お姫様の呪いを解く者は
天に届けと叫んだジュチの蛮勇へ向かう決意は、当然この場にいる全ての者の耳に届いていた。
フィーネ、アゼルは当然として、飛竜のスレンですら少年の叫びに危ういものを感じ、ジュチを注視している。
「……何を、言っているの? 私、全然分からないよ」
一呼吸を置いて、震える声でフィーネは問いかける。
高原で微かに木霊するジュチの叫びは、まだフィーネの鼓膜を僅かに振るわせている。
大王鷲など怖くないと。これからとんでもない蛮行に挑んでやると少年は吼えた。
「ジュチくんは私が言うことを信じられないの? 嘘でも意地悪でも無いの。大王鷲は本当に恐ろしい《魔獣》で、縄張りに入ったら死んじゃうんだよ?」
「死ぬか―――いや、失敗するかはまだ決まった訳じゃない」
フィーネの傷ついた声による問いかけへ反射的に鋭く切り返しながらも、ジュチは申し訳なさそうに目を伏せた。
この後、フィーネに無茶を言うことを自覚していたからだった。間違った方向に決意を固め、
「もしかして、まだ諦めてないの…?」
「ああ。俺は永遠の花を摘みに行く」
「なら―――!」
力づくでも止める、と意を決したフィーネの周囲で呼応した精霊が乱舞する。
あとは少女の意思一つ示せば、
両界の神子たるフィーネの神威は、本来それほど埒外なのである。
だがフィーネが自らの意を示すより一瞬早く、ジュチが動く。
「そのために力を貸してくれ、フィーネ、スレン。何でもする…
真っ直ぐに少女を見つめ、もう揺らぐことなく定まった決意を込めて、ただ懇願する。
それは少女との友誼を恃んだ泣き落としだった。
その様を見た誰かはみっともない、往生際が悪いと少年を蔑むのかもしれない。あるいは少女を困らせるだけだと冷ややかな怒りすら抱くのかもしれない。
(でもそんなの知らない、知ったことじゃない。俺は、ツェツェクを助ける。そのために何でもすると決めた。フィーネのことも…!)
だがジュチはもう決めた、決めてしまった。正しい選択肢を投げ捨て、間違った道を進むことを。そしてその意志が揺らぐことはもう無い。天秤は一方に傾ききったのだ。
この時の少年は見栄や保身を完全に捨て去っていた。部族のために、ツェツェクのために己が使い潰されることも当然良しとした。
友誼一つを恃んで、無理無茶無謀を言い募ることに少女への罪悪感を抱いているが、今この時は己の胸中へ蓋をして厚顔無恥を貫くことを決める。
せめて全てが無事に終わったら恩義に報いるため、宣言通りにフィーネに出来ること全てをしようと決める。恐らくそれは叶わないのだろうが、と感じる申し訳の無さを務めて無視しながら。
ある意味、この時のジュチは無敵である。
「そんなの絶対おかしいよ!? 死ぬんだよ、死んじゃうの! 例え私とスレンが助けたって、大王鷲の一番近くで霊草を採るジュチくんが無事に済む保証なんてない! ツェツェクちゃんが助かってもジュチくんが死んじゃったら意味なんて無いんだよ! それに…!」
荒れた感情を鎮める一拍の間を置き。
今にも眦から零れ落ちそうな大粒の涙を湛えながらフィーネは静かに告げた。
「私だって……ジュチくんが死んだら悲しいよ。
「……ごめんな、フィーネ」
必死にジュチを説得しようとするフィーネへ、罪悪感で胸を掻き毟られながら拒絶の意を示す。
本当に、こんなロクデナシに涙まで流して引き止める価値などないだろうに何て心が優しい女の子なのだろうかとジュチは思う。
モージは言った。女を泣かせる男はどんな理由があろうとロクデナシだと。
きっとモージの言葉は正しかったのだろう、ジュチは彼女が誇れるような出来息子にはなれなかった。
「こんなのおかしい、絶対に間違ってる…。なんでジュチくんは間違った道を選ぼうとするの…? 私には分からないよ」
「良い子」であれと偏執的に呪いを刻み込まれた少女にとってそれは当たり前のことだった。
ジュチは正しい道を選ぶべきなのだ。そして何が正しいのかは一目瞭然ではないか…。
「ああ、本当に自分でもそう思うよ」
「だったら!?」
「出来ないこと、すべきでないことをしないことはきっと賢くて、正しいんだ。その逆を選ぶのはきっと馬鹿で、間違っているんだと俺も思う」
その理を認めながら少年はでも、と続ける。
「俺はみんなを、ツェツェクを助けたい。その結果どうなるにしても。そうすることが正しいとか、やるべきとかそうじゃないとか……そういうのはもう考えないことにした。うん、
そう、一種の開き直りですらある宣言をいっそ晴れ晴れとした顔で言い切った。
はっきり言えば無茶苦茶だ。
ジュチの言うことに何一つ理屈は通らない。子どもの屁理屈、ただの意地と切って捨てられる戯言に過ぎない。
傍らで二人の様子を見守っているアゼルも気持ちは分かれど擁護は出来ないという顔をしていた。それが当然の反応なのだ。
「間違っても、良い…?」
だが今この一瞬、今この時に限ればこの上なく「
言霊という概念がある。
言葉には霊的な力が宿り、現実の事象に影響を与えるという考え方だ。
巫術師が精霊へ捧げる祈りの言葉はまさにそれだ。
