第3話
北欧の夜は冷える。零度を下回ることも予想される。私達は十分な厚着をして宿を出た。
レンタカーを借りて、その丘を目指す。丘は街を随分と外れたところにあった。
空に見えるのは、瞬く星だけ。頬に触れる風が予想以上に冷たく、思わず襟を立てる。
彼女が不意に歌を口ずさみ始めた。
凛と冴えた空気に彼女の澄んだ歌声が響く。
異国の歌が丘の上を幻想的な空間へと昇華させた。
だいたい二時間ほど待っただろうか。しかし、一向にオーロラが現れる気配はない。明日のこともあるので、諦めて宿へ引き返そうかと思っていたその時、微かに空が青白く輝き始めた。見上げると、光のカーテンが私達の頭上に揺らめいていた。
ぼんやりと流れるように、その輝きは私達の視界へと入ってきたのだ。
「きれいだ……」
「ええ……」
それ以上、言葉が出なかった。いや、そもそも言葉なんてもの自体、この自然が織り成す虹色の奇跡の前では無意味なんじゃないだろうか。
私達は、しばらく憑かれたように空を見上げていた。
しばらくすると、青白く輝いていた光の帯は、すうっと溶けてしまうように消えた。
輝きが消えてしまうのを見届けると、彼女はゆっくりと自分の過去を語らい始めた。
彼女は、事故で父と母をなくし、身寄りは遠くノルウェーに住む叔父だけになってしまったのだそうだ。彼女は今、その叔父の家を尋ねる道程なのだ。
私達はまだ夜空を見上げていた。今は無数の星が輝いている。
彼女は、うっすらと涙を浮かべ、その星々をじっと見つめていた。もしかしたら、彼女は父親と母親の星を探していたのかもしれない。
恥ずかしい話であるが、私はこのとき、一言も言葉を口にする事ができなかった。
彼女が立ちあがって、ホテルに帰ろうと言った。
私が頷いて立ちあがろうとすると、不意に地面が揺れた。私は立ちあがることが出来ず、その場にへたり込んでしまった。まるで大地震でもやって来たかのようだ。しかし、こんなところで地震が起こるなんて──。
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ゆさゆさと体が揺すられている。目を開けると、いつも通りの木目の天井が見える。私のすぐ横には妻の足があった。足で私の体を揺すっていたようだ。
「早く会社行きなさいよ」
それだけ呟くと、どかどかと足音をたてて、妻は部屋を出ていった。
壁に掛けてある時計を見る。七時三十三分。私はのそのそと寝床を這い出し、洗面所に向かった。
顔を洗って、髭をそる。
歯を磨いて、洗面所を出ると、娘が顔を出した。
「おはよう」
「邪魔」
「……すまん」
娘は私を避けるように洗面所へと消えた。
着替えて食卓へと向かう。テーブルの私の席にトーストとマーガリンがぽつんと置いてある。私以外の人間は、すでに食事を終えているようだ。
冷えて固くなってしまったトーストを無言でかじる。冷蔵庫を開けて、コップに牛乳を入れて飲んだ。
皿を片付けて、居間に行く。
タンスの中から背広を出して羽織った。
時計を見るともう八時を回っている。
そろそろ家を出なければならない時間だ。これから、満員電車で三十分、人に揉まれながら通勤しなければならないと思うと気が滅入る。
「いってきます」
家族は誰も何も言わない。私はドアを閉めて、駅へと向かった。
私は、うだつのあがらないただの中年。
一生懸命に勉学に励み、良い大学を出て、良い企業に就職した。
だが、それが何だというんだ。
こんな私の唯一の楽しみは眠ることだ。
眠ることで、すべてを忘れることが出来る。
眠ることで、思い通りの夢の世界に没入できる。
数え切れないほどの人間に頭を下げ、上司の嫌味を聞き、自分を売りこむことしか知らない無能な部下の尻拭いをし、どんどん出世する同期の奴らの自慢に付き合い、そうまでして働いても、まったく私を省みない家族。
夜になって、また寝床にもぐれば、それらすべてから開放される。何もかもリセットできる。眠ればすべてを忘れられる。夢を見ることが出来る。
それだけを励みに私は会社へ向かう。
だから、私は毎朝まるで儀式のように必ずこの言葉を口にするのだ。
「ああ、夜が待ち遠しい」
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