第43話

「『海神の涙落ネルフェホルス』」


 エンデル王国上空を覆う程の蒼い魔法陣を空に打ち上げ、清純な雨を降らせる。敵味方を問わない雨は全ての人間の傷を癒し、尽きた命の息吹さえも吹き返す。


「んっ――――くぅ……」


「大丈夫だから……ゆっくり休んでくれ……」


 苛まれる罪悪感。俺は一体何をしているんだと、何度も心が叫んでくる。今はそんな事を考えている場合じゃ無いと、何度も何度も振り払う。


「肉体と意識の境界線」


 王国内を攻め入った禍奏団の魔法兵の活動を停止させる。人型である以上、そこに意識は存在している。ものの数秒で敵対勢力は地に伏し倒れ、鎮圧された。


「何だ……テメェのその――――」


「オマエも眠ってろ……」


 一度だけ睨み、気合の魔法使いを眠らせる。数人居た兵士は倒れ、エイプリルも傷が治っているとはいえ、一度死んでしまっている様だ。暫くは安静にする必要があるな。


 少し離れた位置に倒れているトートの前で止まり、跪く。


「すまない、俺がダンタリオンの関心を引いたばかりに……貴方に重責を課してしまった」


「…………君は…………そうか…………ダンタリオンが言っていた」


「心臓も治ってますね、良かった。今から街の方の修繕に――――」


 何かが俺の背後で爆ぜた。周囲の建物を一挙に吹き飛ばす程の衝撃を見せつけながら、気合の魔法使いである須王達也が迫っていたのだ。奴は拳を中途半端な所で振り上げ、振り下ろそうにも見えない壁によって阻まれ苦悶の息を零す。


「在り得ねえだろ、オマエは一体――――」


「話す事は無い、いいから寝てろ」


 一度だけ空目になり、現実へと意識を呼び起こしながら殴り掛かってくる。その度に俺と須王の境界線に阻まれるが、知った事かと数秒の内に百発もの殴打を放つ。意識の切断を行っても、須王には通じない様だ。


「ハァ……どいつもこいつも……煩わせやがって……勝てないんだから挑んで来るなよ……」


 辺りを見渡すとレオナとキャロルが肩を並べているのが見え、手だけでこっちへ来る様に合図する。少し呆けた顔をしながら近付く彼女達。恐怖すら混じっているが仕方が無い、後ろでは未だに須王が殴打を繰り返しているのだから。


 やっと近付いてくれたレオナに対しシルヴィアの体を預ける。


「ほら、そこの境界線を通ってくれ。そうすれば避難所に着けるから」


「え、えと……後ろのは……大丈夫なんですか……?」


「須王か? 大丈夫だ、もう何も出来ないよ」


「舐めた事言ってんじゃねえぞォッ!!! こっちを見ろ、オレと戦えェッ!!」


「キャロルも、一緒に戻って休むといい。ここの人達は後で俺が運ぶから」


「えっ……あ、私は…………見届けても、よろしいでしょうか……?」


「……まあ、見たいなら見ればいいけど。大丈夫か? 随分とヤツれて見えるけど……」


「大丈夫ですわ……私は……騎士として、最後まで見届けますので……」


 少し血の気の引いた顔を見せてはいるが、脈拍等に異常は無い。初めての戦場を体験し、精神的に追い詰められているのだろう。


 ――――オマエのせいだぞ。オマエが何かを恐れていたから、こんな少女が恐怖した。


「『地神の祝福カルデアルーン』。何なら座って見ててもいいからな、辛くなったら何時でも言ってくれ」


 王国全土の破損した建造物を修復する。まるで時が戻る様にして、今までの損害が巻き戻されていく。


 キャロルは返事をしようと口を開けたまま、目の前の光景に呆けている。身体的に異常が無いのなら、俺に出来る事は無いだろう。


「さて……と。オマエはいい加減に諦めろよ」


「ハッ……生憎と諦めとは遠い存在でなァッ!! この程度の壁、ぶち破ってやらァッ!!」


「破れないよ、ソレは。境界線って言ってな、オマエはただ進めるのにソコまでと定められて進めないだけだ。空気に向かって拳を振って……まさに空振りを続けているって訳だ」


 須王は随分と恵まれた環境に生きているらしい。転生する際に加護として『急速成長』を抱え、あらゆる魔法を網羅し特聖へと至った様だ。


「恵まれているのに……どうして満足出来ないのかね……」


「アァッ!?」


「オマエはそこまでにしておけば良かったんだよ。何処かで満足して、結婚して、ゆっくりと余生を過ごせば良かったんだ。恵まれた異常者に、どうしてここの人達が踏み潰されなくちゃいけないんだ」


