無。
酷い腹痛に苛まれた次の日のことだった。
「え、何これ」
俺の隣に”無”が横たわっていた。
ーーーーーーーーーー
大きさは俺の顔より少し大きいくらい。色は黒色。
そこに”ある”はずなのに、俺はそいつを”無”としか認識できなかった。
とりあえず枕元にあられては邪魔なので床に置く。
するとコロコロとベッドに座る俺の足にぴとりとくっついてきた。
少し床が歪んでるのか?
そう思いながら俺が歩き出すと、少し遅れてソレはコロコロと俺の後を転がってついてくる。
どうやらこの無は意思を持っている。
そして俺を親と認識しているらしかった。
だからと言って特に俺の日常は変わらなかった。
何か食事が必要なのかと思いきや、そもそも口が見当たらない。
何か服が必要かと思いきや、そもそも球体に着せるものなんてない。
何かしてやらなければいけないのかと思いきや、勝手に後を転がってくるだけ。
ただ無は俺の後をついて回っていた。
仕事中も、休憩中も、退勤の満員電車も。
いつの間にか無は俺の足元をぴたりとくっついていた。
いつものように夕暮れの住宅街を通っていると、小学生の遊ぶ声が聞こえた。
パァンと小気味いい音が響き、サッカーボールが宙に浮かんでこちらに転がってくる。
「すみませーん!ボールこっちに蹴ってください!」
礼儀正しい小学生が帽子を脱いで頭を下げながらこちらにそう告げた。
それにふらふらと手を振りながら答える。ボールを蹴るなんて何年ぶりだろう。
「いくぞー!」
左足を軸にしてふっと右足を振りかぶる。目の前にあるのはサッカーボール。俺はそれを公園の中まで蹴り上げる。それだけのことだった。
「あっ」
感触はサッカーボールと遜色なかった。
無が宙を浮く。
そしてパインと音を立てて公園の中に入っていった。
「ありがとうございまーす!」
小学生の声が聞こえる。俺の足元にはまだサッカーボールがある。
数分待ってみたが、小学生からのクレームも、無が帰ってくることもなかった。
「まぁ、いいか」
俺はそのあと普通に帰路についた。心の中で無の行く末を考えながら。
結局。無は二度と俺の足元に現れなかった。
それどころか。俺が無を気にする暇もなくなった。
常に何かを考えて、行動いけない状態がしばらく続いた。
続いた結果。
「…俺が…か。」
心療内科の領収書を眺めながらぼんやりと呟く。
今はそう少なくない病気だとはいうが。どこか他人事のように…むしろ今も他人事のように思っている。
「職場も首になっちまったしな…」
下ばかり見ていてもしょうがなかった。
生きるためにはどんなに辛くても動かないといけないのは誰よりも自分が分かっていた。
でも。
そう思った時だった。
パァンと小気味いい音が空に放たれる。
小学生がサッカーでもやっているのだろう。
コロコロと音が近づいてくる。そして俺の靴にこつんと何かが当たる感触がした。
サッカーボールか。
そう思いながら領収書から目を離す。
そこには、無が転がっていた。
(暗転)
短編 その他まとめ めがねのひと @megane_book
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