ありふれた日常
「全員は要らん、二刻の間に集められる者だけ集めよ! 遅れた者に獲物は残らんと良く言っておけ!!」
アゼルからの急報を耳にしたソルカン・シラは話が終わるや否や部族長として全ての男たちへ向けて完全武装で族長家の天幕まで集まるように号令を発した。
そして号令に対し即座に応じて戦の準備が恐ろしいほどの短時間で整ったのも彼らが騎馬民族たる由縁だったろう。家畜を追っていない時は獲物を追っていると言われるほどの狩猟好きである彼らは手元から弓矢と防具を手放すことはない。
何より幸いだったのは連日の《悪魔》騒動で少なからず部族の男達が族長家の天幕を訪ねていたことだろう。戦の知らせは野火よりも早く男たちの間を駆け巡り、どこか喜びに似た怒りと戦意を爆発させた男達は嬉々として族長の元へ集い始める。
自らの部族の縄張り内での迎撃戦という状況も最低限の準備だけで済むという方向で追い風となった。こうしてガチガチに硬化処理を施した革鎧を着込み、弓矢や湾刀、投槍を手にした二十騎余りの騎馬集団が刻限の内に
もう少し待てば更に集まっただろうが、数よりも速度を重んじたソルカン・シラは纏まった数が集まるやすぐさまアゼルとともにボルジモル族の姿を見た若者を先頭に立て、疾風のように騎馬を駆けさせ始めた。
「ソルカン・シラは大丈夫かな?」
風のように駆けていくその背中を見送ったジュチは思わず不安げに問いかけた。
「初陣も済ませていない子どもが族長を案じるなど十年早い」
気遣いではなく呆れの籠ったアゼルの言葉に怒りよりも早く疑問が湧く。ジュチの知るソルカン・シラは時にバヤンと声を合わせて豪快に笑い、時に優しく頭を撫でる好々爺だ。アゼルの語る戦巧者とはイメージの乖離が激しい。
「族長はかつて一度の戦で二人射殺し、六人の戦士を撫で切りにした勇者だ。カザル族がこの辺りで広い縄張りを張っているのも、ソルカン・シラの勇名があるからこそ」
部族間のいさかいが日常茶飯事の草原でも一人も敵を殺すことなく生涯を終える男は実のところそれなりにいる。それだけ必死に抵抗する人を殺すのは難しいし、
それが一度の戦争だけで八人、部族一の勇者と呼ばれるのも納得の戦果だった。もしその恐ろしさに実感が湧かない場合はこう考えればいい、二十~三十人程度の小規模集団での戦争において敵方にソルカン・シラがいるだけで味方が少なくとも七、八人は
果たしてそんな化け物率いる集団と正面からの殺し合いに臨みたいかと聞かれれば、もちろん否と答えるだろう。
「…………おっかねー。正直チビりそう」
そうと腑に落ちれば途端に身も蓋もない感想が湧いてくる。開けっ広げな感情を隠さない呟きにアゼルは何とか吹き出すのをこらえた。
「そういう訳だ。お前はソルカン・シラを案じる余裕があるならば、旅路へ向かう自分のことを考えておけ」
「まあ、な」
アゼルの言葉は全く正論だったので、ジュチもそれ以上無駄に戦争の行方を案じる思考は控えるのだった。
◇
一面に草と青空が広がる草洋にも大小さまざまな起伏がある。その一つ、カザル族の縄張りにある中でひときわ高い丘の影となる場所にソルカン・シラと男衆の皆は乗騎とともに集まっていた。
「アゼルが言った通りか。やれやれ、面倒なことだ」
「数は我らと同数と言ったところか」
「我らの武勇を示すにはちと物足りんな。もう少し連れて来れば歯ごたえもあったのだが」
「ボルジモルの一党にそんな余力は無いだろう。元々奴らの縄張りは小さく、数も多いとは言えん」
馬を降り、丘の上から顔だけを覗かせたソルカン・シラの眼下に騎馬一騎を先頭に時を惜しめとばかりの襲歩で駆ける騎兵の群れが映る。向かう先の方角には族長ソルカン・シラの天幕、カザル族の本拠地がある。いまそこは臨時の救護所としての役割も持っており、動かすことは出来ない。
「武装を整え、隊列を揃え、
「奴らの事情など知ったことではない。戦支度をして隊列を組み、先触れもないまま我が部族の縄張りに足を踏み入れて無事で帰れると思うのなら、その白痴の代価を教えねばならぬ」
