顔また顔

金村亜久里

顔また顔

 赤い舌を出している。口を開けて。

 なかごろに白いものが蝟集している。が先まで血の通った赤い舌だ。

 口を大きくめいっぱい縦に開けている。目を見開いている。

 見ているのは突き出された赤い舌だ。赤い舌だが、そこに目立った異常はなかった。顔が二重に嵌まり込んでいるのが異常だ。

 縦に大きく口を開けているから顔は細長くのびてみえる。しかしそうでなくてもこの顔はひとまわり膨れている。膨らんだ顔の中に、昨日までと同じ顔が嵌まり込んで、顔の輪郭だけが二重に増えている。中に嵌まり込んでいる顔は、昨日まで見なれていた自分の顔だ。その輪郭は下は顎の先にはじまって、顎と頬の骨をなぞり、眉間をとおって額も変わらず、生え際までしっかりとしている。そのさらに外側に、まったく同じ輪郭でひとまわり大きな、目鼻を欠いた顔の骨格だけがあって、顔を囲繞している。ように見える。

 はじめはそのことに気が付かなかった。顔の異常に気が付いたのは朝食を済ませて歯を磨き、口をゆすいだ後のことだ。何度も見直した。目をつむってひらいたら元に戻っているのではとくりかえしてみたが虚しかった。舌や歯や、背中、またぐらまで確かめた。異常があるのはただ顔だけだ。幻覚なのか、まだ覚めていないだけの悪い夢なのかわからない。

 もしかすると目の錯覚かもしれない。いつものように仕事着に着替えて靴を履き、扉を開くと、外にある景色は昨日までとなにひとつ変わっていなかったことにまず安堵した。かかとを確かめて踏み出したところで、「おまえ、そんな顔で仕事に行こうっていうのか」と呼び止められた。隣の部屋に住んでおり、ひとに仕事を紹介することを仕事にしている。今の仕事を紹介したのもかれだ。眉をいからせて、目を剥き、視線はじっと顔を向いている。

「そんな顔になっちまった以上、おまえ、ひとさまに顔向けしてみろ、ただではすまないことになるぞ。安心しろ、こんなときのために、おれのような仕事を生業にする輩がいるんだからな」

 かれは部屋から紙袋を持ってきて頭にかぶせた。大きくなった顔もすっぽり覆われた。アパート脇の駐車場から自動車を出して助手席に乗せ、事務所に向かうと言う。しかし向かっているのは、これまでかれが仕事を斡旋されていた事務所とは別の方面らしかった。アパート前の交差点を曲がるとき、体が右に傾いた。左に曲がったのだ。かれの事務所は右に曲がった先にあるのに。

 長いスロープを降りた地下の駐車場で車を降りると、かれは紙袋を取らせ、薄い照明のめぐらされた壁の重い鉄扉をあけて中へ這入り込んだ。そこはまばゆいばかりの明かりで真っ白に照らされた、白い漆喰で塗り固められた、一つの水玉の中にもう一つ、そしてその中にまた一つと、何重にも水玉が折りかさなった模様が散りばめられた、壁と天井がなめらかにつながった半球形の部屋だった。そんなわけもないのに無数の目が見つめてくるようで顔を伏せた。床だけは目玉がなく漆喰で真っ白だった。

「実を言うとおまえのようなやつはたまにいるんだ。たまに、わりと、いると言ってもいい。理由はわからんがなぜかそうなる。でそうなっちまったらもう人様にまともに顔向けする仕事は出来なくなるだろうな」

 歩きながらそんな話をして、そうするうち半球形の部屋の反対側までたどりついた。鉄扉を開けるとそこはいたって普通の詰め所で、中央に背もたれのない低いベンチが数列、壁には上下にわかれたロッカーが並んでいる。そこにざっと二十弱の人影があった。その顔を見てぎょっとした。ある人は鼻が、ある人は口が、ある人は目が、ある人は顎が、内側から炸裂するように割れて、その中からまた鼻が、口が、目が、顎が突き出している。自分と同じように顔が嵌まり込んだ人間たちなのだ。しかし「ぎょっ」、とするのもつかのま、同じ「ぎょっ」、が波打つように部屋中に広がり、見えるかぎりの目という目が突き刺さった。

「新入りだ」

 部屋の奥にはホワイトボードがあり、その前は教壇のようにいちだん高くなっていて、かれが立っているのはそこだった。

「何度も言ったがおまえらのようになっちまったもんをひとはもうふた目とも見たがらない。しかしおまえらも食い扶持は稼がにゃならん。役所の連中は顔が割けてようが働けと言うに決まっている。するとおまえらが気兼ねなくできる仕事というのは人様と会わない、面構えを誰も気にしない、どっちかは最低でも満たさないと無理だ。お題目じゃなく本当の意味で、面構えを無視して出来栄えだけを評価する……そういう種類のだ。われわれは篤い信頼と太いパイプでもっておまえらのような輩の食い扶持を提供しているわけだが、そこのところをよく頭に留めながら労働に励むように」

