旅路、そして巨影
天険竜骨山脈。
ジュチ達カザル族が暮らす西方辺土に冠する大山脈である。
かつて大地の精霊と交信した古の呪術師が語るに、竜骨山脈の始まりは人がこの地に根付くはるか昔。かつて大陸として海洋を漂う大地が果てしない時間の中で少しずつ少しずつ動いていき、別の大陸とぶつかり合い、繋がり合った時に
「―――というのが、モージから聞いた竜骨山脈にまつわる伝承だな」
「中々興味深い。精霊と通じる呪術師ともなれば人が知らぬ、あるいは忘れ去った事物の一端にさえ触れうるということか…」
騎馬と荷駄を乗せた駄獣を引き連れながら山道を行くアゼルとジュチが旅路の中、気を紛らわせるために交わした会話の一節であった。
「エウェル、どうした。大丈夫か」
二人の旅人と彼らが率いる数頭の畜獣達。その中で美しい三日月型の角を誇る大山羊の歩みが僅かに遅れていた。声をかけると道端に咲く小さいが鮮やかな青の花弁を鈴なりに連ねた美しい高山植物を興味深げに顔を近づけている姿がある。
「……おい、
「あの食い意地の張った愚獣を引っ張ってこい。口で言って聞くようなタマか」
呆れたように声をかけたジュチへ向けて冷厳な口調で指示が出される。ジュチもそれに大人しく従い、エウェルの元へと近づくとかけられた手綱を引っ張ってやや強引に前へと足を進ませ始めた。
山羊の
だが好奇心が旺盛と言うべきか、はたまた食い意地が張っていると言うべきか。物珍しいモノ、特に山羊が好んで食べる柔らかい植物を見つけるととりあえず近寄って匂いを嗅ぎ、大体の場合パクリと口にしてしまうのだ。
「よくアレに自分の命を任せられるな。今更ながらに不安になってきた」
「アレでも凄いところはあるんだよ。何てったってとんでもなく図太いから普通なら死にそうな時でも何でか死なない」
「……有用な力を持っていることは認める。モージが名を与えたのも理解できる。だがどうにも普段の振る舞いを見ていると腑に落ちない気分だ」
「分かるよ。俺もたまにあいつの尻を蹴飛ばしたくなるからな」
そんな呑気な会話を交わしながら、ジュチはこれまでの旅路を思い出す。
ソルカン・シラ率いる戦士たちが戦場へ向かう背中を見送り、最後の準備を大急ぎで済ませて部族の元を出立し、早数日が経った。
《
モージが語った通り、危険に事欠かない旅路だった。
そして年長者であり、旅慣れた遊牧民であるアゼルに学ぶことの多い旅でもあった。
◇
「山は危険だ。人の世の掟ではなく、山の掟が支配する。
初めての教えは急ぎ準備を整え部族の元を出立したその日。アゼルの精悍だが不愛想な顔を更にしかめっ面に変えながらジュチにそう金言を与えた。
そして折々の機会や危難に助言や手本を示し、ジュチに旅の心得を仕込み始めた。
「当然のことだが、足元には十分に気を付けろ。山岳踏破で足を挫けば地獄行きだぞ、比喩ではなくな」
ある時は馬から降りて足場の悪い下り坂を下っていたところに転びかけたジュチの手を引いて姿勢を立て直しながら。
「山に慣れた者でも忘れがちなのが水だ。高く登るほど空気が冷え込んでいくから気付きにくいが、山を越える内にかなり汗をかく。だがすぐに汗は乾くから渇きに気付かず、いつの間にか身体が弱って倒れることもある。
時間を置いて定期的に飲め。最初の内は俺が声をかけるからそれで適当な間隔を掴んでいけ。喉の渇きではなく、小刻みに水を飲む機会を作って慣れたら徐々に減らしていくのがコツだ」
またある時は熟練者でも怠りがちな水分の補給について、革袋の水をがぶ飲みするジュチの頭をはたきながら、その心がけを説く。