皮肉気に呟く男の言葉をソルカン・シラは短く切り捨てた。何かしらの事情はあるのだろう。ジュチが推測を立てたようにボルジモル族もまた病に襲われて困窮し、一か八かの賭けで略奪に動いたのかもしれない。はたまたよそ者からは想像もつかない理由でカザル族とは全く関わりなく移動しているのかもしれない。
いずれにしても族長の地位を預かるソルカン・シラの選択は一つだ。
万が一ボルジモル族の行動に理と義があったとしても、ソルカン・シラはこう言うだろう。誤解されるような真似をした者が悪いと。
「だな」
「その言葉を待ってた」
「戦だ、戦」
物騒な笑みを浮かべる男達が次々に同意の声を上げた。
「騒ぐな、戯け共が」
すると一段声音が冷え込んだ族長が短く窘めた。血の気が人一倍多い男達だったが、ソルカン・シラに逆らう愚か者はいない。すぐに雑音は消え、風のそよぐ音が残った。
「で、奴らをどう料理する?」
「難しく考える必要は何一つ無い。待ち伏せ、逆撃を仕掛ければ良かろう」
「ふふん、逆襲を食らった奴らの顔が見物だわい。奴ら、ここで我らに襲い掛かられることなど考えもしていまい」
ニヤリと凶悪に笑う男の言にも一理あった。
奇襲をかける側の集団は奇襲をかけられることを意識しない。自らが攻める側、奪う側であるという意識がある。事実としてアゼルが偶然気付かなければこれほどまでに迅速に対応できなかっただろう。恐らくは部族が全滅することこそ無いだろうが、大きな痛手を受け、生き残りの者たちはボルジモルの一党と血で血を洗う復讐戦に明け暮れることになっただろう。
「此度の功績第一等はアゼル達に決まりだな」
「阿呆が。明日のことを語るのは生きて帰ってからしておけ」
「おお、怖や怖や…。冗談だ、そう睨まないでくれ、ソルカン・シラ」
故にこの戦の勝因を上げるならアゼルの幸運であり、ひいてはカザル族の幸運であると言えた。
いまやボルジモル族が持っていた奇襲の優位は消え失せ、逆に彼らを追い詰める劣位となった。ならば逆に奇襲の優位を握るカザル族が負ける道理は無い。
「ふむ」
そして奴らに逆襲を仕掛けるまでに出来ることがあるとすれば、あとは士気の高揚くらいだろうか。ゾリ、と顎髭を撫でたソルカン・シラは皆を焚き付ける文句を頭の中で素早くまとめ終えると、ゆっくりと戦士たちに向き合った。
「さて、諸君。《悪魔》なぞに血族の子らをいいようにしてやられ、憤懣を溜めていたと見るが、
二コ、といっそ朗らかな笑顔で完全武装した騎兵の一団に語り掛けるソルカン・シラ。笑顔とは肉食獣が牙を剥く所作に似るという。いまソルカン・シラの貌に浮かぶのは
「結構、皆の目を見れば答えは分かる。諸君らに朗報だ、存分に
好々爺じみた笑顔から一転、隻眼から眼光を炯炯と光らせる彼らの族長。その赤子も逃げ出す凶相に草原の男たちはそれぞれ無言で戦意、嚇怒、苛立ち、狂奔を示して準備は万端である、と応えた。
結構、と再度頷き、ソルカン・シラはその右手に握った湾刀で目標を指して短く指示を出す。
「先頭を走る奴らの長は私の獲物とする。それ以外は好きに払え、虫を散らすように」
応、と一言揃えて答える男達。その眼にはギラギラと戦意が輝いている。
「では諸君、皆殺しだ」
いっそ酷薄なほどあっさりと、カザル族とボルジモル族の血で血を洗う戦の火蓋は切られた。十分に距離は近づいたと判断したソルカン・シラの合図でカザル族の戦士たちは眼下のボルジモル族の騎馬へ次々に矢を射かけたのが始まりとなった。
そしてその結果は……一方が全滅し、他方は死者を出すことなく勝利を決めた。
戦果の大半が奇襲を仕掛けた際の一斉射による射殺、一部が湾刀による斬殺である。ソルカン・シラは老いを感じさせない手並みであっという間に頭目の首を射抜き、その後混乱するボルジモル族の集団に抜剣突撃。ボルジモル族の男たちのことごとくを討ち取ったのだった。
「喜ぶには早いぞ、皆の衆よ。私が言ったことを忘れたか?」
戦勝に沸く男たちにソルカン・シラがとぼけた顔で問いかける。心得たように野蛮な笑みを見せるのが半数、戸惑いを見せるのが半数と言ったところだ。前者は脂の乗った年頃が年が多く、後者はまだ経験の浅い若手が多かった。
