休日④

 ドタドタドタ!


「ん……」


 時刻は深夜の三時を超えた頃、逃げるような、はたまた探すような力強い足音で目を覚ました。


 バタン!


「ん……?」


 俺は上体を起こし音のしたリビングの入口に目をやる。真っ暗で何も見えないが、そこに誰かいるというのだけは分かった。

 そして、この家にいる唯一の人物。伊織は先ほどと変わらない力強い歩調でこちらに近付いて来た。


「伊織か……。どうした……?」


 暗闇に慣れてきた目で伊織の輪郭を追う。


「!……」


「……」


 俺の右斜め前で足音が止まったかと思えば、抱きつかれた。シャンプーの匂いと、女性特有の柔らかさが全身を包む。

 伊織は確認するように、または逃がさないように抱き着いている腕に力を入れた。

 首締まってますよ。などと冗談を言える空気ではない。


「……どうした?」


 咄嗟のことですぐに反応できなかったが、伊織の鼻をすする音と嗚咽を聞いて抱き返し、なるべく優しく問い掛ける。

 ついでに頭も撫でる。


「っ……っ……!」


「ゆっくりでいいからな」


「うむ……」


 赤子をあやすように優しく頭を撫で続けた。


「ほら」


「ありがとうなのだ」


 伊織がリビングに来てから十五分ほどが経ち、落ち着いてきたタイミングを見計らってリビングの電気を付け麦茶入りのコップを伊織に渡す。

 電気を付けてから麦茶を入れるまで、伊織は俺の腕を掴み片時も離れようとしなかった。鬱陶しかったが、「離せ」なんて言うほど俺の心は淀んではいない。

 好きにさせた。


「なんかあったのか」


 伊織の目の周りの腫れ具合を見ればよっぽどのことがあったと言うのは容易に想像がつく。

 しかし、あの伊織を泣かせるなんてゴキブリでも出たのだろうか。


「……夢を見たのだ」


「夢?」


「空が私の隣から消え、どこか遠くに行ってしまう。そんな怖い夢を見た。あまりにも現実味があって鮮明な夢だったから怖くなって……」


「俺を探しに来たと……」


 伊織は顔を下に向けたまま小さく頷いた。


「……」


「……」


 ここで気の利いた言葉一つでも言えればよかったんだが、あいにくと女性経験が乏しい俺では出来ることに限りがある。

 取り敢えず安心させればいいのか?


「俺がお前の隣から消えるなんてあるわけないだろ」


「……そうだな」


 頭に置いた俺の手に伊織の汗ばんだ手が重なる。そうとう怖かったんだな。


「空は……」


「ん?」


「空は……これからも私の隣に居続けてくれるよな?」


「何を分かり切ったことを……。当たり前だ」


「!……その言葉が聞けて安心だ!」


 腫れの引いた顔を上げた伊織と視線が合う。


「……汗かいてるだろ。風呂入れてくる」


「うむ」


「……はぁー」


 風呂場の機械の電源を入れ無機質な電子声が響く。俺は浴室の壁にもたれ掛かりそのまま尻餅をついた。

 ずるいだろ……。顔を上げた伊織の顔が部屋の照明と相まっていつもより可愛く見え、一瞬見惚れてしまった。

 風呂を口実に逃げてきたけど、顔が赤くなったことバレてないよな。


「伊織は……友達なんだ……」


 熱くうるさい心臓を冷ますためにそう言い聞かせた。


 △


「遅かったな。何かあったのか?」


「別になにも……。風呂沸くから入ってこい」


「うむ。ありがとうなのだ空。……」


 ソファから立ち上がりリビングを後にする手前、ドアノブに伸びた伊織の手が止まった。

 こちらをチラチラと見てくる伊織の目は何かを言いたそうだ。


「どうした?」


「……」


「言いたいことがあるんだろ?言ってみろ」


「一緒に入ってはくれないか……?」


「えっ……」


 ということで


「そっち詰めて貰っていいか」


「うむ」


 背中合わせではあるが一緒に入ることになった。だって仕方ないだろ。あんな顔されたら断るものも断れない。

 俺ってつくづく女の涙に弱いのな。


「ありがとうな空」


「ああ……」


 一人暮らし用の狭い湯船のせいで互いがどんなに端に詰めても背中同士が当たってしまって、その度に心臓が跳ね、うるさく鳴る。

 この場を耐えきる自信が時間を追うごとに無くなってくる。


「……!何してんだ……」


「少しな……」


 どうにか耐えることに精一杯の俺に追い打ちをかけるように伊織が背中に寄りかかってきた。

 これ以上はヤバい……。


「空の背中は大きいな」


「……」


 俺の背中をなぞる伊織の指にくすぐったさを覚える。


「……もういいだろ。先出るからな」


「あ……」


 腰回りにタオルを巻き一足先湯船から出る。バスタオルで乱雑に体を拭き足早にリビングに戻りソファに座る。

 そして両手で顔を覆い深いため息をつく。


「……」


 御本伊織があんなに可愛い訳がない。


 △


「上がったぞー!」


 リビングに戻ってきたのは先ほどのしおらしさを微塵も感じさせないいつもの調子の伊織だった。


「上がったか。……眠……」


 忘れていたが現時刻は深夜、いや朝方の四時を過ぎた頃だ。あと一時間もすれば太陽が顔を出す。

 風呂に入ったとはいえ眠気が消えたわけではない。なんなら今すぐ寝たい。てか寝るか。


「俺は寝るから何かあったら起こしてくれ」


 ソファのふちを枕代わりにタオルケットを体に掛け目を閉じる。この分だとあと五分もすれば眠れるだろう。


「……何してんだ」


「一緒に寝ようかと思ってな!」


「わざわざここで寝なくても、エアコンの効いている部屋のベットで寝ればいいだろ」


「今日だけここで寝かせてくれ」


 背中を掴む伊織の手に力が入り微かに震えていた。


「……今日だけだぞ」


「うむ!」


「おやすみ」


「おやすみ!」


 ま、寝れなかったんですけどね。

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