もちろんジュチは巫術師ではない。当然巫術も使えない。ジュチの言葉は精霊に聞き届けられることはない。
だがこの時のジュチの言葉には、少女を縛る軛を砕く魔法の力が確かに宿っていた。ならば「良い子」であれと呪いを受けた少女にとって、少年は自らを捕らえる檻を打ち壊し、外の世界へ連れ出す魔法使いに他ならない。
いま少女の中では世界がひっくり返るのに等しい価値観の変遷が起こっていた。
「良いの、かな? 本当に…」
闇夜に惑う子供のようにフィーネは呟く。
いまだにその矮躯を縛る呪いを振り切れるか確かめるように。
「
迷いは未だフィーネを縛っていた。
己の深い部分に問いかけるような呟きがその証拠だ。
しかし闇夜に射す一条の光を見つけたような希望もまた、呟きの端に滲んでいた。
「やっぱりフィーネも《
やはり、という納得を滲ませた呟きにフィーネは当然とばかりに語気を荒くして応じた。
ジュチに怒ったというよりも、胸中で荒れ狂う感情のうねりが叫びとなって口から飛び出したのだった。
「そんなの当たり前だよ! 助けたい…。本当は私だって助けに行きたかった! アウラを、私の友達を!」
「良い子」であれとの呪いに縛られ、従っていただけで本心ではフィーネだってアウラを助けるため《
ただ心の奥底に刻み込まれた呪いによって自制していただけで。
だが今まさにその軛は罅割れ、そして更に罅が広がろうとしていた。
「そっか。そうだよな」
うん、とジュチはフィーネの叫びに深い理解と共感を持って頷く。
なにせジュチとフィーネは同じように家族を病魔に侵され、同じ気持ちを共有している同志でもあるのだから。
「俺も同じだ。だからさ、フィーネ。一緒に俺たちの家族を助けに行こう。多分滅茶苦茶怒られるし、ひょっとしたらぶん殴られたり、ぶっ殺されそうになるかもしれないけど―――その時はまあ、一緒に怒られようぜ? 最悪、全部俺が悪いってことにしてさ」
あどけなく、それでいてどこか困ったように笑い、フィーネへ向けて手を差し出すジュチ。
その少年の笑みに少女の柔らかく繊細な部分は撃ち抜かれた。
心を揺さぶられ、脆い部分に柔らかく寄り添われ、一緒に行こうと手を差し伸べられたことがトドメとなったのだ。
(ぁ…)
カァ、と頬が紅潮し、それ以上に
同時に身を以て味わった感覚と母の言葉が結び付き、
(
フィーネがジュチを見つめる視線にこれまで以上に熱が帯びる。いまフィーネはジュチを永遠に独占したかったし、叶うなら彼の子どもを
それはさながら肉食獣の子どもが幼体を脱し、
環境と時間に左右される肉体と違い、時に精神は外部からの刺激によって急速に大人びることがある。それほどの精神的変貌が少女の中で起こっていた。
「……うん。一緒に行こう、ジュチくん。ずっと、一緒に」
闇エルフらしい家族への情愛と異性への恋心というも生易しい情念が、ついにフィーネの奥底に刻まれた呪いを振り切らせた。
かくして無邪気な少女は消え失せ、幼くも立派な「女」がそこにいた。
(言質はもう、とっくの昔に貰っているんだからね? ジュチくん)
本当に何でもすると、少年は言った。
ならばその言葉の通り、「女」は少年に何でもしてもらうつもりだった。
そしてその未来のためならば、大王鷲
ガンダールヴ王が、リーヴァ王妃が、そしてジュチが望んだようにフィーネは変わった。果たしてそれが彼らにとって常に良いことか、というと疑問は残るのだが。
「我が真名はアドルフィーネ。アドルフィーネ・フレア・イン・ヴォルヴァ。我が背の君よ、どうか我が真名をお受け取りになられませ」
「なんだよ、突然」
にっこりと笑っての格式ばった言葉に意味も分からず問い返すジュチ。
だがフィーネは敢えて答えず、更に笑みを深めることで圧力を強めた。
「受け取って」
「えっと…」
「受け取るって言って?」
「その、どういう意味か…」
「何でもするって言ったよね?」
「……受け取る」
笑顔から放射される強烈な圧力に屈したジュチは鸚鵡返しに言葉を繰り返した。
途端にパアァッ、と笑顔がさらに明るさを増す。その笑みはさながら山間から太陽が顔を出したかのような美しさに等しい価値があると世人は評価するだろう。
元が絶世の美少女であるから当然純朴な少年であるジュチにも効果は覿面である。
メチャクチャに熱くなる頬を必死に抑えながら、何とか疑問を絞り出した。
「結局何だったんだ、今の?」
「うーん、敢えて言うなら宣戦布告…かな?」
と、少女は半分だけ真意を答えた。
宣戦布告と言えば宣戦布告だ。近い将来世にはびこるであろう、少年を巡る競争相手への。
今の言葉は略式ながらも闇エルフの婚姻にまつわる一事を示す。闇エルフの夫婦は伴侶と真名=命を交換することで生涯の契りとするのである。
もちろん今のやり取りで婚姻が成立したとは誰であっても認めないだろうが、少女にとっては意味あることだった。
敢えて言うなら既に語った通り宣戦布告であり、少年への熱烈な求婚の申し出なのだった。
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