第70話
「本当に来るの……? 境界のぼうやは……」
「ああ、アモエヌスに来るのならあそこで宿を取るだろう。君には彼の討伐をお願いしたい」
「どうして私が滅殺派の首領の言いなりに……と言いたいけれど、今回だけは聞いてあげるわ」
暗がりの中、ユリウスと長身の女性が話す。同じ禍奏団とはいえ、新星派の首領は姿を隠し、各々が自由に行動しているに過ぎない。故に渋々ではあるが、女性は彼の指令を受け入れる。
「確かに私なら境界に勝てるものね。幾ら強い魔法が使えても、操ってしまえばいいのだから」
「その通りだ、君には期待しているよ」
『傀儡の悪魔』グレモリーは指令だけを聞き入れ、建物を後にする。
「うふふっ……可愛がってあげるわ……境界のぼうや……」
――――
「あ……あのぉ……怒ってる……?」
「怒っていません、酒臭いので近寄らないで下さい」
ようやく臭いが取れ始めたローブを確認しながらヘレルから距離を取る。後ろ髪を何度も撫で付け、あの時の感触を消し去る様に窓辺に肘をつく。
「お、怒ってるじゃあん……ねぇ……ねぇってばぁ……」
後ろから肩を揺らされ涙声で謝罪されるが、こちらとしては出来るだけ近寄りたくない。ヘレルが後ろにいるだけであの時の感覚が鮮明に思い起こされるのだ。
「別に……後頭部に嘔吐されたからといって怒っている訳ではありませんよ、ゲロの神様」
「怒ってるっ! やっぱり怒ってるっ! だから何度も謝ってるじゃんかぁ! お酒上げるから許してよぉ!」
「だから……ホントに怒ってないから……! いい加減周りで泣きつくなよ鬱陶しいっ!」
「じゃあさ、じゃあさっ! 瓢箪のことは……秘密ね?」
「それは断る」
二言目にはすぐこれだ。まるで子供だと言わざるを得ない。瓢箪を手に入れたヘレルは常に酒気を帯び、鼻孔を擽る臭いで胸が焼けてくる。
「お客様、水の都が見えてきました。見えますでしょうか、【エルジー湖】が」
ようやく中間地点までやって来たなと一息を吐き、ヘレルが背中にしがみ付いたままの状態で先頭へと赴く。
「おねがいぃぃ……どうか……どうかぁ……! コレが取り上げられたらウチ……生きてけない……」
「ほぉら見えて来たぞ……! 【水の都エルジートライ】だ……あーもう、離せよっ! 分かったから……ちょっとは弁明してやるからいい加減離れろ!」
せめてもの気を使い、酒臭いから近寄るなとは声に出さなかったが、ヘレルの顔は涙と鼻水でグチャグチャに崩れてしまっていた。調子に乗らせれば腹が立ち、泣けば五月蠅く泣き喚く。俺の中で非常に関わり辛い人物トップスリーにまで躍り出てしまった。
「ぐすん……ありがと……」
しかし背中からは離れてくれず、俺の服で涙を拭う。この状態から鼻水まで拭ったら流石の俺も拳を叩き込もうと覚悟を決める。
「知ってるか、エルジートライ。魚料理が美味いらしいぞ?」
「さかな……?」
「世界最大の湖であるエルジー湖からは幾つもの種類の魚が獲れるのですよ。湖には『水竜リヴァイアサン』が住み、魚にとっては非常に住み良い場所、らしいです」
「その通り、一泊して馬車さんに休憩して貰って、明日出発だ」
「……ってことは……美味しいお魚食べ放題っ!?」
「食べ放題じゃ無いけど良い宿でも見つけるから、まあ楽しみにしてくれ」
「いぃぃぃっやったあぁぁぁぁっ!! サーモン! ウナギ! 本マグロっ!」
完全に本調子に戻ってくれて何よりだが、結局はトラブルメーカーであるのに変わりはない。きちんと監視しておこうと改めて気を引き締め、視界に入った水の都を見据える。どうか何も起こりませんようにと、今は祈らせてもらおう。
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