だからどうした


「諦めて、部族の元へ帰って。私、ジュチくんが死んじゃうところなんて見たくないよ…!」


 まなじりに涙さえ湛えてフィーネは少年へそう懇願した。

 そしてジュチは咄嗟に返す言葉を持ち得ず、二人の間に沈黙が落ちた。


「……………………」


 フィーネの言葉は正しい。どうしようもなく正しかった。

 少なくとも論理的に否定する言葉をジュチは持っていなかった。


「まだ、だ…。まだだ!」


 だが胸の内に湧いた諦めを無理やり振り切ろうとやけくそのように声を張り上げる。

 それは賭けですらない無謀で、だが諦める訳にはいかないという意地だけがジュチを突き動かす。


「そいつの留守を狙えばいい! よしんば出くわしても俺とエウェルなら逃げだして―――」

「ならジュチくんはスレンから逃げられるの!?」

「ッ―――!」


 己が名を呼ばれ、首をもたげたスレンが主の言葉に沿うようにジュチをギロリと睨む。

 それだけでジュチの背筋に氷柱が突っ込まれたような悪寒が走った。

 恐らく蛙が蛇に睨まれればこうなるのだろう。そんな場違いな感想が現実逃避した脳裏に走り抜ける。

 多少スレンと心を通わせようが、その暴威を現実に向けられた時ジュチは何処までも無力な少年に過ぎなかった。

 眼前に実体として在る原始的で圧倒的な恐怖。抗えない、抗いようがない彼我の力関係が無謀に挑もうとしたジュチの足を止めた。


「ジュチくんが挑もうとしているのは、スレンを殺せる魔獣なんだよ!? スレンから逃げ切ることも出来無いのに、大王鷲ガルダに挑むなんて死にに行くだけ。私に友達を見殺しにしろってジュチくんは言うの!?」


 今度はフィーネが語気を荒れ狂わせ、ジュチへ向けて一歩詰め寄った。

 少女の感情の昂ぶりに精霊が呼応する。

 轟々と風が逆巻き、晴天に突如として暗雲が呼びこまれた。吹き付ける風が湿り気を帯びる。

 嵐の前兆だ。

 フィーネの感情が嵐を呼び込み始めているのだ。

 異様過ぎる雰囲気を醸し出す闇エルフの少女にアゼルが警戒と畏怖の視線を向けた。


「……ジュチくんがどんな思いか、どんなに大変な目に遭って《天樹の国》に来たか分かるよ。それでも、お願いだからこのまま引き返して。これ以上前に進めんでも、何もない。何も、出来ないの」

「…………」


 滾々と諭すようにかけられる言葉に返す言葉がなかった。故に沈黙で以て答える。

 こういう時、子供特有の全能感は全く湧いてこなかった。無謀で愚かな蛮行へ足を踏み出す勇気が湧いてくることはない。

 前世の影響か並みの大人よりも回る頭脳が少女の言葉が正しいと理解してしまう。そして一度理解してしまえば、死の恐怖が少年の足を縛る。

 一度飛竜に襲われた挙句に臨死体験まで経験しているだけに、背筋を凍らせる恐怖は限りなく実感を伴っていた。


「…………」


 声が出ない、思考が纏まらない。

 考え無しの放言ですら、やってやるという言葉は出てこない。


(どうしようもない、のか…。でも…。だけど俺に飛竜並みの化け物を何とかすることなんて…)


 己が身の程を客観的に見ることが出来る故に、思考は否定的な方向へ傾いていく。

 こんな時、前世の記憶―――転生とは決して無条件の祝福ギフトではないのだと思い知らされる。

 ジュチに前世に関する確たる記憶はない。『知識』こそ豊富に思い浮かべることが出来る一方で『思い出』はほとんど引き継ぐことはできなかった。

 だがそれでも己の前世がどこにでもいるようなありふれた人間であったことは教えられずとも分かった。


(俺、は…。俺なんかじゃ、どうしようも…)