「草原でもそうだが、山岳では
夜の寒さに震えるジュチへ足をすっぽりと覆う象足とたっぷりとした毛皮で出来た暖かい上着を差し出しながら寒暖の激しい山岳地帯の適応法を身を以て示した。
「雪目にも気を付けろ。アレにかかると何日かは足止めを食らう。そんな余裕は俺たちにはない」
「雪目ってアレか。雪の照り返しで目を傷める…。夏なのに雪目が起きるんだな」
「ああ。恐らくは天に近い分、太陽の光も強いのだろうな。それと毎日必ずこの塗り薬を目の下に塗り付ければ多少は眩しさも防げる。帽子や被り物を上手く使って目元に影を落とすのも忘れるな」
昼の雲一つない炎天下、強く照り付ける日差しを受けて歩く中。懐から煤と蜜蝋を混ぜた塗り薬を取り出し、率先して自らの目の下に塗り付けながら目を傷めるのを防ぐ智慧を授けた。
その姿を見たジュチは前世の記憶を刺激され、両目の下に黒い太線を引いた野球選手(?)なる人種の姿を想起した。
特にアゼルが口を酸っぱくして注意したのが、山を汚すことが呼び寄せる危険についてだ。
「それと極力山々を汚す真似は控えろ。
「獲物を狙った狼とか? それとも獲物の恨みが幽霊になって襲い掛かってきたり」
まるで幽霊でも語るような口調に茶化すように応じてみると、極めて真剣なしかめっ面での返答が返ってきた。
「いいや。山とは聖地。其処を汚せば一帯の部族の敵意を買うぞ。一度敵意を買えば周辺の部族に伝わるまで瞬く間だ。狼と人、どちらが恐ろしいかは分かるな?」
「……了解」
極めて現実的かつ危険度の高い脅威に茶化す言葉も一瞬で萎える。世に様々な危険はあれど人間同士の諍いはその中でも特に危険なのはジュチも良く知っていた。間違っても茶化して軽視出来るような危険ではない。
ジュチは教えを守り、
「アゼル、凄い!
時に山道の近くに出没した野兎や山鳥をアゼルが弓矢を以て見事な腕前で仕留め、快哉を叫ぶこともあった。大声で称賛の声を上げる少年に、アゼルも心なしか得意気に胸を張って見せた。
仕留めた獲物の肉は旅のささやかな食事に華を添えたし、景色に代わり映えがなく険しい山道が続く道程では良い気晴らしだった。
「ここからは《天神の怒り》を避けるために当分はゆっくりと登っていく。焦れったく思うかもしれんが、神の怒りを避けるためだ。我慢しろ」
時にはアゼルに教わるばかりではなく、ジュチが智慧を示す場面もあった。強烈な急傾斜をゆっくりと登りゆく道で示した智慧に思わずアゼルも素直に感心したものだ。
「《天神の怒り》?」
「天に近づきすぎた者に天神が下す罰と言われている。頭痛や吐き気、息切れが襲い掛かり、酷い者は死に至ることもある。罰を受ける者はその時々によってバラバラだが、高く山を登るほど怒りを向けられやすいと聞く」
つまり高山病かと聞き慣れない言葉について問いかけたジュチは思った。確か前世でも高山病が天に近づきすぎた神の怒りとして恐れられた時代と地域があることをジュチは知っていた。そして実際は神の怒りでも何でもない、理屈として説明できる病であることもだ。
「それ知ってる。確かどんどん高いところに登っていくと空気も薄くなるから身体が慣れないと体調を崩すらしい。防ぐにはゆっくり山を登って体を慣らしていく必要があって……特に出発してから寝る時の高さが離れすぎていると起きた時にポックリ逝ってるなんてこともあるらしい。あんまり辛いなら低い場所に下って休んだら良くなることもあるとか」
「……空気が薄い? 空気に濃淡があるということか? そも誰からそんな話を聞いた?」
「モ、モージから聞いた」