 ホワイトボードにはAからHに分けられた業務内容と、そこに振り分けられる人員の名前が書きこまれていた。かれはそこに新たにひとつの名前を書き入れた。

「Hの連中、急遽で悪いが一人頭増える。色々教えてやれ」

 その傍に架かった時計を見るともう九時を回っていた。その下にある扉から、顔の割れた人々は次から次へと足早に出ていった。壇上から新入りを指さしてかれは言った。

「おまえ、顔の髭ぜんぶ剃っとけ」

 寝起きに髭を剃ったのは内側の顔だけだ。外側の顔は……こわごわ触ってみると、粒立った髭が虫のように指をなでた。

 H班の業務は川崎の色町での給仕仕事だった。色町での主役は化粧をし着飾った女たちで、そこに来る男たちはみな、目当ての女たちを除いて表情さえちらりと見ることもない。給仕は仮名の名札を付けて、「清潔のため」とゴム手袋を着用して、ある者は従業員たちに粗茶や軽食を出し、ある者は店の正式なボーイに紛れて人垣やガードマン紛いにふるまった。面妖ぶりが最も似合う点で適職かもしれなかった。

 俯き、外側の顎にときおり触りながら、紙コップに冷えた紅茶を入れ従業員のそばに置く。無言のまま手が伸びてコップを取り、飲む。ボーイや給仕が誰であろうとかれらは鷹揚として気にしなかったが、一方で給仕から直接ものを手渡されることだけは避けているのが早くにわかった。隣に住んでいた派遣業者は顔の割れた面々に社長と呼ばれていて、社長は安いドレスで着飾った従業員たちとメイクやスキンケアを話題に談笑していた。人数分の飲み物を用意し、盆に載せて持っていく。何に躓いたわけでもないはずなのに、談笑しているかれらの目の前で転び、薄いピンク、濃い赤、紫、青と色とりどりのドレスに、ひっくり返った紙コップの紅茶が降り注いだ。

 信じらんない!

 かろうじて聞こえた外はすべて耳鳴りのような高い怒号だった。ドレスの下から繰り出された爪先がひるがえり、倒れた体に次から次へと蹴りが殺到する。社長の黒い靴のいっとう重い一撃が合図のように蹴りはおさまった。全身に紅茶が染み込んで冷たく、隈なく蹴られた全身が痛くて熱かった。クソ! と小さく吐き捨てる声が降った。社長は従業員らに身を低くして謝罪し、顔の割れて膨れ上がった給仕を引きずるように急き立ててその場を出た。アパートに帰らされ、もう今日は休んで明日また同じところに来いと言われた。

 次の日の朝、起きると、アパートの前に窓をひとつのこらず塞いだ大型バスが止まった。その日の仕事はこんどは人に会わない、作業員どうしだけが顔を合わせるものだった。どこかから送られてくる無数の紙の束を、右端にふられた番号の順に合わせて並べ、別の紙の束とつきあわせながら空欄を埋めていく。窓のない部屋は薄暗く、プリンターの印刷音が絶えず鳴り響いている。天井が低い部屋にはデスクがむかいあって並んでいる。めいめいわりふられたデスクに座り、紙の束を処理すると、部屋の前方にある、作業員の方を向いているデスクに座っている小役人のような男に渡しに行く。男はめのまえに置かれた紙の束をととのえて、薄い箱に詰める。箱がいっぱいになるとこれを持って扉から外に出ていく。紙束を手渡した作業員は自分のデスクに戻ってふたたび仕事をする。

 隣に座って作業をしているのは、両方の耳が割れて突き出した丸眼鏡の女だった。ほおやひたいが脂じみて暗い蛍光灯に光った。作業のあいまあいまに、かれはにこにこと笑いながら、顔という語が持っている暗然とした意味についてまくしたてた。曰く、顔という語はふたつの部分に分解できる。ひとつの部分は「何らかのものの集合」という意味を付与する接頭辞であり、いまひとつの部分は「見る」ことを意味する。すなわち顔とは「見ることの集合」である。しかし同時に顔という語の形は受動分詞のようでもあるのであって、ここに顔という語のふかい意味が読み取られうる、云々……

 単純素朴だが、以前の仕事とそう変わらない、上手くやっていけるような気がして嬉しかった。そう思うがはやいが次の仕事場を紹介され、バスに揺られて向かったのは房総半島の工事現場だった。顔の割れた人、人の一団は、粒の細かいものの詰まった袋を、地上から甲板へ運ぶ仕事に従事した。運転手は大きな栗のような形の鼻が、正面から割れて、突き出る方向はやや右に曲がっていた。

 そんな調子で業務は頻繁に切り替わった。現場は関東一円に留まらなかった。名古屋、長野、新潟、大阪、岡山、下関、徳島、鹿児島、青森、稚内、気仙沼、仙台、磐城、運ばれるままどこにでも行った。ときには朝にバスで揺られたきり、アパートに戻るまで二週間以上経つことさえあった。

