ワタナベさん、豆を投げてください!

ちりめん

ワタナベさん、豆を投げてください!

 ワタナベさん、ずるくないですか。

 田中はじめがそんなことを初めに思ったのは小学生の時だったか。

 同級生のワタナベが節分の日に「俺ワタナベだから豆投げなくてもいいんだ」なんて得意げに言ってのけたのがそもそもの始まりだ。歳の数だけの煎り豆なんて小学生の舌にはカラッカラに乾いた砂よりもなお不味く、ただの七粒を飲み込むのが苦痛にしかならなかった。だから、口をへの字に曲げて無理矢理に豆を飲み下すはじめをなんでか知らないが得意げに見てくるワタナベをずるい、と思ったことは仕方がない。

「そんなわけで僕、ワタナベさんのことが好きじゃないんだ」

「は?」

 放課後の校舎裏なんて如何にもなところに呼び出して告白してくれたワタナベさんには申し訳ないが、こればかりはどうにもならない。あの、小学生のはじめをどや顔で煽ってきたワタナベと出会ってからこっち十年、はじめはワタナベさんが憎くて憎くて付き合うなんてとてもではないが考えられなかった。

「そんなわけでってどういう意味よ」

「どういうも何も、ワタナベさんもどうせ節分に豆は投げないんだろ」

「それは……そうに決まってるじゃない。だって私はワタナベだもの」

 ほらやっぱり。

「それだよ、それ。ご先祖様が渡辺綱だか何だか知らないけどだからってどうして豆を投げなくていいことになるんだ」

 あらゆる鬼を倒しに倒しただか何だか知らないけれどそれでワタナベ姓のすべてを恐れて襲わなくなるなんてどうかしている。もう少し鬼は根性をみせろ。

 どうせ明日の節分も彼女は豆を投げることは無いし、歳の数だけあのカラッカラに乾いた粘土の塊みたいなくそ不味いだけのぎりぎり食べ物と言える何かを食べることもないんだろう。

 はじめにとってそんなことは耐えられない。

 何故、ワタナベというだけで鬼の脅威から逃れられるのか。ワタナベなんて百人いれば五人程度はいる名前にそんな魔除けのような効力があるのは不公平ではないか。ならば田中だって何かあっていいはずだ。

「…やっぱり、ワタナベはだめだ。ワタナベさんがワタナベさんである限り、僕はワタナベさんのことをどうしたって好きになれないみたいなんだ」

 そういって断ったはじめに返ってきたのは、ワタナベさんからの痛烈な平手打ち。そのままワタナベさんは校舎裏から走り去ってしまった。

 はじめはしばらくその場に突っ立ってぼうっとしていたが、その内我に返ってとぼとぼと帰路についた。



「だって、ワタナベだぞ。ワタナベ。……ワタナベ以外がこれまでどれだけ辛い思いをしてきたと思っているんだ。それが名字が同じというだけで……」

 痛む頬を押さえながらもやはりワタナベは無い、とはじめは思うのだ。

 ワタナベさんを認めてしまえば、これまでの自分の我慢の人生は一体何だったのか分からなくなる。

 大豆を食べなくてもいい人間がいるなんて……。



 家に帰ると、はじめの母が豆を炒っていた。

「ああはじめ、お帰りなさい」

「ただいま……。母さん、それ」

「大豆よ。明日は節分でしょ? いまから用意しておこうと思って。明日の朝に家を出るときに渡すからしっかり持っていくのよ」

「……わかったよ」

 豆、豆、豆。

 節分の日には豆を持っていく。

 鬼が出るから。

 昔は夜に家の端々に豆をまくだけでよかったらしいが、いつの頃からか昼夜関係なく至る所に鬼が出るようになり節分の日には豆を携帯することが必須になった。

 ワタナベさん以外。

 千年経っても鬼はワタナベという名前を恐れ、避ける。普通の人間にとって恐怖でしかない節分の日もワタナベさんだけは素知らぬ顔で暢気に外を出歩けるのだ。

「……ワタナベさんは嫌いだ」

 それがはじめは許せないのだ。



 ◆



「いってきます」

「鬼に会ったらちゃんと豆をまくのよ」

「うん。分かってる」

 いくらはじめが豆を嫌っていたところで節分の日には仕方がない。豆を撒きまき道を歩くしかないのだ。

「ああ、小鬼。ほれ、どっか行け」

 玄関を出ればさっそく小鬼。門扉の影からこちらを覗いていたから一粒投げつけた。それだけで鬼は逃げていくのだ。寸胴で小さな両手を上に掲げてアワアワと何処かへと駆け去っていく。