原因から対処法までサラリと披露した知識に相当に訝しい目を向けられたジュチだが、咄嗟に口から出た出まかせにそれなりの信憑性があったらしく、なるほどと頷かれた。この時代、この地域では人々が保有する知識というのは相当に個人差があるので、部族一の知恵者であるモージから聞いたと言えばそういうものかと納得する者が大半だ。
後でモージに口止めしないとヤバイな、と思いつつも前世の知識は積極的に活用していくつもりである。なにせ持てる力も知識も活用してもなお帰ってこられるか危うい道行きなのだから。
「……なるほど。モージの秘蔵っ子という訳か」
ジュチが
実際はモージからそうした知識、技術の伝授を受けているのは義妹であるツェツェクの方だ。ただし《
◇
そんな道を歩けば危険に行き当たるような旅路を半ばまで無事に踏破出来た功績の大半はアゼルの物と言えただろう。
アゼルはまだまだ幼く、危なっかしいジュチから目を離さずに手を差し伸べながら、辛抱強く教えを説き続けた。ジュチも良くその教えを学び、道半ばを過ぎるころにはまだまだ半人前と呼ばれるくらいには成長した。
旅歩きの素人同然だったことを思えば長足の進歩だろう。
特に少年の意外なしぶとさはアゼルも評価するところだった。普通ならとっくの昔に体力が尽きて根を上げているだろう調子で進む旅にも文句一つ漏らさずに付いてきたのがまず尋常ではない。
アゼルの見立てでは同年代の子ども達と比べても飛び抜けて力が強い、足が速いということはない。だがとにかく体力や勘の鋭さは人一倍…いや、三倍はあるらしい。
アゼルですら顔に出さないものの、強い疲労を感じる旅路なのだ。それに幼さの抜けない少年が付いてきているという事実は十分な異常事態だった。
(……こいつ、本当に人の子か? さもなければモージに
疑問は尽きない。
だがアゼルはさして気にしなかった。
ジュチは本気で部族を、ツェツェクを助けようとしている。それだけは確かで、そこが揺るがなければ多少妖しげなところがあろうと気にしない逞しさ、または鈍感さをアゼルは備えていた。
それに歩みを遅くすることなく強行軍を続けられるというのは、実際都合が良いのも確かだった。
ならばなおさら気にする理由がない。
もっと言えば言動の端々に能天気さが伺えるジュチを問い質しても、求めている答えが返ってくるか怪しいという所感も理由の一つだった。
そんな風に幾つかの想定外を挟みながら、旅路は順調に進んでいたが、最も『死』に近づいたと言える一幕があった。
恐ろしく強大で危険な、
話は変わって、旅する中で遭遇しやすい脅威はやはり外敵による襲撃である。
この旅路でも猛獣や追剥の類に襲われかけた数も一度や二度ではきかない。
その度にアゼルが見事な弓射の腕前を披露し、あるいは気付かれる前に気付き先んじて逃げ出すことで窮地を脱していたのだが…。
「アゼル、エウェルが周りを警戒している。近くに何かいるみたいだ」
「……痕跡を大急ぎで消して先を急ぐぞ。エウェルの感覚は鋭い、常に様子には気を配れ。何かあったら知らせろ」
「了解。任せてくれ」
襲い掛かる危機を潜り抜けるのに最も貢献したのがジュチ…というよりも相棒のエウェルだった。警戒心の強い山羊特有の危機察知能力で迫りくる危険を感じ取って騒ぎだし、連鎖的に少年が気付く、という形で意外な貢献をしていた。
だがこの時二人の傍まで近づいていた危機は、一瞥も交わさない内から彼らに『死』を想起させる、ひと際恐ろしい代物だった。
(なんだ…? 首筋が、ひどく冷たいこの感じ…)