 勤務記録を見て三十の県の五十二の場所で働いたことに気付いたとき、社長の下で働き始めて半年が経過していた。

 長い列島を行き来し、種々の業務に従事するなかで如実に感じられたのは、一つの業務を終えて次の業務へと移っていくたびに、仕事をこなしていく能力がわずかずつ、しかし確実に落ちてきているということだった。最初の仕事で紙コップをひっくり返したように、袋を運べばもろともに海へ落ちかかり、ベルトコンベアでは加工や操作を誤り、紙の束の整理作業では虫食いのように見落としを出して、周りで仕事に従事する顔の割れた面々の冷たい視線が深々と総身に沁みとおってくるのを感じながら、どうしてこうなっているのか考えたが、わからないまま重くなった頭を俯かせる。そもそもこんなことになるまで、自分はどんな仕事をしていたんだっけ? そう、もっぱらデスク・ワークに従事していたはずだった……しかし具体的にどんな仕事だっただろうか、仔細を詳らかに思い出すことはもはやできなかった。

 日々の仕事ばかりが迫ってきて、それをやりすごすのだが、それはたかだかやり過ごすことができるという程度のことでしかない。休みの日にも外へ出歩くことはなくなった。夜中に目出し帽を被り顔全体を隠してコンビニに行くことはあったが、それを出歩くことだとは言いたくなかった。テレビや、インターネットで配信される動画を見て過ごした。記録された人の声を聴くことはあっても、世間の、人様との会話も何もなく、最後に人とまっとうに話したのがいつだったか思い出すことができない。

 穴のあいた不透明な記憶ばかりに割れた頭を占められ、持つ手からは工具がこぼれ落ちて、重いものを支える膝が砕けて転び、そうこうするうちすっかり無能の烙印を捺されることになった。うなだれるばかりの体の、垂れ下がる頸がいちだんと膨れ上がっているのを、目が、鼻が、口が、耳が、顎が、頬が、二重に生えた顔が見下す。

 社長に呼び出された。スロープを下ったさきにある駐車場の、関係者以外立入禁止区域を過ぎて、鉄の扉をあけると巨大な地下空間に出る。そこは円柱形の竪穴で、黄みがかった灯りで上から下まで照らされている。眩しくはない。やや暗くさえあるかもしれない。しかし先に足を踏み入れた社長の表情ははっきりと見える、そういう灯りだ。コンクリートの壁に等間隔に並んでいるのは照明と、それから斜めに金属による構造物が走っている。鉄骨階段が竪穴の内側に設けられて、それが竪穴の底面に至るまで螺旋を描いているのだとわかった。立っているのは階段の最上部だ。促して先に下らせつつ、後ろから次のようなことを話した。

「おまえのようなやつはもうどんな仕事もできそうにはみえない。しかしおれたちも鬼じゃないからおまえのような使えないやつにも最後までチャンスを与えている」

 直径はさしわたし二十、三十メートルほどだろうか。高さはどれほどあるかわからない。その外周を下る、二人分に満たない幅の螺旋階段を降りていくと、底面には人が疎らに散っているのが見えてくる。社長は後ろから足音を鳴らして螺旋階段を下りる。それに多少とも急かされて底面までたどりつくと、湿った空気の中で誰が何をしているのかわかった。顔の割れた、器官の二重に突き出た顔また顔が、憂鬱な、陰に蝕まれた表情を見せて、その目をみな一様に細めて睨み合っている。新入りの姿にも誰ひとり声を挙げはしない。しているのかもわからない呼吸を誰も乱さない。疎らに散った、その面に希望の一かけらも見えない顔つきが、じっと動かないまま、ただ互いに睨み合っている。底面に足が着き、タイル張りの床が鳴ると、視線が集まるのがわかった。社長に振り返る。かれば無言のまま顎をしゃくってみせ、そのおとがいはひとつの方向を指し示している。

 円い底面の中央近くにやや隙間があり、誰からも距離を置かれているひとりが立っている。鼻から頬にかけてが二重に隆起し、溶けた鉄骨のように崩れた顔が、白いものの交じった眉を下げて今にも泣きそうな表情で周りの顔どもを見据えている。同じ険しい視線が周囲の人群れからこの顔めがけて投げかけられている。他は多少とも寄り集まっているなかで、かれにだけは援軍が無いようだった。社長のおとがいが示している方面は、その泣きそうな男の前のひらけた空間だった。

「ルールはわかるだろ」

 歩いていく。片耳が割けた顔。鼻が突き出た顔。右半分が膨れ嵌まり込んだ顔。目が二重に生えて脂にまみれた顔。乱杭歯を込めた口が垂れ下がった顔。誰もの絶望の視線が突き刺さる。これらと睨み合わなければならない。

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顔また顔 金村亜久里 @nippontannhauser

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