 どんなに努力しても成功に届かない領域があり、逆に殊更に努力をしなくてもそこそこの結果には辿り着くことが出来る。

 絶頂でも、どん底でもない平凡で中庸な人生みちを送ってきたのだろうと、記憶もないのに不思議と理解できる。

 限界を知っている、身の程を知っている、届かない場所があることを知っている。その記憶に残っていないはずの経験がジュチの魂に絡みつき、理性という名の言い訳を囁きかける。

 仕方ないことだと。

 命が危ないのだからと。

 助けに来た者が命を落としては本末転倒もいいところだと。


(こんなの、どうしようもないだろ…。俺じゃ、どうにも出来ない。どうにも出来ないことを無理やりやるなんて、ただの馬鹿だ。俺が失敗して、迷惑がかかるのは俺だけじゃないんだ…)


 理由を、自分を納得させる言い訳を胸の内で重ねていく。

 臓腑に濁った感情が積もるのを感じながら、心の天秤が片方に傾いていく。

 だから―――と、諦観と打算に塗れた賢しい前世おのれが結論付ける。


 だからツェツェクを見捨てるのもやむを得n―――


 諦めと言う名の安楽に沈もうとした少年を踏み留めるものがあった。

 それは決して希望ではない、むしろ恐怖と呼ばれる感情モノ

 だが現実に打ちのめされた少年が拠って立つための最後の砦であった。


(ダメ、だ…。ダメだダメだダメだ! 絶対に、それだけは、ダメだ! ダメなんだ!!)


 声に出さず、魂で叫ぶ。

 諦観を踏み潰し、打算を投げ捨てる。

 醜くも理屈の通った正論を、頭の中で思い切り殴りつけた。


「……だから、どうした」


 最初は誰にも聞き取れないほどの小声で。


!」


 続く叫びは山々に木霊するほどの大音声で。

 馬鹿馬鹿しいほど英雄的で、無謀と蛮勇に満ちた魔法の言葉を口にする。

 突然の叫びに目を見張る二人を他所に、ジュチはちっぽけな意地を貫くため、全力で自分を追い込んでいく。

 ビビッて腹が据わらないというのなら、言葉に出して無理やり決意を固めるしかないのだ。


「自分が馬鹿なのは分かってるんだ! 自分の身が可愛い臆病者だってことも知ってんだ!」


 フィーネの言葉に一切の誇張が含まれていないのだろう。

 真実、大王鷲は飛竜と同等以上の危険を持っていて、見つかれば、確実に……死ぬ。

 この状況で成功を望むのは、奇跡を望むことと等しい。


「死にたくなんてねえよ! デカい鳥に食われて終わりなんてそれこそ死んでも御免だ!」


 死ぬのは嫌だ、あの時のような思いをするのはまっぴらごめんだ。


「でもよ、しょうがねえだろうが!」


 かつて飛竜に襲われ、あの世に片足を突っ込んだ経験が、腹の底からそう思わせる。


「俺は、ツェツェクがいなくなることの方が、もっと、ずっと、おっかないんだ!!」


 それでもジュチは……己が死ぬより、家族ツェツェクが死ぬ方が遥かに恐ろしいのだと、気付いてしまった。


「上等だよクソッタレ! 大王鷲ガルダなんて怖くねぇ、怖くねえぞバカヤロォォーー!」


 家族へ向ける情愛で持って恐怖を無理やり乗り越え、ブルブルと絶え間なく震える脚を押さえつけ、|ヤケになった少年は天にも届けと蛮勇を叫んだ。

 フィーネの言葉は正しい。彼女が語る選択肢は安全で、犠牲の少ない、道だ。

 だが、正しい道だけが目指す場所に辿り着けるわけではない。回り道をするからこそ出会える景色があるように、間違った道辿り着ける場所だってあるはずだ。

 少年が進む道先はきっと都合のいい幸運など望めず、危険と困難が待ち受けるばかりなのだろう。

 それでも確かなことは一つあった。

 前世に目覚めた賢しいの少年はこの時、その賢しさを捨てて大馬鹿者えいゆうになるための一歩を踏み出した。

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