ゾクゾクと首筋を走る寒気。まるで喉元に刃を突き付けられているような感覚だった。
エウェルも同じ感覚を共有しているようで、さっきからしきりに不安そうに鳴き声を上げている。
「アゼル、急ごう。よく分からないけどなんかヤバイ…!」
「分かった。向こうの方に身を潜められそうな林がある。そこへ逃げ込むぞ」
「了解っ!」
エウェルとジュチの様子から警戒心を引き上げたアゼルが、灌木と小さな樹木からなるささやかな木立を指し示し、一行は足を速めた。
すぐに一行は小さな林の傍に到着し、怪しい気配が潜んでいないことを確認すると、大急ぎで畜獣達を木の覆いの中に隠していく。
さして大きくない木立だが、馬から降り、人間と畜獣達が身を屈めればその姿を隠す覆いになってくれるだろう。
「よし、俺たちも…!」
「待て。雌羊が一頭がはぐれた。連れ戻してくる」
闇エルフ達への貢物として引き連れていた、丸々と太った雌羊が一頭、彼らの誘導から逸れて山肌にポツンと佇んでいた。
その距離は木立からは離れていない。すぐに連れ戻そうとアゼルが林から出ようとするのを腕につかまって押し留めた。
「ダメだ、アゼル。ジッとしていよう」
「すぐそこだ、ジュチ。まだ周囲に怪しい気配はない。連れ戻すのに時間はかけない」
「本当にダメだ、とにかくヤバイんだ。信じてくれ!」
「だが…」
先ほどから背筋の寒さがどんどん増してきていた。これは、そう―――かつて
ジュチは直感する。この寒気を発する怪物もまた、飛竜に近しい脅威であると。
その直感を信じてアゼルを引きとどめ続ける。
その刹那、巨大な影が二人の頭上を横切った。
巨影が撒き散らす捕食者の気配、鋭く笛を吹き鳴らしたような甲高い鳴き声が二人の言い争いを中断させた。
そして一瞬で山肌に孤立した雌羊をその鉤爪で捕らえると、身を翻して北の方へ飛び去っていく。
身を捩る雌羊の抵抗をまるで無いものかのように扱う、凄まじい力強さを持つ《魔獣》であった。
木立に視界を遮られ、その姿ははっきりと認識できない。
だが少なくとも
「なんだ、アレは…。まさか、アレが噂に聞く
「違う、あの影は
では何か、との問いには答えられないが、あの影の輪郭は飛竜のソレとは決定的に異なっている!
そして小声で声を交わし合う瞬間にもその巨影の主は遠ざかっていく。
その雄偉な後ろ姿が完全に視界から消え去るまで、一行は林から出ようとしなかった。
それほどの脅威から間一髪で九死に一生を掴んだ、危うい一幕だった。
「ジュチ…」
「ああ…」
「助かった。正直、よく止めてくれた。でなければ命を落としていたのは雌羊ではなく俺だったかもしれん」
「へへ…。アゼルにそう言われると悪い気はしないな」
相手が自分よりもずっと幼い少年であっても真っ直ぐに礼を言えるアゼルの潔さはジュチも尊敬するところだった。
照れ隠しか人差し指で鼻の下をこする少年に、感謝の念と若干の微笑ましさの籠った苦笑を向ける。
危うく命を落としかけた一幕であったが、結果的にこの出来事がジュチとアゼルの結びつきを強めた。
ジュチとアゼル、二人の立場に差はあったが、互いが互いを対等な旅の仲間として頼み始めるキッカケとなったのだった。
ジュチはアゼルを不愛想だが頼りになる年長者として敬い、アゼルはジュチを生意気だが勘が良く根性のある弟分として目をかけるようになった。
旅は続く。
危険に溢れていても、苦行だけではない旅が。
そしてさらに数日をかけて山々と草原に跨る道を歩み続けた二人は、《
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