とりつく。

僕の人生は酷く単調だ。

毎朝うるさい音で起きて、石のように重くだるい体で出勤して、微妙に寒いオフィスで仕事して、適当にご飯を胃に詰め込んで、来ないかもしれない明日にぼんやりと怯えながら眠る。

死にたくもないけれど生きていたくないなんて、凡庸になってしまった言葉を反芻して。ただ何となく死なないように、平凡に生きている。


平凡に生きてい…


「おーい」


平凡に…生き


「聞こえてるんでしょー?」


へいぼ…


「返事をしろ!」

「うるさいなぁ!!!」


脳みそに響く声に堪えかねて思わず大声を上げた。そして数秒を待たずして壁を殴りつける音に謝り倒してから、けらけらと笑っている元凶を睨みつける。


「返事しないのが悪いんじゃん」


しかし元凶…もとい先輩は僕の視線なんてものともせずに頬なんか膨らませている。可愛いなんて1ミリも思わない。


「僕はあなたをいないものとして生活してるんですよ」

「あんなに愛し合った仲なのに酷い!」

「…」

「無視するなぁ!」


先輩の声でカタカタと揺れる写真立てを見なかったことにして、まだぬるさが残るベッドから渋々起き上がる。ここ最近はずっとこの調子だ。朝も昼も夜も、常に先輩は僕について回ってきて邪魔ばかりしてくる。

傍から見たら漫画みたいで面白いじゃん!と思うかもしれない。けれどただ平凡に生きていて、それ以上を望んでいたわけじゃない僕からしてみればいい迷惑ってもんだ。


「なんでそんなに冷たいかなぁー元カノだよ?」

「元カノだからじゃないですか」

「もー!恋人じゃなくなっても先輩後輩ではあるんだからね?」

「あるんだからって…」


隠す気もないため息を吐いて昨日買ってきた菓子パンを戸棚から取り出すと「栄養偏るよ!」なんて母さんみたいな小言が聞こえる。ツッコみたくてしょうがなかったが、ここで変に返してしまえば調子に乗ってしまうことは確実。出かかった言葉は食前の薬の如く飲み込んだ。


「うわぁ…今日夕方から雨だって、傘持ちなよ?」


いつの間にかついていたテレビの天気予報を見ながら先輩はまるで自分の家かのようにくつろぎ始める。あまりにも自分勝手すぎる言動にイライラするも、面倒ごとを起こして会社に遅刻してしまったらせっかく起こされた意味がいよいよなくなってしまうから、ただ無心にパンにかじりつく。なんとなく甘いなぁって思う程度なだけで複雑な味覚情報は舌から喉に受け流されていく。


「美味しい?」


不意に先輩がこんなことを聞いてきた。人間の本能として音のした方を見上げてしまうとぱちりと視線が合ってしまう。


「味なんて分かりませんよ」


視線が合ってしまっては仕方がない。簡素に今の現状を話すと先輩はしゅんと眉を下げた。


「えー美味しそうなのにもったいない!」

「誰のせいだと思ってるんですか」

「えーだれのせいだろうなぁー」

「…もういいです」


いつの間にか手のひらで覆い隠せるほどの大きさになっていたパンを放り込んで椅子から立ち上がる。僕の態度に先輩はやらかしたと思ったんだろう。慌てて背後に近づいてくる気配がうっとおしい。


「なんかごめんね」

「…」

「ほら…私も君のことを考えてだね…ずっと寂しそうだったから、少しでも傍にいてられたらって思って、私が元気にしてれば君も元気になってたでしょ?」


きっと先輩は今、手をわたわたさせながら必死に言葉を繋いでいるんだろう。長い付き合いだ、それくらい分かる。


「そもそもせっかく恋人がかえってきたっていうのにそんな態度はないんじゃない?」

「かえってきたからこういう態度なんですよ」


堪え症のない僕は思わずそう言ってしまった。息を呑む音が聞こえる。けれどもう僕に言葉を口内に留める術はない。


「先輩知ってますよね…僕が幽霊とかお化けの類のもの凄い苦手なの!」

「だって大好きな彼女の幽霊だったら大丈夫だって思うじゃん普通!」


彼女の声と共に家のありとあらゆるものが軋み悲鳴を上げる。


「それ以上叫ばないでください…電球高いんで」

「あ…ごめん」


一転、経済的な注意を受けてしょんぼりとしている先輩は僕に憑りついている正真正銘の幽霊だ。

生前の彼女と僕はその当時付き合っていて、それなりに濃密な時間を過ごした仲でもある。

先輩がこの世を去ったのが…約1年前か。もちろん僕は彼女のことが大好きだったし、彼女の死を受け入れるのには結構な時間が必要だった。夢に出てきて欲しい、できる事なら彼女が死ぬ前に戻りたいと何度願ったことだろう。


「でも化けて出てきて欲しいとは言ってない!」

「改めて言う?」


しかし幼い頃からお化けや幽霊の類が大の苦手だった僕は、幽霊になってまで戻ってきてほしいとは思わなかった。確かに先輩に会いたい思いで胸がはちきれそうになって、涙が止まらなくなることは何度もあった。でも…でもだ。なんでわざわざ幽霊になって戻ってきたんだ。


「まぁまぁ形はどうであれ、また楽しい日常に戻れるってことでいい加減諦めよ!」

「大好きな人が自分の大嫌いなものになって戻ってきた僕の気持ち汲み取ってもらっていいですか?」


最大限の恨みを込めて先輩を今一度睨みつける。ようやくこの半透明な見た目にも慣れてきたところだっていうのに…。

先輩は分類的には地縛霊扱いになっているらしい。地縛霊って特定の場所から動けないはずでは?と思ったが、先輩に「君に縛られているってこと!」ともの凄い決め顔で言われてからはもう、何も考えないことにしている。


「いつになったら成仏してくれるんですか…」


寝ても覚めてもずっと憑りついている先輩に僕はもう疲れを隠そうなんて思えなくなった。先輩のことは今でも大好きだけれど、それ以上に先輩が幽霊であるっていう事実が重くのしかかっていて正直キツイ。


「君が幸せになったら…かな!」

「先輩が成仏してくれたら僕は幸せですよ」

「酷い!」

「うわっ!?」


ツルっと滑らせてしまった言葉が突き刺さり、先輩のやけに黒目が大きい瞳から涙が零れる。写真立てはさらにガタガタと揺れてテレビに映っている映像は気持ち悪いくらいに歪む。空気が淀んでなんだか部屋の中の重力がいきなり重くなった感じだ…なんだこの軽い地獄。


「僕が悪かったんで一旦泣き止んでください!」


このままだと部屋が壊れてしまう。そう焦った僕は慌てて宥めようと先輩に歩み寄る。すると数秒前の涙は何だったのか。ぱぁっと明るい表情をした先輩と視線が合った。

「泣いてないよ?」

「は?」

「君があまりにも酷いこというもんだからちょっと脅かしてあげようと思って!」

「早く成仏しろください」


部屋も先輩も心配して損した。僕は体の底からあふれ出たため息を全部吐き出してようやく会社に行く準備を始める。背後で「やりすぎたってぇ!」とギャーギャー騒ぐ声が聞こえたが、もういい加減その声に耳を貸そうなんて気は一切起きなかった。


「ねぇーごめんってばぁ!お願いだから相手くらいはして!」



(暗転)

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