やれやれとため息を一つ吐き、ソルカン・シラはもう一度己の言葉を繰り返した。
「
ソルカン・シラは戦勝後間を置かずに殲滅した騎兵がやってきた方向へ物見を出してボルジモル族の居場所を特定した。戦に備えてだろう、ボルジモル族の者たちは部族纏めて天幕を畳み、家財を牛馬の背に乗せて逃げるように移動を続けていた。仮に先の襲撃が成功しても生き延びたカザル族から復讐戦を仕掛けられる危険性を考えれば、先んじて戦火を避けて避難しておくのは
だがカザル族に幸運が味方し、先んじて奇襲を仕掛けボルジモル族の男衆が全滅した今となっては獲物が寄り集まってただの狙いやすい的でしかない。
「好都合だ。やはり我らに天神は微笑んだようだな」
ソルカン・シラの言葉が真実であれば、その微笑みはきっと血に濡れた野蛮な笑みだろう。そう思わせるほどの凶悪な喜びに満ちていた。
避難するボルジモル族と畜獣の塊を見つけ出した頃にはカザル族男衆のほぼ全員が集結しており、風のような速さで逆襲をかける。奇襲で全滅した戦力が向こうのほぼ全軍だったらしく、抵抗らしい抵抗に遭うこともなく速やかに決着は着いた。
男達はボルジモル族の物資と畜獣を思う存分略奪し、奴隷に落とす者たちを除く部族全ての首を躊躇いなく刎ねた。亡骸の始末は大地に生きる禽獣達に任せ、奴隷に落ちた者達の手首に縄を打って引き連れながら悠々と乗騎に跨り帰還の途に就いた。
「では残りの仕事は任せたぞ。遅参した男どもは好きにコキ使え。戦に加われなかった分の埋め合わせ程度はしてもらわねばな」
「あいよ。任せな!」
と、帰参した族長とその妻との間にこのようなやりとりがあり、戦火の後始末はバヤンに引き継がれた。
女衆筆頭バヤンの指示で部族の者たちは次々に幾つかの集団に分けられ、ボルジモル族の遺産を回収するために次々と凄惨な虐殺の現場へ向かった。そしてハゲタカよりも貪欲に残された金目の物や役立つ物資、離散した畜獣を根こそぎ浚い尽くしていく。
小なりとはいえ一つの部族そのものを奪い尽くしたに等しい戦利品はカザル族の懐を十分すぎるほど温めた。《悪魔》によって費やした貯えを補って余りある大戦果であった。カザル族の皆もこの時ばかりは純粋な喜びに沸いたのだった。
「逃げ去った者は無理に追わずとも良い。だが見かければ矢の的にしてやれ。良い見せしめとなろう」
此処は草原であり、住まう者は皆騎馬民族だ。ボルジモル族も身一つ、馬一頭で逃げだしたような生き残りは僅かに出たが、彼らはカザル族を付け狙うどころか今年の冬を生き延びることが出来るかも怪しい。捨て置いても支障は無いとソルカン・シラは言い、皆もそれに従った。カザル族は勝利と戦果に十分満足しており、わざわざ逃げ去った特に旨味もない得物を追う勤勉さは持ち合わせていなかった。
「それと近隣の部族に使者を送り、事の経緯をよく伝えておけ。これからボルジモル族の縄張りは我らが仕切ることも併せてな」
ボルジモル族が根拠地とした縄張りもまた恙なくカザル族に継承された。また一つ煌びやかな勝利を重ね、老齢にて更に武威を増したソルカン・シラに文句を付けられるほどの勢力がいなかったとも言う。
「これにて馬鹿どもが起こした騒ぎの始末もひと段落か。あとはアゼルとジュチの旅の道行きだけが気掛かりよな…」
ソルカン・シラの記憶にないほどあっさりと進んだ戦後処理が終わったあと、老齢の武人はそう呟いた。3桁近い数の人を殺めたとは思えないあっさりとした呟き。
だが一つ間違えれば、いまこの時の泣く者と笑う者の立場は逆転していただろう。それをよく理解しているが故にソルカン・シラの呟きは淡々としたものになった。この西方辺土の大地において、部族の興亡は驚くほどあっさりと起こりうる。今日の勝者となったカザル族も当然例外ではないのだ。
◇
ここに一つの部族があっさりと滅びを迎え、後に残るのは亡骸と僅かな痕跡だけ。部族の滅びを知る者は少なく、騒ぐ者は血の匂いに惹かれてやってきた禽獣ばかり。残酷な一幕もまたこの西方辺土の大地で起こるありふれた日常風景であった。
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