは本当だ。だけど、そのことで彼を妬んだことはない。むしろ助かっていた。彼の影に隠れていれば恋愛感情を向けられずに済んだから。言い方は悪いが、彼は魔除けのような存在だった。

 まぁ、高校は別だったから、ただの仲介役だったのは中学までの話だし、中学でも、僕宛てのチョコレートが一個もなかったわけでは無いのだけど、これは言わぬが仏というやつだろう。


「けど鈴木くん、その割にはあまり拗らせてないよね。女慣れしてる感じがする」


 痛いところを突いてきたのは一つ上の宮田さんという経理部の女性社員。短大卒で入社しているため、年齢的には中川さんより二つ下だ。


「妹が居るからですかね」


「えー。鈴木くんの妹とか絶対可愛い。見せてよ」


 猫撫で声でそう言いながら、宮田さんは僕の隣に移動してきた。正直、僕はこの人苦手だ。距離が近い。そして、彼女に近づかれると男性社員の視線が怖い。

 恐らく彼女は自分がモテることを理解している。あからさまに僕に好意があるような雰囲気を出しているが、僕は気づかないふりをしている。多分それは好意じゃない。単なるプライドだ。自分に興味を持たない男が気に入らないだけだ。その証拠に、彼女は中川さんにもよく絡んでいる。冷たくあしらわれてはムッとして、取り巻きの男性社員に慰められて、女性社員からは冷たい目で見られていることを僕は知っている。伊藤さんだけは、宮田さんのこと嫌いじゃないみたいだけど。


「可愛い系じゃないですよ。僕の妹は」


 無下にすると色々と面倒なので、素直に妹の写真を見せる。すると宮田さんは目を丸くして固まってしまった。


「えっ。待って。めちゃくちゃカッコいい……」


 口元を押さえて、推しを見るヲタクみたいな反応を見せる宮田さん。意外な反応だ。伊藤さんはくすくすとおかしそうに笑っている。


「……ちなみにこんなのもありますよ」


 気怠そうな表情で目線を伏せて、ネクタイを締める妹の写真を見せてみる。これは鈴歌さんが資料用に撮っていた写真だ。それを見た瞬間、宮田さんは「ヴァ゛!」と、彼女の声とは思えないくらいの低音で奇声を発した。伊藤さんが顔を押さえて、笑いを堪えるように震え始める。

 何の音だとざわつく中、宮田さんは「す、鈴木くんの妹、めっちゃカッコいいね!」と、なんとかいつもの声と笑顔で取り繕ってスマホを返してきた。一瞬剥がれかけた化けの皮の中身に、少しだけ興味が湧いた。


「他にもあるんですけど——「も、もう大丈夫。私、ちょっと早めに部署戻るね。仕事溜まってるから!」


 逃げられてしまった。残念。


「鈴木くんの妹とかちょっと興味あるんだけど」


 先ほどまで宮田さんが座っていた席に中川さんが座る。


「はい、どうぞ」


「うわっ。えっ?妹だよね?兄じゃなくて」


「はい。よく勘違いされるんですけど、女の子で、僕より下です」


「脚長くね?」


「長いですよ。身長は180センチあります」


「180!?デカっ!俺よりデカイじゃん!」


「あたしにも見せてくれるかい?」


「はい」


「あら。本当だ。お兄さんって言われた方がしっくりくる」


「よく言われます」


 小さい頃は地味にショックを受けていたが、言われすぎて、今はもう何も思わなくなった。


「けどカッコいいわね」


「カッコいいけど、何この写真集みたいな写真」


「あはは……この辺は僕の恋人が撮ったやつです」


「……えっ。鈴木くん恋人居たの」


「はい」


 すると伊藤さんは周りをキョロキョロと見回してから、小声でこう問いかけてきた。


「もしかして、男の人だったりする?」


「いえ。女性です」


「あ、そうなの。恋人って言うからてっきり同性なのかと思った」


「……伊藤さんはそういうの、気にしない人っすか?」


「気にしないっていうか……今どき同性同士だからどうのこうのなんて古いと思うわ」


「……そっすよね。古いっすよね」


 ホッとしたように笑う中川さん。その表情を見て伊藤さんも察したようで、ニヤリと笑って「中川くんは恋人居るの?」と問う。


「居ますよ」


「クマっぽくて可愛い感じの人でしたよ」


「えっ。何で知ってんの」


「この間酔った時に家に送ってあげたじゃないですか」


「あー……あの時か……」


「へー。クマかぁ……鈴木くんの恋人は?どういう感じ?」


「んー……お」


 噂をすれば、鈴歌さんからメッセージが届く。『今日は渡したいものがあるから早めに帰って来てね』と、ハート付きのメッセージ。

 バレンタインデーだからやはりチョコレートだろうか。『楽しみにしてます』と返すと『おう』と親指を立てる絵文字と共に返ってきた。


「ふふ。その幸せそうな顔を見ればなんとなく分かるわ。良い彼女さんなのね」


「えっ。幸せそうな顔してました?」


「「してた」」


「えー……ふふ……まぁ、幸せですけど」


「否定しないのかよ」


「あははっ」





 そしてその日の帰り。宮田さんに飲みに誘われた。


「今日はすみません。彼女が待っているので」


「えっ。彼女居たの?」


「はい」


「えー。残念。私、鈴木くんのことちょっといいなぁと思ってたんだけどなぁ」


 絶対思ってない。


「今週の金曜日とかどうですか?」


「いいの?彼女さん怒らない?」


「誘ったのはそっちじゃないですか」


「だってぇ。彼女居ないと思ったんだもん」


「したいのはそういう話じゃないですよね?ちゃんと分かってますよ」


 僕がそういうと、彼女から笑顔が消えた。


「二人だと誤解されそうですし……伊藤さんも誘っていいですか?」


「伊藤さんなら……まぁ。そうね」


「じゃあ、また金曜日に。お店の予約はそちらでお願いしますね」


「……分かった」


「それでは。失礼します」


 宮田さんと別れて、鈴歌さんが待つ我が家へと急いだ。

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