第4話 襲撃の刻

 一瞬、気圧が変ったような圧を耳に感じ、電話中の美星メイシンと美波をすぐに目線を交わした。

 誰かがなんらかの結界をここに敷いたということになる。


美星メイシン、聞いているのか!?』


「聞いてる。大丈夫」


 今村が呪われていたことに気づけなかったことを悔やみつつ、美星メイシンは今目の前で起きている事態にも対処しなければならない。


呪詛じゅそ……いや、従魔じゅうまかな。あたしも狙われているのかもしれない。終わったら、改めて連絡する」


 通話を切った美星メイシンは窓から外の様子を窺った。

 ウィッチハウスの目の前には西池袋公園があり、この時間、遊具で遊ぶ子どもたちの声で賑わっている。ところが公園には人はおろか、小鳥などの小動物の姿も見受けられなかった。


「結界を張られたね……」


「そうみたいね」


 窓の外に広がる世界は色を失いはじめ、徐々にモノトーンのモノクロ写真を見ているような色彩に変化した。人が本来住む世界から僅かにズラす。本来そこにいる人はズレた世界には存在出来ず、指定した人間だけがそこに存在する世界となる。それが今、この『ウィッチハウス』の周りに張られた結界だった。


「結界って、どういうことなんだよ!」


 一人理解出来ないでいる信二が説明を求め、美星は面倒臭そうな顔をして頭をかきながら簡単な説明をした。


「つまり、呪術師が誰にも見つからずにあんたを殺す場所を作ったってことね」


「はあ……?」


 あまりにも簡単すぎる説明に、信二は意味が分からないという表情を浮かべるしかできなかった。なぜ自分が殺されなければいけないのか見当もつかないし、誰にも見つからないと言う意味が理解出来なかった。


「あたしたちもついでに始末しておこうってことかな?」


「美星……あとでしっかりと説明してもらうからね。これは貸しにしておくから」


「げっ……」


 なにか美星が事件を抱えていて、それに美波を巻き込んだ。

 正直なところ美星は美波を今村のケースに巻き込もうと考えていたが、この信二のケースに巻き込んでしまうとは考えてもいなかった。

 実際、こんな場所で信二と再会するなどと、美星は思いもしなかったわけだが、本気で怒っている様子の魔女にそんな言訳が通用するはずがない。


「だったら最大限の力を貸してよね!」


 美星は背中に手を回して木剣を引抜いた。


隠形いんぎょうの術で、相変わらず物騒なものを隠しているわね」


 美波はカウンターの上を水が入ったグラスを滑らせた。美星はそれを手で受け止め、グラスの中に指を突っ込んで濡らすと、その指先で木剣の刀身を撫で上げる。月光水げっこうすいと呼ばれる蒸留水を満月の光に数時間さらして作り出す浄水じょうすいの一種だった。

 不思議なことに、その水を塗った刀身から微かに桃の香りが漂いはじめる。月光水が持つ力で、木剣の素材とされた桃の木が目覚めた証拠だった。


 バワンバウン! バワンバウン!


 なにかがわめくような、あるいは犬が吠えるような鳴き声が響き、カフェの窓ガラスをビリビリと震動させる。


鳴蛇ミンシェア化蛇ファシェアか迷っていたけど、敵がなにかハッキリしたわね!」


「だとしても、準備する時間が欲しかったわ!」


 美波はハーブが入った引き出し棚からセイヨウネズジュニパーの葉を乾燥させたものを掴みだし、香炉にそれを入れて火をつける。


「そこの君! この香炉を抱え持っていて!」


「は、はあ? お、俺ですか?」


「私がこの中で名前を知らないのはあなただけでしょ!」


 信二に香炉を抱えさせると、美波は香炉から立ちのぼりはじめた煙を手で広げて、信二の身体全体に降りかかるようにしていく。


「ゲフッ! 煙い! なんで……」


「蛇に喰われたくなかったら我慢して!」


 バワンバウン! バワンバウン!


 より激しく外から声が響いてきた。もうそれはわめく声というよりも、銅鑼ドラを耳元で鳴らされているような轟音であり、気持ちを苛立たせるものだった。


「このカフェの結界が強固すぎるから、ここから追い出そうと躍起やっきになっているわけね……」


「と言っても、閉じこもりきりじゃ手は打てないわ」


「誰も引きこもるつもりはないさ!」


 外の様子を窺いタイミングを見計らっていた美星は、入口の扉を開けて外に転がり出ると、柄から刀身に刻まれた目盛り〝鬼〟まで指を滑らせてを睨んだ。

 空中を、まるで龍のように身をくねらせて泳ぐは、ひげ面で皺だらけの老人の顔を持ち、手足のない犬の身体、鳥の翼を生やし、蛇のような長い尾を持つ妖魔だった。


「どれだけ妖魔をぶつけてきたところでムダなのよ! 山海経せんがいきょうの内の南山経なんざんきょういわくく、獣り! そのすがたは人面にして身体はやまいぬのよう! 鳥の翼を持ちその尾は蛇のよう。わめくようにく! その名は化蛇ファシェア! 張天師ちょうてんし威声いせいを受け、もっこれ誅滅ちゅうめつせん! 急々如律令!きゅうきゅうにょりつりょう 勅! 勅! 勅! 万鬼駆滅ばんきくめつ! 疾!」