「……全部が全部小鬼だったらな」

 きっと、はじめがこんなにもワタナベさんを憎むことは無かっただろう。豆粒一つで追い払えるなら甘んじて受け入れようとも思う。だが、世の中そうそう上手くいかない。豆粒を袋からいくつか取り出し弄びながら歩いていると、その時がやってきた。

「でた! でたぞ、大鬼だ!」

 角を曲がったところで聞こえてきたのはそんな声。次いで、通りの先から大慌てで何人かがこちらへと駆けてくるのだ。

「落ち着け! 落ち着け! 逃げても仕方がないだろう。今もってる豆は何粒だ。合わせるぞ」

 鬼にたいしてバラバラに逃げたところで意味はない。そもそも歩幅が違うのだからやがて全員追いつかれて食われて終いだ。はじめはこちらに向かってきた人に対して声を張り上げ制止した。

 鬼は、対峙するほかないのである。

「あ、お、おお。俺は百はある」

「こっちは二百」

「俺は……あと四十くらいか」

「少ないな、おい」

「仕方がないだろう、もうすでに中鬼に出会ってんだよ!」

 はじめと呼び止めた人たちは思い思いに豆を手にして大鬼に投げつける準備をはじめた。

 その準備が終わるか終わらないかのうちに、大鬼の姿が見えた。家の屋根ほどもある体でこちらを見下ろし嘲笑っている。

「大鬼の撃退基準って何粒だ?」

「知らん。でも三百もあればいけるだろ」

「いや、でもここで使っちまったら今日一日もたねえぞ」

「だからなんだ! やるしかねえだろ。いくぞ、合わせろ。そーれ」

『鬼は外!』

 いつの間にか集まってきていた十人以上が迫りくる大鬼に向かって豆を投げた。大鬼は投げつけられる豆に一瞬ひるんだ様子を見せたがそれだけだ。一向に立ち去る様子はない。それどころかゆっくりとだが、確実にこちらへと近づいてくるのだ。

「鬼は外! くそっ、鬼は外! 鬼は―――うわあああ」

「おいっ、くそ。鬼は外!」

「おいっ、誰か『ももたろう』もってこい!」

「そんなものねえよ。あの豆一粒一万だぞ!」

「じゃあ『きんたろう』でも『いっすん』でもいい!」

「それもねえ!」

 鬼退治の為に品種改良された豆は強力だが、まだまだ流通は少なく一粒何千、何万円もするほどに高い。一般人はほとんど効果がないのを分かっていながら家で用意したただの豆を投げつけるしかないのだ。