 誰よりも恵まれているのに、どうしてもっとと求めてしまったのか。


「そこから先は何も無いというのに……」


「この世界を――――変える為だッ!! 人間の頭を抑え付ける神格共を排除して、誰もが最高を目指せる世界を作るんだよッ!!!」


「オマエは……いや、もういいか」


 須王と問答をしても意味が無い。文字通り、覚悟を決めている。心象の欠片でさえ他人に踏み込ませない彼とは何を語ろうと意味が無い。


「相手が魔法使いである以上、これが最善だからな。まったく……とんだ二番煎じだ」


 煉獄の、ドワイトにもそうした様に、俺は須王から気合という特聖と魔力の全てを抜き取り手に取る。


「…………ハッ、滅茶苦茶だな……テメェ……」


「これで終わりだ。オマエはただの一般人、後は裁きを受けるだけだ。黙ってお縄に付け」


「そんでテメェは……今の今まで何処に居やがった……? その力があれば……四の五の言わせずオレ等を潰せた筈だろォ……」


 拳を境界線に押し付けたまま須王は顔を伏せ肩を震わせている。どうやら怒っている様だ。


 そうだろうな、奴にとって俺みたいな人種は許しがたい存在であるのだから。何が何でも、超えなくてはならない障害が俺なのだろう。


「邪魔をされた、だから遅れた」


「言い訳だろうが……そもそもの問題だ。オマエが本気でやれば、この世界の悪は根絶やしに出来る筈だろうが……。今の様にして……どうしてオマエは戦わない……」


「怖いからだ」


「アァ――――?」


「助けるだけ助けて、自我を失うのが怖い。なまじ何でも出来るから、世界なんて簡単に救えるから……その先で俺という自我が消えるのが怖い」


 完全に奴の怒髪天を突き抜けてしまったらしい。気迫が、闘気が、現実の世界へと浸食するのが目で追える。


「確固たる自分を持って……心に一本の芯を造り上げたならば……自我を失う訳が無えだろうがよおォッ!!! 人間を舐めてんじゃねえぞ塵屑がァッ!!! 世界超越、人類救済、やった所でテメェはテメェだろうがッ!! 気合が足りねえんだよ、ビビッて生きて楽しいのかテメェェェッ!!!」


「驚いた……随分とまともな事も言えるんだな。だけど、世界を変える為に殺しを選んだオマエが何を言おうと響かないんだよ。言葉と倫理を持って世界を変えに走らなかったオマエは、気合が足りないんじゃないか?」


「その通りだ。殴殺の限りを尽くし前へ行くと決めたならば――――俺は必ず、世界から神格を滅ぼすんだよォォッ!!!」


 須王の内側に魔力とは違う、何かが生成される。俺にはそれが精神力の塊に見えた。今の魔力を失った須王が、精神力をエネルギーへと変える為に進化を遂げようとしているとでもいうのか。


「――――気合いだ――――気合いだァァァァァァッッッ!!!!」


 物理の、いいや魔法の法則を飛び越えて……須王は自らの身に新たなる特聖として『気合』を獲得した。思わず見惚れる、奴の輝きに。魔法、魔力、全てを失っておきながら、奴は自身の唯一を獲得したのだ。


「……素晴らしいな。やはり魔法と特聖は紐付け出来る物では無かったんだ。確固たる自身の獲得……精神性の問題なのか……? いいや、それでも魔法の知識自体も――――」


「ボソボソとうるせえんだよ塵屑がァァァァッ!!!」


 だが、奴が物理攻撃しか出来ない以上境界線を越える事が出来ない。そもそも、壁では無いのだから超えようもないのだが。


「満足せず……妥協せず……!! 人類の明日に、人類の光を灯せるように……!! オレは諦めねえェッ!!」


「それで……オマエは何処で満足するんだ? その世界を手に入れた後に、誰もが光とやらを求めなかったら?」


 ――――何を期待しているんだ。オマエに並び立てる程、コイツは強くないんだぞ?


「だったら――――オレが全ての見本になるだけだッ!! 誰もが明日を、光を、努力を、気合を、出したくなる様に奮い立たせてやるしかねえだろうがァァッッ!!」


 そうだ、捉えろ。境界線はすぐソコだ。もう少しでオマエでも踏み越えられる筈だ。特聖を底まで振り絞れ、何が何でも諦めるな。


 だが、須王ではこれ以上進めないらしい。俺が感じ取れる一歩と、奴が感じられる一歩は果てしない距離なのだと改めて自覚させられる。


「満足に生きられる人間は多くない。そもそも配られたカードに不満を漏らして、明確な自分を吐き出せずに朽ちていく人間も居る。そんな中で満足して生きるのはとても難しい」


 須王へと歩み寄る。光すら超えた拳だって、決して境界線を越えられない。奴の拳で傷付く人間は、今生現れる事は無いだろう。


「それでも……人はどこかで満足して……妥協して死ななくちゃならない」


 理由は様々だ。それが叶えば迷惑を掛ける、自分が消失する。辛いから、面倒だから、犯罪だから、やりたくは無いから、届きそうにないから、本当に良いのかと自問する善性を持っているから。


 人生とは妥協の連続で、死ぬ時ですら妥協する。そんな最後にどれだけの誇りを胸に抱けるか、どれだけの人間に……尊く見送られるのかが、所謂人生の価値なのだと俺は思う。


 ――――自分の心にどれだけの雪が降り頻ろうと、他者から見送られさえすれば、価値があったと言えるのだろうな。


「――――オマエは妥協ここだ」


 新たに獲得した気合と、転生した際に獲得した『急速成長』を根こそぎ取り除く。善悪を反転させ、感情の発露を極限まで低下させる。ここまでやって更に気合を吐き出せるのならば、須王は間違いなく本物だ。いずれは俺に並び立つ怪物になるのかもしれない。


 だが、そんな期待とは裏腹に、須王は膝から崩れ落ちた。目には虚ろが、心には空が、目の前に現れた労働をただこなすだけの肉人形へと成り果てた。


「…………お前には……いや、これで終わりだ」

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