 以前、信二を襲った従従にしたように、美星は万鬼駆滅の巫術ふじゅつを放った。しかし、化蛇ファシェアはそのすがたを挙げられるたびに軽い身悶えこそすれども動きを止めず、汚らしい乱杭歯らんぐいばが生えた口を開いて水を吐き出した。


「え……うそ!?」


 放水車の水を思わせる高水圧の水はアスファルトを切り裂いて美星に迫り、間一髪のところで美星は跳んでそれを避けた。


「名付き!?」


 転がり避けながら、美星は術が効かなかったことを理解した。

 従魔術じゅうまじゅつと呼ばれる妖魔を従えさせる巫術ふじゅつがある。この化蛇ファシェアもその術で使役されているが、この術の欠点は知識がある術士には、その名を告げられて〝万鬼駆滅〟の術で簡単に倒されてしまう。その弱点を補うために、召喚主しょうかんぬしたちは真名しんめいと呼ばれる名付けを行い、同じ姿を持つ別の妖魔とし使役する。

 真名を知られると呪いを掛けられてしまうため呼び名を使うという風習は、こうした真名を与える呪術から来ているとも言われている。


「やっかいね……」


 水圧で切り裂かれたアスファルトは、まるで磨かれたガラスのような切断面をしており、その威力のほどを見せつけていた。直撃していたら、人間の身体など一瞬で切り裂かれてしまうだろう。


 バワンバウン! バワンバウン!


 圧倒的な優位を誇るように、化蛇は嘲笑ちょうしょうの笑みを浮かべてわめき声を放った。銅鑼ドラを思わす響きは美星の鼓膜を直撃し、痛みすら与えてくる音波兵器と化し、苛立ちを募らせて精神の集中を阻害そがいする。

 せめてこの喚きが弱まるか、あるいは動きが鈍れば次の策を打てるのだが、この状況ではそれも難しかった。

 美星が新たな印を組もうとすると、化蛇は高水圧の水を吐き出すか、あるいは喚き声をあげて邪魔をしてくる。

 信二を狙う呪術師は、彼の側に術者がいることを前提に、その対策を打てる妖魔を放ったのだ。

 だが――


 キンッ!


 金属のリングが石の上で跳ねるような澄んだ高音が響いた。


「転がれ転がれ魔法の指輪! 春から初夏に、初夏から夏に夏から秋に、秋から冬に、そして厳冬に、一刻ひとときの天候を転変てんぺんさせたまえ!」


 金の指輪が転がり、美波の呪句プレイヤーが唱えられると、その指輪の転がりに合せるように公園の木々の葉が茂り、そして枯れ落ち、気温も一瞬暑くなったと思いきや、急速に冷え込み雪が舞い始めた。

 気温が急速に冷え込むと、それに合せたように化蛇の動きが鈍くなった。普通の爬虫類同様に、寒さに弱いのだろう。

 この美波が作り出した隙を逃すことなく、美星は騎士礼をするように眼前に木剣を構え、それと水平に交差するように刀印を構えた。


雷公らいこう電母でんぼ威声いせいを受け、もって眼前の魔怪まかいを討つ。れをして五行ごぎょうの将、六甲ろっこうの兵を使い、百邪ひゃくじゃ斬断ざんだんし、万鬼を駆滅せしむるを得んことを! りんぴょうとうしゃかいじんれつぜんぎょう!」


 厳然たる声で美星はそう唱え、素早く鼻かららいの気を九回吸い、唾液を九度に別けて飲み込む。すると木剣の刀身に青白く光を放つ電気がまとわりつきはじめた。

 身を沈め身体全身のバネを使って地面を蹴った美星は軽身功けいしんこうを使って、そのまま垂直のビルの壁を駆け上がっていく。そして空中で鈍くうごめ化蛇ファシェアの頭上に跳び、その脳天目がけて木剣を振り下ろした。


「疾!」


 ダーンッ! という激しい雷鳴と共に稲妻が走り、落雷となって化蛇を貫いた。

 空中で真っ黒な炭と化した化蛇は地上に落下し、地面にぶつかった衝撃で粉々に砕けた。


「ふぅ……」


 着地して一息ついた美星は、足下に転がる金の指輪を拾いあげ、駆け寄ってきた美波にそれを渡した。


「サンキュ。おかげで助かったよ」


 季節が変り雪が舞ったのは、ほんのわずかな時間だけ。だが、そのわずかな時間でも美星が反撃の術を使うには十分な時間だった。

 気圧が変動するような鼓膜を圧迫する感覚とともに、モノトーンの世界は色彩を取り戻し、ズレていた世界は、本来の子どもの遊ぶ声が聞こえる現世に戻っていた。

 同時に美星の髪からハラ……ハラ……と色が抜けてゆき、真っ白な雪のような髪色に変化していた。


「術を使いすぎるから、髪色が保てないのよ」


「盛大にやっちまったからね」


 美星はポニーテールの尻尾をつかみ色を確認しながら苦笑を浮かべた。

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