 やがて、少し前に出ていたものが大鬼に捕まった。はじめはそれを助けようと必死に鬼に向かって豆を投げるが、やはり効果がない。

「くそっくそっくそっ」

 気付けば、周りの人間はみんな鬼に捕まり丸ごと呑み込まれていた。ひとり、ふたり……周りにいるひとがどんどん鬼の巨大な掌に掴まれ食べられていく。

 いつの間にか残るははじめ一人になっていた。あれだけあったはずの豆も袋の底に数粒あるだけで残ってはいなかった。

「『鬼は―――うわあっ」

 ついに、足を掴まれ持ち上げられた。

 はじめは持っていた豆袋を取り落とし逆さに吊り上げられる。

「くそっ、離せ離せ離せ」

 がむしゃらに鬼の指を叩くが、岩を叩いているようで何の効果もない。諦めて脱力し、ぼうっと視線を動かしたところではじめは見た。

 ワタナベさんが通りをこちらに歩いてくるのである。

「あ、あ、ワタナベさん……」

「はじめくん……かわいそうね」

 鬼に掴まれたはじめを見上げるワタナベさんはとても悲しいものを見る目をしていた。

「…うるさい」

「いいわ。あなたが私のことを嫌いでも私はあなたを助けてあげる。だって私はワタナベだもの。…さて、そこの鬼。さっさとはじめくんを置いてどこかに行きなさい」

 ワタナベさんの言動は正しかった。

 鬼ならば大きかろうが小さかろうがワタナベと見れば裸足で逃げ出すのだ。そのはずなのだ。だが―――

『カカ、ワタナベか。ワタナベ、ワタナベ確かにワタナベは怖いが、それはお前ではない。儂は今日、ワタナベを克服する』

 その鬼は、勇敢だった。

 千年の長きに渡り恐れ続けたワタナベを我こそが克服しようと立ち向かったのだ。

「……それを何も今やらなくても」

 はじめにしてみればいい迷惑だが、仕方がない。

 兎角、大鬼ははじめを片手に、もう一方の手には大鬼の見上げるほどもある金棒を持ち出して振りかぶった。

『今日! ここで! ワタナベを克服する!』

 ワタナベさんと言えば、これまで鬼の恐怖にさらされることなどなかったものだからすっかり委縮してしまっている。

「ワタナベさんっ!」

「はじめくん……」

 先ほどまでとは打って変わってはじめを見る目には怯えが含まれ、その体は小刻みに震えているのだ。

「まずいまずいまずいまずい」

 いくらはじめがワタナベさんが嫌いだといっても鬼に食われていいはずがないのだ。

「何か、何かないか……」

 だが、鬼に掴まれ逆さにつるされたままの自分に何が出来るというのか。このままワタナベさんが金棒にぐしゃぐしゃにつぶされていく様を見ることしか出来ないのだろう。

 そんな絶望と共に見たワタナベさんの足元にあるものがはじめの目に入った。

 はじめの落とした豆袋である。

「ワタナベさん、豆だ! 豆を投げてください!」

 それに気付いた瞬間、無意識にはじめは叫んでいた。

 それは生まれてから豆を投げるなんてことをしてこなかったワタナベさんには、決して思いつくことのない行動。

 鬼に豆を投げる。

 はじめに言われてハッと我に返ったワタナベさんはしゃがみ込み、豆袋から一粒、炒った豆を取り出した。それを力一杯握りしめ、振りかぶり、腹の底から叫ぶ。

「『鬼は外』!!!!!」

 ワタナベさんの投げた豆は勢いよく大鬼へと突き進んだ。迫りくる金棒を貫きへし折り、腕を引きちぎり、額を貫き虚空へと飛んでいく。

 一瞬の静寂の後、大鬼はどうッと倒れ伏した。

「ワタナベさん……」

「私、私……はじめくん、私豆を投げた……」

 ワタナベさんはと言えば、自分のしたことが信じられないようで自分の手とはじめと鬼を見比べては興奮して頻りに豆を投げたと口にしている。

「ああ、投げた。投げていたよ」

 はじめにとっても、信じられないことだった。あのワタナベさんが豆を投げたのだ。その名一つで退けることが出来るからと豆を投げることなどしてこなかったあのワタナベさんが。

「ワタナベさんが豆を投げると、鬼を倒すことが出来るのか」

「…そうみたい。私、私……」

 これはとんでもないことだ。ワタナベさん以外にとって鬼とは豆で追い払うことは出来ても倒すことは出来ないのだから。

「私、豆を投げるわ。はじめくん。食べもする。だって―――」

 そうすれば、鬼をこの世から消せるじゃない。

「豆を投げる必要が無くなればはじめくんはワタナベさんを嫌いにならなくなるのでしょ」

「え、ああ、うん。たぶん」

「それなら、私がんばるわ」

 鬼がいなくなったらまたあなたに告白するから。

 そういってワタナベさんは豆袋を拾って先に行ってしまった。



 やっぱりワタナベさんはずるいと思う。

 鬼がいなくならなくてもすでにはじめはワタナベさんが好きになっているのだから。

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